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最終話 大きな背

 リュシアンが背負っていた大剣は、今は彼の左肩にぶら下がっている。

 替わりにその背を陣取っているのは、ミネットだった。

 煉瓦通りに点在する街灯が、重なる二人を照らしていく。

 リュシアンに背負われたミネットは、漫然とその灯を眺めていた。

『光の女神』を擁する、隣国のアウラヴィスタ国から寄贈されたというその街灯。路地裏に設置された国内産の他の街灯より、明らかに光量がある。

 まるで王冠のように美しい光を浴びながら、ミネットは女神の力の偉大さを改めて実感する。

 視線を正面に戻すと、鮮やかな赤毛がすぐ鼻先にある。

 夢と現実の狭間の中で感じた、あの日と同じ、大きくて温かい背。

 またこの背に触れる機会が訪れるとは、思ってもいなかった。

 眠りに落ちてしまいそうな心地良さに、ミネットは思わず瞼を閉じたくなってしまう。

 でも、この時間は、永遠には続かない。

 両者とも沈黙を破るきっかけを掴むことができぬまま、目的地は着々と近付いてきている。

 リュシアンは彼女のアパートに向けて、スピードを落とすことなく歩き続けていた。

 意を決したミネットは呼吸を整えると、リュシアンの首に回していた腕に力を込めた。


「アニエラさんと会ったの」


 リュシアンの肩が、大きく震えたのがよくわかった。

 しかし彼の反応はそれだけで、言葉は返ってこない。

 一瞬だけ躊躇したが、それでもミネットは続ける。


「色々と、聞いた」

「…………」

「私、リュシアンは同い年だと思っていた。でも違ったのね」

「……あぁ」


 そこでようやく、リュシアンが声を発した。

 このまま無視されてしまう可能性も考えていたミネットは、心の中で安堵の息を吐く。


「私、リュシアンが急に私のことを……その、気にしだしたようにしか見えなかった。どうして、孤児院で話しかけてこなかったの?」

「シスターに止められていたんだ。できる限り近付くなって。そういうのは、彼女が孤児院を出てからにしろって意味だったんだと思う。たぶん、俺が他の子供達の前で変なことを言うんじゃないかって、予測していたんだろう」


 ミネットは思わず苦笑した。

 確かに孤児院内で毎日愛の告白をされていては、たまったものではなかっただろう。その点では、シスターに深く感謝した。


「あの日私を助けてくれたのは、あなただったのね」

「それも、あいつから聞いたのか?」

「詳しくは聞いていない。でも、何となくそんな気がして」

「そうか……。確かにその通りなんだが、助けたのは俺だけじゃない」

「うん、わかってる。でも、ありがとう」


 やっと、礼を言えることができた。

 思えば、あの場所から救い出してくれた傭兵団の人間に、礼を言うことができていなかった。

 数年越しにようやく口に出すことができた想いに、胸の辺りが熱くなる。


「ミネット……」


 リュシアンは感激したように声を詰まらせるが、すぐさま声のトーンを落とし、ミネットに問いかける。


「それはそうと、どうしてあんな場所にいたんだ?」


 聞いたことのないリュシアンの硬い声質に、瞬時に胸の熱が散る。換わりに心臓の速度が瞬く間に上昇していく。

 叱られた子猫のように、ミネットは眉尻を下げながら背を丸めた。


「ごめんなさい……」

「あの辺りは『壁』の近くとはいえ、人目につきにくいから治安が悪いんだ。危ないだろう」


 ミネットは肩を小さくしてしゅん、と項垂れることしかできない。

 自分のことを案じてくれている言葉だとわかるからこそ、耳が痛かった。孤児院を出てからこんなふうに叱られるのは、初めてだ。


「その……あなたに、会いに行くつもりだったの」


 誰にも見られることなく、リュシアンに会いに行きたかった――。

 その本音部分だけは心の奥底に仕舞ったままにする。

 ミネットの返答を聞いたリュシアンは、再び無言になる。

 若干耳が赤く見えるのは、通りの店から漏れる光を受けているせいなのか、そうでないのか。

 煉瓦通りを蹴る彼の靴音だけが、しばらくの間二人の鼓膜を震わせ続けた。




 ミネットが見慣れた区域まで戻って来た。

 いつもパン屋と自宅とを往復する道だ。

 人通りも僅かだが増えてきた。通りすぎて行く人々が、背負われたミネットに好奇の視線を送ってくるのがわかったが、リュシアンの左腕にある傭兵団の紋章を見ると皆納得したような面持ちになり、それ以上視線の追求を受けることはなかった。

