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冬の戯れ  作者: 有月 晃
Tercer Capítulo / 第三章
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3. リーマンショック前夜

2008.09.14 13:46



 この街には珍しい瀟洒な外観のマンションを訪れて、コンシェルジェに来意を告げると「しばらくお待ちください」との言葉とともにソファを示された。


 ふんだんに自然光が取り入れられた吹き抜けのエントランスホールの中、調度品が妙に白々と浮かび上がっていて落ち着かない。いや、落ち着かないのはもちろんそれだけが理由ではないのだが、そこを意識してしまうとこの後、自然に振る舞える自信がないからあえて無視する。


 しばらく待つと、黒いロングスカートにシャツ姿のアスティがホールの向こう側に現れた。ダークトーンでまとめられた服装のせいか心なし、やつれて見えてしまう。近くのカフェか、もしくはこのエントランスホールで話をするものと思っていたが、意外にも彼女はそのままオレを自室へといざなった。


 扉を開くと、まず長い廊下が目に入る。

 何十足も靴が並びそうな玄関の隅、アスティのサンダルの横に、オレはスニーカーを脱いだ。


 ここは、アスティの家……と言うと少し語弊があるか。正確には、アスティの勤め先が、日本赴任期間中の住まいとして彼女に用意した社宅だ。ただ、本人の「ここには眠る為に帰るだけ」という言葉を裏付けるかの様に生活感は全くない。


「ごめんなさい、おもてなしの用意が出来てなくて」

「いや、そんなのいいよ」


 前回会って以来、数週間ぶりに彼女の姿を見た。やはり仕事が大変なのだろうか、端正な顔には隠しきれない疲労が色濃く滲んでいる。


「今日も急に来てもらって。予定なかった?」

「大丈夫だよ。日曜のこの時間は……」


「毎週、君の為に予定あけてあるから」とは口に出来ず、黙って彼女の手に土産を渡す。住宅街の中にあるケーキ屋のチーズケーキで、知る人ぞ知る逸品だ。微かに喜色を浮かべた彼女は「紅茶を用意する」と言って、カウンターキッチンの向こう側へ回っていった。


 広い空間の真ん中で、ぐるりと回りを見回す。ファミリータイプの物件なのだろうか。家具がほとんど置かれていないせいで、余計に部屋が大きく感じられた。何部屋あるのかわからないが、彼女はこのカウンターキッチンつきのリビングにデスクを持ち込んで、生活の場として使っているらしい。空調の良く効いた空間に、食器の触れる音が小さく響く。


「ここ以外に使ってるのはバスルーム、トイレ、ベッドルームだけ。もったいないでしょう」という言葉にどう答えたものかわからず、曖昧に頷くオレ。手持ち無沙汰なので窓際に寄って、カーテンの隙間から外を見てみる。このマンションは山腹の上方に位置しているので、商店街のアーケードを中心とした街が一望出来た。


 やがてカウンターに紅茶とチーズケーキが並ぶ。良い香りが漂ってきた。茶葉にこだわりがあるのだろうか。スツールに掛けて、紅茶に蜂蜜を落とす。彼女は猫舌らしく、両手で挟んだマグカップをしばらくフーフーしていた。チーズケーキを少しだけ口に含むと、フワリと笑みが広がる。


「これ、凄く美味しい」

「良かった。有名なんだよ、この店のチーズケーキ。まぁ、この街だけの話だけど」

「いくら?」

「え?」

「このケーキの値段」

「んー 500円しなかったと思うけど。どうして?」


 オレの質問に対して彼女は、疲れた表情で肩を竦めただけだった。しばらく、紅茶とケーキを黙って口に運ぶ。彼女は一口ごとに目を閉じて、ゆっくりと味わっていた。


「こんな時なのに、食べ物を美味しく感じるって不思議ね」

「やっぱり大変なの、仕事?」

「……わからない。誰も、把握してないの」

「え?」

「クライアントがこうむる損失、自社で発生する損失、どちらも正確には把握し切れてない」

「そんなことって……」

「どこまで損害が膨らむのか、もう誰にもわからない」


 唇を噛み締めて何かに耐えている彼女。やがてポツリポツリと、自分のことを話し始めた。


 彼女の父親はスペイン出身の国際バンカー、母親はノルウェー出身の大学教授で、二人は大恋愛を経て国際結婚していた。


 なかなか子供に恵まれなかった二人は、中国の孤児院から養子を迎える。北欧の中流家庭では珍しいことではないらしく、この人物が彼女の義理の兄にあたる。


 そして数年後、彼らは驚きとともに、諦めかけていた子供を授かることになる。家族に加わった待望の赤ん坊はアストリッドと名付けられ、兄とともに大事に育てられた。アスティの兄は貧しい生まれではあったが明晰な頭脳と忍耐力を持っていたらしく、学校では常にトップクラスの成績を維持。そんな年の離れた兄を慕うアスティ。兄妹仲も良く、当時はご近所から羨まれるような円満家庭だったらしい。


