第58話 掃除は畳から、人生はここから
「それじゃあ行くか」
カウラと誠も立ち上がった。ようやく決心がついたとでも言うように、菰田とヒンヌー教徒も誠を白い目で見ながらしぶしぶ誠のあとに続いた。
「菰田達!バケツと雑巾もう少し物置にあるはずだから持ってきてくれ」
食べ終わった弁当容器を片付けながら島田が叫んだ。仕方が無いという表情で菰田達ヒンヌー教団達が物置へ歩き始める。
「ほんじゃあ行くぞー」
投げやりにそう言うとかなめは歩き出した。アメリア、カウラもしぶしぶ誠のあとに続いた。誠も仕方なく通路に出た。当番の隊員はすでに寮を出た後で、人気の無い階段を上り続ける。
「しかし、ずいぶん使いかけの洗剤があるのね」
掃除用具を取りに行った整備班員が持っている洗剤の瓶を入れたバケツにアメリアが目をやった。
「ああ、これはいつも島田先輩が掃除と言うと洗剤を買ってこさせるから……毎回掃除のたびにあまりが貯まっていってしまうんですよ」
誠は仕方がないというように理由を説明した。
「ああ、あいつ。そう言うところはいい加減だもんな。機械となるとあんなに几帳面なのにそれ以外はまるで……ああ、アイツは犯罪者だったな。じゃあ仕方がねえ」
かなめは窓から外を眺めながらつぶやいた。マンションが立ち並んでいることもあり、ビルの壁くらいしか見ることが出来ない。とりあえず彼らは西館一階の目的地へとたどり着いた。奥の部屋にカウラが、その隣の部屋にアメリアが、そして一番手前の部屋にかなめが入った。
「なんやかんや言いながらあの三人。気があってるんじゃないの?」
ポツリとパーラがつぶやく。その言葉はいつものようにかなめ、アメリア、カウラに無視され、誠だけが聞いていて苦笑いを浮かべた。
「パーラさん。ベルガー大尉を手伝ってくんねえかな。俺はクラウゼ少佐の手伝いをするから。よろしく頼みますよ」
そう言うと島田は真ん中のアメリアの部屋に入ろうとした。
「私はどうせ手伝ってくれるなら誠ちゃんの方が良いなあ」
入り口から顔を出すアメリアをカウラとかなめがにらみつける。
「お前と誠を一緒にすると仕事しねえからな。アニメの話とか一日中してたら明日の引越しの手伝いしてやらねえぞ」
アメリアのさぼり癖はかなめも知っているのでそう言って脅しをかける。自分の持ち込もうとする荷物が誰かの手助けが必要なほど大量なことを自覚しているアメリアはここは素直にかなめの言うことに従うしかなかった。
「わかりました、がんばりまーす」
かなめに言われると、アメリアはやる気の感じさせない調子でそう言うとすごすごと引っ込んでいった。
「こっちこい。神前。テメエはアタシの部屋の掃除を手伝え」
誠は左腕を引っ張られて無理やりかなめの部屋に引きずり込まれた。誠にはいつも強引なかなめに逆らう度胸は無かった。
「とりあえず雑巾絞れ。掃除ってのはそうやって始めるんだろ?」
家事についてまるで知らないかなめは誠に雑巾の入ったバケツを突きつけてくる。誠はすぐに彼女が何もしないつもりなのがわかった。
「わかりましたよ!僕がやれば良いんでしょ!」
誠はとりあえず二枚の雑巾をバケツに放り込んで絞り始めた。かなめはその様子を見つめている。
「西園寺さんも少しくらいは手伝ってくださいよ。ここ西園寺さんの部屋になるんですよ。今住んでる家、誰が掃除してるんですか?」
かなめに手伝うように言っても無理とはわかりつつも、誠は自分で二枚目の雑巾を絞る。正直心の中の半分以上はかなめの行動には期待していなかった。しかし、思いもしないほど素直にかなめは搾った雑巾を受け取った。
