第13話:メイブの森・前
まだ太陽は昇っていない。遠くの空が薄っすら明るくなり始めた頃、シェリー、ヴァン、ライルの三人は村長の家を出て、目的地――メイブの森に足を踏み入れた。
夏とはいえ、鬱蒼と生い茂った森は空気が湿っており、長いローブを纏っていても肌寒く感じる。日は差さず、かろうじて前が見える明るさだ。そんな中を、大きな籠を背負ったライルが、鎧馬のカナリアに跨って進んで行く。シェリーはヴァンに身体を支えられた体勢で鎧馬のダイスに騎乗し、前を行くライルの背中を追っていた。
足元がぬかるんでいるからか、鎧馬の歩みは遅い。足場が不安定な分、速度が抑えられているからと、揺れがマシになることはなかった。後ろで支えてくれる太い腕がなければ、彼女の細い肢体はさらに揺れていたことだろう。
「シルバーベルの群生地は中心部に近いのよね?」
後ろのヴァンに尋ねれば「ああ」と肯定が返ってきた。
「魔獣……出てくるかしら?」
今こうして話している間にも、森に生息する魔獣が襲ってくるかもしれない。
かつてシェリーの義父だった人――シドニア商会の先代は魔獣に殺された。思い起こせば、シェリーの不遇な結婚生活が始まったのは彼の死がきっかけだ。だから、その人にだけは、人生を踏み躙られていない。恨みや、嫌悪感などの負の感情はなく、あるのは、父を失ってから生活を支えてもらった純粋な恩だけだ。
身近に魔獣に襲われて命を落とした人がいるため、魔獣の生息地に足を踏み入れた現状では、不安が胸に渦巻いている。ただの鳥が木の枝葉を揺らす音でさえも、彼女の耳は過敏に拾っていた。
不意に、腰に回っていた彼の腕に力が込められる。
「そう緊張すんな。魔獣は群生地には出てこねえ。なんでかあの辺りは、魔獣どころか生き物すら寄りつかねえ場所だからな」
「そうなの?」
「おう。だからこそ、精霊の世界への入口だなんだって言われてんだろ。だがまあ、群生地までのルートに出ない保証はないが」
そう言うと、ヴァンはハハッとおかしそうに笑った。冗談混じりの声の響きに、思わずシェリーは溜め息を漏らして――気づく。自然と緊張がほぐれていた。
「……安心させたいの? それとも不安にさせたいの?」
「ん? そりゃあ、もちろん安心させたいに決まってんだろ……とはいえ、不安で甘えてくれんなら、それもそれで悪くねえが」
「ばか。変なこと言わないで」
魔獣が棲む森を進んでいるのよ、とシェリーは腹の前に回った手を軽く叩く。
「どっちにしたって杞憂だ。魔獣もバカじゃねえからな。基本的に縄張りを侵したりしなけりゃ、自分より強い奴らを襲うことはねえよ」
「え?」
「魔獣のっつーより、獣の本能ってやつだ。火は避けるし、襲う奴も選ぶ」
「……知らなかったわ。人間は襲われるものだって、思ってた」
「ほとんどの奴がそうだろうよ」
魔獣と偶発的に出会った時点で、それは、その魔獣よりも弱いということだ。敗北して殺されるか、命からがら逃走に成功するかの、どちらかになる可能性が高い。そうであるのなら、商人であった義父や積み荷を乗せた行商隊が襲われ、命を落としたのは必然だったのだろうか。
(お義父さんたちの、護衛は……)
普通であれば輸送に護衛をつける。襲撃してきた魔物は護衛よりも強くて、敵わなかったのかもしれない。あるいは、もしかすると最初から護衛などいなかったのか。護衛もタダではない。資金繰りに困っているとは聞いたことがなかった。けれど先代の死後、一気にシドニア商店の経営が火の車になったことを思えば、あながち的外れな考えでもないのかもしれない。
(なんにしても――)
全ては、今さらだ。心のやわい部分も自尊心も散々傷つけられて、そのまま固まってしまった傷は、埋まらず、薄まらず、未だに残っていた。思い出してしまった記憶と感情に、だんだん気分が重くなっていく。それを振り払うかのように、シェリーは後ろの彼に体重を預けた。
「ん? 疲れたか?」
「……ええ、少し」
「そうか。まあ、しばらく道はこのままだ。楽にしてな」
