第59話 掌の上の正義
「そんな……忘れるだなんて……素晴らしいことをおっしゃいますわね、かなめお姉さま。いつもは暴言しかはかない口にそんな使い道があるなんて、私存じ上げませんでしたわ」
かなめがその声に血色を変えて振り返った先には朱色の留袖にたすきがけと言う姿の茜が立っていた。誠は、その優雅な口調に込められた見えない圧力に思わず姿勢を正した。
「脅かすんじゃねえよ、あれが来たかと思ったじゃねえか!おい、その上品な口ぶりやめろ。寒気がするんだよ」
上品な茜のしゃべり方とおなじしゃべり方をする人間にトラウマがあるようで、かなめは明らかに茜を怖がるようなそぶりを見せた。
「ああ、かなめさんの女学校時代の数少ないお友達の事ね。そんなにお嫌いなのですか?一応かなめさんに友達と呼べるような方はあの方くらいなのに」
明らかにかなめをからかうことが楽しいと言うような表情を茜は浮かべた。かなめはその表情が憎らしいと言うように口をへの字にした後、落ち着きを取り戻そうと深呼吸をしている。
「あのなあ、アタシにゃあそう言う趣味はねえんだよ!この前のGⅠもアイツのせいで大負けだ……全く疫病神だよアイツは」
タバコを携帯灰皿に押し込みながらかなめが上目遣いに茜を見る。
「そうですわね。……それにかなめさんは神前君のこと気に入ってらっしゃるようですし。今更昔の友達なんて必要ないのかも知れないわね」
茜は壁を丁寧に雑巾で拭きながら含み笑いを浮かべてそう言った。
「ちょっと待て、ちょっと待て!茜!」
小悪魔のような笑顔を浮かべると茜はかなめの汚れた雑巾を取り上げてバケツに持ち込んで洗い始めた。
「なんでオメエがいるんだ?オメエに手伝ってくれとは頼んでねえぞ」
かなめは茜の存在を叔父で部隊長でありながらどこか信用置けない嵯峨と同類視しているので、どうしても茜に対しては強い警戒心を抱いていた。
「かなめさん。昨日、引越しをするとおっしゃってませんでしたか?これからお世話になるんですもの、お手伝い位させていただこうと思って」
茜は慣れた手つきで畳の目にそってよく絞った雑巾を動かす。
「お前、東都からだろ?こんな辺鄙な場所、来るだけでも大変だったろうに」
冷や汗を流しながらかなめが口を開く。
「お父様に前から部屋を用意させていただきましたので、すでに終わってますわ。それにここに常駐するわけではありませんもの。平気ですわよ」
すばやく雑巾をひっくり返し、茜は作業を続けた。
「でもいきなり休みってのは……」
そう言うかなめに茜は一度雑巾を置いて正座をして見つめ返した。
「かなめさん……いや、西園寺大尉」
茜は視線を畳から座り込んでいるかなめに向ける。
「なんだよ」
突然の茜の正座に不思議そうにかなめが応える。
「皆さんには私達、法術特捜の予備人員として動いていただくことになりましたの。このくらいのお手伝いをするのは当然のことでなくて?」
沈黙する部屋。かなめはあきれ返っていた。誠はまだ茜の言葉の意味がわかりかねた。
「そんなに驚かれること無いんじゃありませんの?法術に関する公式な初の発動経験者が現場に出るということの形式的意味というものを考えれば当然ですわ。テロ組織にとって初の法術戦経験者の捜査官が目の前に立ちはだかると言う恐怖。この認識が続いているこの機に法術犯罪の根本的な予防の対策を図る。このタイミングを逃すのは愚かな人のなさることですわ」
茜はさすが弁護士上がりと思わせるほどの説得力でかなめにそう説いた。
「そりゃあわかるんだよ。あんだけテレビで流れたこいつの戦闘シーンが頭に残ってる時に叩くってのは戦術としちゃあありだからな。でも……」
戸惑うかなめに向けて茜は余裕のある笑みを浮かべて畳みかけた。
「法術特捜としての活動は、私のお父様が前々から計画していたもので司法局上層部もすべて了承済みの事ですわ。誠さんが『法術』の存在を宇宙に知らしめた『近藤事件』後の開き直ったような法術テロ組織の活発化する情勢を受けて、いよいよ実働段階に入ることになりましたの。それに法術犯罪は国家やテロ組織の専売特許ではありません。法術の存在を知った異常な倫理観に縛られた異常者がその力で犯罪行為に至る可能性は否定できません。それを考えるとそれに対応する専門組織の編成はあまりにも当然の事だと思われません?」
かなめは不思議そうな顔で覗き込んでくる茜の視線から逃れるようにうなだれた。
「ということはカウラさんも入るんですか?」
今度は窓を拭きながら誠が尋ねる。
「当然ですわ。あの方には第一小隊をまとめていただかなくてはなりませんし」
そう言うと茜は再び良く絞った雑巾で丁寧に畳を撫でるように拭く。
「結局、アイツの面を年中拝むわけか……あの仏頂面を年中拝むとは……」
かなめは少しうんざりしたような笑みを浮かべるとタバコの煙を吐いた。
「他にも本人の要請でアメリアさんも状況分析担当で編入予定ですわ。それについても何か問題がありまして?」