 沈黙を保ったまま、リュシアンは歩き続ける。

 先ほどよりも、若干歩く速度が落ちたように感じる。

 とある路地裏の前に通りかかった時、ミネットは首をそちらへと回した。

 彼女の目には、教会前で静かに佇み続ける慈愛の女神像が映し出される。

 白い女神像は、夜の闇を(まと)っていた。

 藍と灰色に染まった穏やかな笑顔は、昼間よりも神秘的に見える気がした。

 それを見やりながら、ミネットは思う。

 どうして、今まで気付かなかったのだろうか。

 両親に売られてから灰色に染まってしまった心が、見えなくしていたのだろうか。

 孤児院での生活は、たくさんの愛で溢れていたというのに。

 シスターや子供達。彼女らに、枯れかけていた心に再び水を与えてもらった。

 孤児院の人間だけではない。

 世間知らずな自分を雇ってくれた、パン屋の主人。わざわざ自分に会いに来てくれる、常連のお客さん達。

 そしてこの背中から感じる温もりも、間違いなく――。

 確かにこの町は、様々な問題を抱えている。

 だからこそ、小さな愛が宝石のように輝くのだと、ミネットはようやく気付いた。


(今まで嫌いだなんて思っていてごめんなさい、慈愛の女神様)


 祈るように瞼を閉じたミネットは、心の中で深く懺悔した。

 明日から――いや、今日から、就寝前に女神達に祈りを捧げよう。皆がそうしているように。

 故郷(・・)に力を与えてくれている、女神達に。

 決意した直後、リュシアンの足が急にピタリと止まった。

 ミネットのアパートに着いたわけではない。アパートまではあと数分かかる。

 だが通りの真ん中で止まったリュシアンは、小さく深呼吸をして息を整えている。


「リュシアン、疲れたの? それなら下ろしてくれても――」

「違う」


 短い返事の中に、ミネットはリュシアンの緊張を敏感に感じ取ることができてしまった。 


(これは、来る)


 リュシアンの次の言葉を直感で理解したミネットの胸が、大きく高鳴り始める。

 そして彼女の予想通り、リュシアンはいつかと同じように、真剣な声で言の葉を紡ぎ出した。


「ミネット、改めて聞いてくれ。俺は――」

「待って、リュシアン」

「……何だ?」


 ミネットは慌ててリュシアンの言葉を止める。

 そして周囲をキョロキョロと見渡して誰もいないことを確認すると、彼の耳元に顔を近付けて囁いた。


「お友達から、始めましょうか」


 リュシアンは今、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているなんて、彼に背負われたままのミネットには知る由もない。


「それって、どういう――」


 振り返ろうとするリュシアンの頭を慌てて両手で挟んだミネットは、強引に前に戻す。

 赤く染まった顔を見られたくなかったのだ。おまけに心臓が早く脈打ち過ぎて、胸が痛い。


「痛い痛い。ミネット、変なふうに捻るな。本気で首が痛い」

「どうも何も、そのままの意味」


 控えめに抗議するリュシアンの声を置いて、ミネットは内心を気取られないよう、いつものように淡々とした口調で続ける。


「それで、リュシアン、返事は?」

「あ? あぁ……。うん、お友達から、か。うん……まぁ、わかった」


 納得したような、そうでないような。

 複雑な胸中を声に乗せた歯切れの悪いリュシアンの返答だったが、ミネットは満足したように小さく口の端を上げた。


「それじゃあ、改めてよろしくね、リュシアン」

「よ、よろしく……」

「さあ、早く家に連れて行って」


 馬に鞭を振るうように、ミネットはリュシアンの背を大きく叩いた。

 従順な()は「どうしてこうなった……」とぶちぶち零しながらも、彼女の要求通りに歩き出す。


(あなたになら、いつか『愛してる』って言ってあげてもいいかもね)


 心情の変化はあったが、今まで嫌いだった言葉を、急に好きになることはできない。

 でも、彼と一緒に日々を過ごしていたら、その感情もきっと克服できるだろう。

 リュシアンの背に揺られながら、ミネットは静かに笑みを浮かべる。

 その顔は、慈愛の女神像の微笑と似ていた。




『水』と『慈愛』と『刃』の女神を祀る、アクアラルーン国。その最西端の町、エアキネシス。

 金剛石のように煌き始めた星々は、二人のこれからを祝福するかのように、町に光を落とし続けた。



     了

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