耳に届くヴァンの声が、妙に心地いい。もっと聞いていたくて、彼が口を閉じてしまわないように話しかけた。話を戻すように「魔獣は無差別に襲ってこないのね」と言えば、ヴァンが「ああ」と言葉を続ける。
「その点、魔獣の氾濫が厄介なのは、そういう獣の本能がなくなるからだ。ただ破壊衝動や補食衝動に支配されて獣や人間を食い漁る。相手が自分より強くても関係ねえ。襲いかかってきやがるからな」
「魔獣の氾濫が起きている時の魔獣は、決して退かないって聞いたことがあるわ」
「ああ。前にしか進まない」
「……怖いわね」
「家でジッとしとけ。そうすりゃすぐに終わる」
自分の身を案じて、怖いのではない。最前線に乗り込むであろう、少年のことを思っての感情なのだ。だが、それを口にすることはない。シェリーはヴァンの声を聞くためだけに取り留めもない会話を続けながら、自身の身体を支えてくれる腕に、身を任せた――
――どのくらい進んだのだろうか。ヴァンの言った通り、実力者の冒険者を避けているのか、森の深い部分まで進んでも魔獣が姿を見せることはなかった。
流れの早い渓流を渡って、さらに奥へ進んで行く。同じ景色に見える森の中で迷わずに済んでいるのは、村長が持たせてくれた小型の羅針盤のおかげだ。針は森の中央に座す巨石を差している。村側の入口から巨石に向かって進むと、シルバーベルの群生地が石よりも少し手前に位置しているとのことだ。
(不思議……)
鬱蒼と木々が茂るメイブの森は、変わり映えのしない風景が続いていたが、奥へ進むにつれて周囲の景色が変わっていった。川や池などの水場を頻繁に目にするようになり、見えずとも、緑の向こうから水の音が聞こえてくる。強い風が吹くとわずかな木漏れ日が差し、きらきらと空気を輝かせていた。増えてきた川などの水面に反射しているのだろう。
正確な時間は定かでないが、村長の家を発って数時間が経過した。森の中にいてはわからないけれど、空高くに日が昇っているのかもしれない。
「オヤジ!」
先を行くライルが鎧馬――カナリアの歩みを止めた。
「その先だ!」
前方を指差す彼の横に、ヴァンが鎧馬のダイスをつける。二頭の魔獣はぶるると鼻を鳴らすと、その場で動きを止めた。
「なあ、オヤジ。カナリアはこれ以上先には行きたくないみたいだ」
「だろうな。シルバーベルは魔獣を――生き物を寄せつけない。使役しててもコイツらは魔獣だ。これ以上、進みはしねえよ。カナリアとダイスは俺が見とくから、お前さんらで採取してこい」
「え!?」
声を挙げて驚く息子に、ヴァンは器用に肩眉を上げた。
「驚くこたぁねえだろ。勉強させてもらってこい。薬草だのなんだの、植物採取の知識はシェリーのがある。冒険者として生きてくなら、覚えておいて損はねえ」
「……わかった。シェリーさん、い、行こう」
「ええ」
シェリーはヴァンの手を借りて鎧馬を降りる。ライルは少し緊張した面持ちだったが、不思議と不安は覚えない。大きな籠を背負った背中が普段よりも頼もしく見えた。シェリーはひらりと手を振るヴァンに背を向けると、ライルの一歩後ろをついて、シルバーベルの群生地へ向かった。
水場が多く湿度が高いからか、足元は苔生している。羅針盤が指し示すほうへ真っ直ぐ――ライルに手を引いてもらいながら、三メートルほどの高さの土手を登って行く。ゴツゴツした大きな岩を足場に、湿った土や苔に足を取られないように気をつけて登れば――
(ここが――)
登り終えた先には、辺り一面に鈴の形をした銀色の花が咲き誇っていた。地面を埋めつくすほどの花が咲いているのに、甘く華やかな香りはまったくしない。ただただ、森特有の緑の香りと、濡れた土の匂いがするだけだ。足先が花弁に触れるとシルバーベルはふるりと揺れ、その動きが伝線するかのように隣の花も揺れた。
「鈴の音がする……」
ライルが呟く。
「シルバーベル――銀の鈴って呼ばれているのは、見た目だけが理由じゃないのよ。おしべが震えて、花弁の中で音を反響させているの。ひとつひとつの音は微かだけど、これだけの数が一斉に震えると……綺麗よね」
「うん……」
ライルはじーっと目の前の光景に魅入っていた。目を開けたまま、耳を澄ませているようだ。普通は目を閉じそうなものだが、護衛任務中であることを念頭に置いての行動なのだろう。