「なんでアタシがオメエの言うことを聞かなきゃなんねえんだよ……まあ1回ぐらいは手伝ってやるよ。1回ぐらいはな」
かなめは雑巾を手に持つと、そのまま部屋の畳をやる気が無さそうにいい加減に拭い始めた。
「神前、聞いて良いか?」
1つ畳を拭き終わったかなめが起き上がり、手の上で雑巾をひっくりかえす。
「はい」
誠は壁についたシミを洗剤でこすって落とそうとしていた。
「オメエ自分の力をどう思ってる?二度も襲われてるんだ、それについてどう見るよ?」
かなめの言葉に誠の手が止まる。誠はとりあえず洗剤を置き、雑巾でシミのついた壁をこすり始めた。
「そうですね。何も知らない時の方が気楽だったかも知れませんね」
誠の言葉は彼の本心だった。この『特殊な部隊』に入るまでは自分について何も知らず、ある意味気楽に生きていけた。しかし、今はそうではない。誠を狙う勢力が複数、常に真を監視しある勢力は引き込もうとし、ある勢力は実験動物にしようとしている。その事実を知ってからと言うもの、誠の心の休まることは無かった。
「意外だな、お前のことだから怖いですって即答すると思ったんだけどな。訳分からねえで襲われた方が怖くないのか?」
誠の顔がかなめの方に向き直る。かなめは照れたように次の畳を拭き始める。
「自分に力があるなんていうことを知らなければ、ただの偶然でまとめられるじゃないですか。うちは特殊部隊ですからそのとばっちりってことで納得できたと思うんです。自分に原因は無いんだってね。でも今回のは違いました。僕はもう自分が法術適正者だと知ってしまった。相手は他の誰でもなく僕を狙ってくるのがわかる。どこへ行っても、どこに隠れても、僕であるというだけで狙われ続けるんですから」
誠はいくらこすっても取れない畳のシミと格闘していた。誠は今度は雑巾にクレンザーを振りかける。
「そうだな。アタシも気になってさあ、ここのところ法術に関する研究所のデータや軍の資料を当たってみたんだ。公開されてる情報なんてたかが知れているが、それでも先月の『近藤事件』以降かなりの極秘扱いのデータが公表されるようになったしな」
かなめは雑巾を畳の目に沿ってゆっくりと動かす。
「遼州人のすべてが力を持っているわけじゃねえ。純血の遼州人の家系であることが間違いない遼王朝の王族ですら、力が確認されている人物は記録に残っているのはたった三人だ。初代皇帝女帝遼薫。二十六代目遼寧の皇太子で廃帝ハド。そして新王朝初代皇帝遼献だけだ」
誠はクレンザーの研磨剤で消えていくシミを見ながらかなめの言葉を聴いていた。
「数千人、数万人に一人の確立というわけですか。でも僕は選ばれたと言って喜ぶ気にはなれませんよ」
誠の手が止まる。かなめはそれを見ると立ち上がった。
「不安なのか?」
そう言うとかなめは誠の頭に手を置いた。
「言っただろ?アタシが守るって」
中腰の姿勢から立ち上がる誠。かなめは集中するように畳を拭き続ける。誠はそんな彼女を見下ろす。かなめは一瞬、作業を止めて誠を見上げたが、すぐに目を逸らすと再び畳を拭き始めた。
「勘違いするなよな!……アタシはお前の能力を買ってるだけだって言ってるだろ」
拭いていた手を止め、かなめは少しだけ頬を赤らめて誠から目を逸らした。誠は雑巾を握る手にわずかに力が入るのを感じた。
「……それでも、僕は、かなめさんにそう言ってもらえるだけで、少しだけ安心できます」
誠とかなめ。二人は黙ってそれぞれの仕事を続ける。沈黙と次第に熱せられていく夏の午前中の空気が、気の短いかなめには耐えられなかったように口を開いた。
「いいか?」
3つ目の畳を拭きながらかなめが口を開いた。