しばらく茜の言葉にかなめはせき込んでタバコの煙を吐き出した。しばらくしてその目は楽しそうに自分を見つめている茜へと向けられる。
「まじかよ……アメリアまで加わるのかよ……せめてパーラあたりになんねえ?アメリアの奴余計なことばっかしやがるから」
かなめは茜の言葉にただ茫然と立ち尽くしていた。
「嘘をついても仕方ありません」
茜はそれだけ言うと慣れた調子で着々と畳を拭いていた。
かなめは一瞬、茜の言葉、『アメリアが誠達とともに法術特捜の捜査員を兼務する』という意味を理解できないでいた。
しかし茜にまじまじと見つめられてようやく事態を把握した。
「なんだとぉ……!」
かなめの叫び声が響き、ドアからうわさの人アメリアが顔を覗かせる。
「なにやって……」
アメリアはそれだけ言うと言葉を続けることは出来なかった。自分の顔をこれでもかというくらい突きつけているかなめにアメリアはただ息をのむ。
「そんな……私に気があるなんて……かなめちゃんには……かえでちゃんがいるじゃないの」
アメリアはわざとらしい恥じらうような表情を浮かべてかなめを見つめた。
「そういう話じゃねえっての!お前、本気でボケるな!」
そうかなめを見ながらアメリアは目を閉じてキスを待つような格好をする。
「そう言う話をしてるんじゃねえ!本当か?こいつの言ったことは、本当か?」
「話が見えないわよ!茜さんが何言ったのよ!」
助けを求めるようにアメリアは誠に視線を投げる。
「法術特捜の司法局実働部隊からの協力者のメンバーにアメリアさんが入っているかということですよ」
誠の言葉にアメリアは余裕の笑みを浮かべていた。
「そうなんだけど、何か問題があるの?」
その挑戦的な口調に、かなめは思わず引き下がった。
「こんちわー!何でも屋です……って、どういうこと」
タイミングを計ったかのように島田が部屋に工具を持って現れた。ぴりぴりした雰囲気。にらみ合うアメリアとかなめ。助けを求めるように島田は誠に目を向けた。
「ごめんなさいね茜ちゃん、ガサツ娘のお手伝い頼むわ。島田君!こっちのクーラーは後回しにして次はカウラの部屋のにしましょう」
アメリアはいつものようにころりと態度を変える。
「じゃあ西園寺さん、終わったら呼んでください」
右手に持ったドライバーを器用に手の上でくるくると回すと、島田はそのまま消えていく。
「お前も一緒に消えろ!」
かなめは二本目のタバコに火をつけて、茜が畳を拭くのを眺めている。
「かなめちゃんも少しは手伝ってあげれば良いのに。あなたの部屋なのよ」
アメリアはそう言うと、手にした雑巾をバケツの中で洗う。かなめはそんな様子を不承不承見守っている。茜もアメリアもかなめのそんな態度には慣れきっていると言うように、黙って畳を拭き始める。
「後は窓ガラスだけですね。ちょっと待っててください」
そう言うと誠は黒い汚れた水のバケツを持って廊下に出た。昼も近くなり、額の汗が部屋の埃を吸い込んで肌に張り付いているのがわかる。
『……知らないうちに組織の歯車にされている気がする。誰かが僕を動かしてる。けれど、それでも拒めない自分がいる……これがいわゆる『社会人』になると言うことなのか?少し違うような気がするんだけど……』
誠は自問自答しながら寮の洗い場の流し台に向った。
「神前君。大丈夫?」
水道の前でクーラーのフィルターを洗っているサラに声をかけられた誠は、汗を拭いながら洗い場に汚れた水を流す。
「まあ、大丈夫ですよ。もう少しで終わりそうな感じです。あとは窓だけですから」
「それじゃあこれがいるわね」
そう言うとパーラは新品の雑巾を二枚渡す。
「ありがとうございます。それにしてもすみませんねえ。二人とも休みを潰しちゃって」
誠はそう言うと空になったバケツに新しい水を注いだ。
「私達の方が言う言葉よ、それ。アメリアのことだから、絶対、これから誠君に迷惑かけるでしょうからね」
パーラのその言葉に、誠は乾いた笑いを浮かべる。
「それじゃあ行ってきます」
あまり待たせれば間違いなく雷が落ちると予感した誠はそのまま二人を置いてかなめの部屋に戻った。
誠は窓を拭き始めた。ただビルの影の窓なのでそれほど汚れは無い。
「手伝いますわよ」
声をかけてくる茜に首を横に振ると誠は仕上げのからぶきを始めた。
「ようやく終わったわね。誠ちゃんももうすぐみたいじゃないの」
部屋の中央でアメリアは部屋を見回した。茜は微笑んで静かに部屋を出て行く。かなめは相変わらずタバコをくゆらせている。アメリアは澄んだ色のバケツに新品の雑巾を落として絞る。
「ああ、暑いなあ。誠!島田の修理屋がどうなってるか見てきてくれよ」
かなめはそう言うと畳の上に大の字で体を横たえた。
誠はアメリアの部屋を通り過ぎてカウラの部屋に入った。踏み台に乗った島田がクーラーの前の部分を外してドライバーで中の冷却剤の流れている管を叩いている。
「お前、また便利に使われるな……いい奴ってのも考えもんだぜ」
誠は作業の手を止めて島田が言ったその言葉の意味を胸の奥に引っかけたまま、島田の作業が一段落するのを待っていた。




