第63話 誰も信じない女の家に招かれて
かなめはエレベータのボタンを押しながら、ぽつりとつぶやいた。
「茜ねえ……あの親子、どうにも苦手でさ。何を聞いてものらりくらり。暖簾に腕押しってやつだ」
エレベータの到着を待つ間、誠は人気のない一階ロビーを見回していた。冷たい大理石の床がやけに広く感じられる。
「……共通点は、二人とも弁護士か」
かなめはふと笑って、肩をすくめる。
「『弁護』しないで、うまく煙に巻くって意味じゃ詐欺と同じだよな。まあ、アタシみたいな暴力バカよりはよっぽど『出来てる』わ。認めたくねえけどな」
かなめはそう言いながらエレベータのボタンを押した。その間も誠は静かな人気の無い一階フロアーを見回していた。すぐにその目は自分を見ていないことに気づいたかなめの責めるような視線に捕らわれる。仕方がないというように誠は先ほどのかなめの言葉を頭の中で反芻した。
「まあ、茜さんの考え方は隊長と似てますよね。理詰めと言うか言葉に矛盾があるような無いような……言いくるめられてるこっちが悪いって気分になってきます」
誠も嵯峨や茜に言い負かされてばかりなので二人の事はどこか気が許せずにいた。
「気をつけな。下手すると茜の奴は叔父貴よりたちが悪いぞ……叔父貴は人間失格で攻めどころ満載だが……茜は完璧超人だからな。付け入るスキがねえんだ。そう言う奴が正論らしいことをさも正論の様に言ってきやがる。少し考えれば詐欺同然の事でもまるで正論のように聞こえる。まあそれで飯を食ってきたんだから当然かもしれねえがな」
かなめもどちらかと言うと理論派と言うより感覚派という点では誠と共通していたので緊張した面持ちで誠にそう言ってきた。
「確かに司法試験とキャリア試験を受かったエリートで……家事も出来てあの『駄目人間』の隊長の管理までしてる。スーパーウーマンじゃないですか。確かに隙が無い……しかもどう見ても外人さんの美人さん。ツッコミどころが無いのがツッコミである僕の存在意義に関わってくるところですから……今後気を付けます」
茜に好感を持っている誠と違い、かなめは茜を信用していないようだった。
「それが信用置けねえんだ。エリートなんてみんなそうだ。腹の中では何を考えてるか一向に分からねえ。特に軍とか役人のエリートは性格が悪いと相場が決まってるんだ。アタシの妹……かえでって言うんだがアイツも甲武海軍きってのエリートだがこいつは性格が悪い上に変態だ。どうにも始末が置けねえ」
かなめのエリート嫌いは徹底しているのは誠も知っていた。
「でも、茜さんって、良い人ですよ?」
誠は真面目な顔で言った。
「ちゃんと送り迎えしてくれたし……隊長なんて自転車しか持ってませんから、そもそも比べるのも失礼かもですが」
かなめは鼻で笑った。
「『いい人』ねえ……信用ってのは、外見や仕草で測るもんじゃねえんだよ。特にエリートはな」
誠は口をつぐんだ。確かに嵯峨に対しては、どこかで信用できないものを感じていた自分を思い出す。
「まあ、あの『駄目人間』が信用置けないのは事実としてだ。それをうまく操縦するってのはそれを上回る『悪党』じゃないとできない。そう思わねえか?」
意外なことをかなめは言い出したので誠は少し戸惑った。
「確かに一般論としてはそうかもしれませんけど……会った感じでは茜さんは良い人ですよ」
誠は正直な茜の印象を語った。
「そこが信用置けねえって言ってるんだ。外面と内面。それが一致してるとは到底思えねえのが茜の特徴だ。何を考えてるのか一向に分からねえ。言ってることもあまり信用してねえよ、アタシは」
司法試験を14歳でパスし、キャリア試験まであっさり通過した天才相手にかなめはどうも自分が利用されるかもしれないと言う恐怖感を持っているようだった。
「そんな、人間関係はまず信頼関係から生まれるんですよ。少しは信じてあげましょうよ。最初に会った時もそうですけど、西園寺さんの外面の悪さ。損してますよ」
誠はなんとか頑ななかなめを説得しようとした。
「アタシの外面なんてことはどうでも良いんだ。それよりオメエは叔父貴を信用してるか?」
そんな誠の痛いところをかなめは突いてきた。確かに誠は初対面の時から嵯峨を信用していなかった。
「そう言われると……何も言えないです」
誠は正直にそう答えた。
「そうだろ?エリートを信頼すると馬鹿を見る。それが世の中の真理だ。エリートはどこでも性格が悪いと相場が決まってるんだ」
かなめは勝ち誇ったかのようにそう言うと目の前の真新しい立派なマンションに足を踏み入れた。
エレベータが開きかなめが乗り込む。階は最上階の9階。誠は人気の無さを少しばかり不審に思ったが、あえて口には出さなかった。たぶんかなめのことである。このマンション全室が彼女のものであったとしても不思議なことは無い。そして、もしそんなことを口にしたら彼女の機嫌を損ねることはわかっていた。