「聞いてなくてもいい。ただ黙ってると手が止まりそうになるんだよ。ただ、黙ってると手が止まりそうになるからな」
誠はそんなかなめを背中に感じながら、バケツで洗ったばかりの雑巾だ窓のサッシを拭いながら聞いていた。
「アタシの家は知ってるだろ?前の大戦中はアタシの爺さんは反戦一本槍の政治屋だった。中央政界から追い出されて、政府からは非国民扱いされてはいたけど、腐っても四大公家の筆頭の家だ。アタシは3つの時に爺さんを狙ったテロでこの体になったわけだ。爺さんもかなり落ち込んでたらしいな……その後、一年もたたずにその時に負った怪我が治らずに死んだよ……アタシをこんな体にした……そのことで自分を責めながらな」
雑巾をかけている自分の手を見つめるかなめ。誠はそれとなく振り返る。かなめのむき出しの肩と腕の人工皮膚の隙間が誠にはなぜか物悲しく見えた。かなめは落ち着いた様子で畳を拭いていた。
「この体になる前の記憶はまるで無い。まあ3つの時だからな、覚えているほうがどうかしてるよな。でもこの体になってからのことはしっかり覚えてるぜ。脳の神経デバイスは忘却なんていう便利な機能は無いからな。嫌だと言っても昔のつまらない記憶まで引っ張り出してきやがる……脳の神経デバイスってやつは、思い出をきれいに忘れるなんて機能はついてねえ。まあ、記憶補助用の義体用パーツだからな」
そう言うとかなめは畳を拭く手を止めた。
「腫れ物にでも触るみたいに、どいつもこいつも遠回しに気を遣ってくるんだよ。アタシの事で変な気を使う親父、家から出るのにも護衛をつけようとるすお袋。家の食客達は、出来るだけアタシから距離を取って、まるで化け物でも見てるような面で逃げ回りやがる。まあ、今思えばしょうがないんだけどさ」
誠のサッシを拭く手が止まった。
「当然だよな。3つの餓鬼が一月のリハビリ終えて帰ったらこの大人の格好だ、まともに接しようとするのが無理ってもんだ。でも中身は3つの餓鬼だ。わかってくれない、わかられたくもない。暴れたね。かえでや茜には結構酷いこともしたもんだ。女学校時代も友達なんて出来るわけもねえや。話しかける奴が気に入らなかったらぶん殴ってそれで終わり」
かなめはそう言うと掃除に飽きたとでも言うように畳の上に胡坐をかいてタバコを取り出した。
「叔父貴のことをさ、茜から何度も聞かされて。陸軍ならおせっかいの親父やうちの被官衆の手も回って無いだろうっていきがって入ってみたが、士官学校じゃあ西園寺の苗字を名乗ってるだけで教官から目をつけられてすぐに喧嘩だ。どうにか卒業してみれば与えられたのは汚れ仕事の山ってわけだ。つまらないだろ?アタシの身の上話なんて」
「かなめさん」
誠はサッシから手を離して真っ直ぐにかなめを見つめた。
「アタシが言いたいのは、自分が特別だなんて態度は止めてくれって事だ。アタシも東都戦争の頃はそうだった。こんな体だから悪いんだ、こんな家柄だがら嫌われて汚れ仕事をあてがわれるんだってな。でもな、そう思ってる間は一人分のことしか出来ねえんだ。一人で生き抜けるほどこの世は甘くねえよ」
そう言ってかなめはタバコをふかす。
「西園寺さん」
誠は横を向いて照れているかなめを見つめた。
「私の話なんてつまんねえだろ?良いんだぜ。とっとと忘れても」
そう言いながらかなめは自虐的な笑みを浮かべた。誠はそんなかなめの独り言を聞きながら畳を拭き続けていた。
誠は黙って頷きながら、畳を一筋丁寧に拭いた。
「……でも、少なくとも今は、西園寺さんが一緒にいてくれるから、大丈夫です」
そんな誠の言葉に嘘は無かった。