 しかし、優秀な成績で経済学を修めた彼女の兄が、父親と同じ道を進み始めた頃、両親が離婚。父親と兄が時を同じくして家を去り、母親と彼女だけがノルウェーに残ることになった。そこからの生活を彼女は多く語らなかったが、やがて父親や兄と同じ道を選ぶことになるアスティと母親との間に少なからぬ軋轢あつれきが生まれたことは想像に易かった。


 兄や父親への抑えきれない愛情。母親と訣別してまで二人と同じ道を選んだのに、ディーラーにはなれずに金融商品の開発部門に配属されたこと。そこで磨耗してしまった心身を癒す為、兄の計らいで本部を離れて日本に来ていること。


 話が佳境に差し掛かるにつれて大粒の涙が頬を伝ったが、彼女はそれを隠そうともしない。こんなに多弁なアスティは初めて見る。ほとんど休む間もなしに一時間近く話し続けると、彼女はそのままキッチンのカウンターに突っ伏してしまった。


 大きなガラス窓から差し込む夕陽が室内を琥珀色に染めて、彼女の嗚咽だけがリビングに虚しく響く。

 生まれた国を遠く離れて一人、そんな姿をさらす彼女はあまりにも無防備で、オレは必死に言葉を探す。


「アスティ、何て言えばいいのか… 市場マーケット関係者にとって、いまが大変な時期だというのはわかるよ」

「……」

「たださ、こんなの何十年に一回レベルの危機だよね。それに、サブプライム住宅ローン問題って、別に君が起こした訳じゃないんだし。だからさ、とにかく今さえ踏ん張って乗り切ってしまえば、きっとまた良い時期が……」

「違うの」

「え?」

「私が組み込んだの、あの毒虫みたいなサブプライム住宅ローン債券を」

「……それって」

「私が開発に関わった商品の話よ」


 彼女の言葉を反芻する。彼女が開発に関わった商品。ヴィクトルによると、それが飛ぶように売れたお陰で、投資銀行の上層部にも彼女は一目置かれる様になったと言っていた…


「でも、客だって納得して買ったんだよね、その商品を。そういう金融商品を買う時って、何かこう注意事項みたいなのを互いに確認してサイン交わすんじゃないのかな。だから、君が責任を感じる必要は……」

「そうね。みんなそう言うわ。きっとインベストメントバンカーとしてやっていく為には、そういう……ある種の割り切りが必要なんだと思う。私にはそれが欠けてるみたい。決定的に」


 ふらりと立ち上がった彼女はゾッとするくらい顔色が悪くて、その美しさのせいで幽鬼の様だった。


孝臣たかおみ、一つお願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「オレに出来ることなら」

「私が眠るまでそばにいて」

「それは…… ちょっと自信ないかも」

「バカね。あんまり自惚れさせないで。でも、貴方しか頼める人がいないの。お願い」


 カーテンを引いたベッドルームは、闇に包まれていた。下着だけを残して、シーツに潜り込む彼女。猫の様に丸められた背骨の感触を手のひらでなぞると、くすぐったそうに身をよじる。


 肩に手を置いて、彼女の呼吸に合わせてそっと叩く。指先に伝わる肩甲骨の硬さ。やがて、微かな寝息が聞こえ始めた。


 翌日、週が明けて月曜日。米国の大手投資銀行、リーマン・ブラザーズが連邦倒産法第11章の適用を申請、その100年以上に及ぶ歴史に終止符を打った。


 市場マーケットの混乱は次に飲み込む獲物スケープゴートを求めて、まだ収束する気配を見せない。

 最初はもっと柔らかいシーンになるするつもりだったのに。書いてるうちに、段々重くなってきてしまい…


 まぁ、書けば書く程、当初想像してたものから離れていくのはいつものことなのですが。

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