「どうした?アタシの顔になんかついてるのか?このマンション、ほとんど空き部屋ばっかなんだ。隣も上も居ねえよ。甲武一の貴族のアタシの持ち物だと知った資産家が安全物件だと言って投資用に抑えてるんだよ。まあ、アタシとしてもそれで酒代が稼げたんだから御の字だな」
「そうなんですか……投資用のマンション。僕には縁が無いです」
誠がそんな言葉を返す頃にはエレベータは9階に到着していた。
かなめは黙ってエレベータから降りる。誠もそれに続く。フロアーには相変わらず生活臭と言うものがしない。誠は少し不安を抱えたまま、慣れた調子で歩くかなめの後に続いた。東南角部屋。このマンションでも一番の物件であろうところでかなめは足を止めた。
「ちょっと待ってろ」
そう言うとかなめはドアの横にあるセキュリティーディスプレイに10桁を超える数字を入力する。自動的に開かれるドア。自動で開いたドアの向こうには、意外にも殺風景で生活感のない空間が広がっていた。
「……遠慮すんなよ」
かなめはすでにブーツを脱ぎ、灰皿を手に取っている。誠は少しだけ戸惑いながら、土足厳禁のフローリングに足を踏み入れた。
足元には埃が舞い、鼻腔にはタバコと酒の匂いがわずかに漂っている。誰も入らない部屋というより、誰も入れたくなかった部屋。誠にはそんな印象を受けた。
ドアが閉まると同時に、染み付いたタバコの匂いが誠の鼻をついた。靴を脱ぎながら、誠は周りを見渡した。玄関の手前のには楽に八畳はあるかという廊下のようなスペースが広がっている。開けっ放しの居間への扉の向こうには、安物のテーブルと、椅子が3つ置かれている。テーブルの上にはファイルが1つと、酒瓶が五本。その隣にはつまみの裂きイカの袋が空けっ放しになっている。あえてかなめらしいところと言えば彼女の愛銃スプリングフィールドXDM40の専用弾である40S&W弾の空き箱が転がっていること位だった。
『下手に片付いてる部屋より、こういう方が『西園寺さんらしい』気がする……なんて言ったら怒られるかもしれないけど』
奇麗好きで荷物の多い部屋を片付けるのが半分趣味である誠はそんなことを考えながら何もない部屋を見回した。
「あんま人に見せられたもんじゃねえな……どうせ誰も来ねえからな。たまにカウラのお節介がアタシの健康が気になるからって来るがアイツもアタシの部屋に入ると嫌な顔をしやがる。アイツの部屋も殺風景なことに関しちゃアタシとどっこいだって言うのによ」
そう言いながらかなめはすでにタバコに火をつけて、誠が部屋に上がるのを待っていた。
「ビール、飲むか?」
そう言うと返事も聞かずにかなめはそのまま廊下を歩き、奥の部屋に入る。ついて行った誠だが、そこには冷蔵庫以外は何も見るモノは無かった。
「西園寺さん。食事とかどうしてるんですか?」
「ああ、いつも外食で済ませてる。その方が楽だからな」
そう言ってかなめは冷蔵庫一杯に詰められた缶ビールを1つ手にすると誠に差し出す。
「空いてる部屋あったろ?あそこに椅子あるからそっちに行くか」
そう言うとかなめはスモークチーズを取り出して台所のようなところを出る。
「別に面白いものはねえよ」
居間に入った彼女は椅子に腰掛けると、テーブルに置きっぱなしのグラスに手元にあったウォッカを注いだ。そのグラスは何日も洗われた様子はなく口の周りに汚れた曇りが見えていた。
「まあ、冷蔵庫は置いていくつもりだからな。……問題は、隣の部屋にあるブツさ」
かなめは口に一口分、ウォッカを含む。グラスを置いた手で、スライス済みのスモークチーズを一切れ誠に差し出す。誠はビールのプルタブを切り、そのままのどに流し込んだ。
「隣は何の部屋なんですか?」
予想はついているが誠は念のため尋ねる。
「ああ、寝室だ。ベッドはあの狭い部屋には入りそうに無いから置いていくから。とりあえず布団一式とちょっと必要なファイルがあってな」
今度はタバコを1回ふかして、そのまま安っぽいステンレスの灰皿に吸殻を押し付ける。
「まあ、色々とな」
かなめは今度はグラスの半分ほどあるウォッカを一息で飲み下してにやりと笑う。
「しかし……」
誠はそんなかなめの表情を見つめながらビールを口に含んだ。部屋の埃がビールの上に落ちるのが見える。
「だから……人に見せるような部屋じゃねえんだよ」
かなめはそう言うと頭を掻きながら立ち上がり、手にしたウォッカのグラスをあおった。
立ったままかなめは口にスモークチーズを放り込んで外の景色を眺める。窓には吹き付ける風に混じって張り付いたのであろう砂埃が、波紋のような形を描いている。部屋の中も足元を見れば埃の塊がいくつも転がっていた。
「……でも、こういうの、なんか落ち着きます」
誠は静かに言った。ビールの泡の上に、どこかから舞った埃がひとつ、そっと落ちた。
かなめはその言葉に何も返さず、空のグラスを揺らしながら窓の外を見ていた。
風に揺れる砂埃が、波紋のように窓を叩いていた。