「ライルくん」
「っ、なに!?」
「まずはバーナヌの木の葉っぱを用意しましょう」
「バーナヌ……」
「そう。はい、グローブつけて」
「う、うん」
革のグローブをライルに渡し、シェリー自身も装着する。周囲を見渡して目的の植物――バーナヌを見つけると、ライルをつれてその場を離れた。
バーナヌの木は葉が大きい。一枚の葉の大きさは、成人男性が手を思い切り開いて四つ並べたほどだ。シルバーベルとは生息地が重なっている植物で、この場所――シルバーベルの群生地をぐるりと取り囲むように、大きな葉を枝垂れさせたバーナヌの木があった。
「できるだけ若い葉がいいわ」
「若い……? どうやって、わかるの?」
「触ってみて柔らかいのが若い葉よ。あと、色が少し薄いでしょう? 古いほど濃い緑になるの。付け根のところを真っ直ぐ切り取って」
「わ、わかった!」
シェリーは採取用のナイフを手に、ライルとふたりで大きな葉を切り取っていく。ちらりと土手の下――残してきたヴァンを見れば、鎧馬たちの鼻先を撫でて戯れたり、月光水草の煙草を吸ったりしていた。こちらを気にしている様子は一切ない。シェリーも彼を見るのをやめて、ライルと共に葉を採取した。
何枚かの葉を用意すると、シェリーはライルとふたり、シルバーベルの傍らに膝をつく。彼女の手元にライルの真剣な眼差しが向けられていた。懸命に学ぼうとする姿勢に、かつての自分が重なる。シェリーは丁寧に説明をしながら、手を動かしていった。
「シルバーベルの根を傷つけないように、手で掘っていくの。上を削ったあとは、できるだけ慎重に……掘るというよりも、根の周りの土を払う感覚かしら」
土の表面は少しだけ硬い。力を入れて掻いたあと、優しく土を退ければシルバーベルの根が見えてくる。
「糸みたいだ……」
ライルがふと呟く。
「そうね。根っこって言うよりも、銀の糸みたいでしょう? 乾燥させると白くなってしまうけど、掘り返してすぐは銀糸に見えるの」
「これが……上級魔力回復薬の、材料になる……?」
「ええ。乾燥していても使えるけれど、生のままのほうが効果が上がるわ。だから、保存は土ごとするのよ」
広げたバーナヌの葉に、シルバーベルを三株、土がついたまま置く。家から用意してきた小瓶のコルクを開けた。中にはアロエールという植物の粘液が入っている。小瓶を逆さにし、黄みがかった粘液を土に染み込ませた。
「ん……アロエの、におい……」
「アロエールよ。普通のアロエでもいいけど、アロエールのほうが粘液が多く出るわ。シルバーベルの根の乾燥を防いでくれる上に、一緒にしていると根の効能も上がるの。最後にレモングラスを――」
用意していたレモングラスを一本同梱すると、バーナヌの葉でくるむように包む。端同士を合わせ、漏れないように麻紐できつく結んだ。
「わかった?」
「うん」
「じゃあ、やってみて」
彼が手を動かす。ゆっくりとした手つきだが、手順は説明通りだ。丁寧に、シルバーベルを傷つけないようにしている。もともと手先が不器用な子ではない。最初こそ戸惑っているようだったが、時間をかければ、シェリーのお手本と遜色のない形で採取を終えた。
「ど、どう?」
おどおどと、不安げに見上げてくる少年に、シェリーは笑みを向ける。
「上出来だよ」
「本当!?」
「うん。この調子で続けよう」
「わ、わかった! おれ、いっぱい採る……っ!」
シェリーとライルは協力して、シルバーベルをバーナヌの葉で包んでいった。品質保持のためとはいえ、この手法で採取すると、小さな花が非常にかさ張る荷物となる。ライルが背負っていた大きな籠はすぐいっぱいになった。バーナヌの葉が緩衝材も兼ねているとはいえ、重さがあるため、重ねすぎれば潰れてしまう。
「もっと、おっきな籠、持ってくればよかった……」
惜しそうな顔でライルが言う。シェリーは口を尖らせる少年冒険者に「充分な量よ」と微笑みながら伝えた。それでもまだ、後ろ髪を引かれた様子の彼をつれて、シェリーはヴァンが待つ場所へ戻るのだった――。




