神官は変わりゆく。致命的に、不可逆的に。
エルムの生活は、ニアことティターニアに世話をされる毎日になっていた。
回復魔法をかけてもらい、食事をもらう。
他愛のない会話をして、微笑み合う。
酷く緩やかで、穏やかな時間だった。
そう……試練のことを、完全に忘れるくらいに。
思い出すことすら、しないほどに。
エルムはティターニアとの生活に、溺れていた。
「ニア。いつもありがとう」
『いいえ、大丈夫よ』
あの日から早くも数ヶ月。
いつしかエルムは彼女を愛おしく思うようになっていた。
優しくされたからなのか。その温もりに絆されたのか。
彼女との毎日が、エルムの当たり前になったのだ。
穏やかな毎日。幸せな毎日。
…………幸福で、あるはずなのに。
なのに、どうしてなのだろう……。
エルムの身体には時々、悍ましいほどの悪寒が走るようになっていた。
それだけじゃない。
自分の意識が微睡むような感覚。自分が、曖昧になる感覚。そんなモノまで感じ始めていた。
数ヶ月前に襲われた魔物からの傷はもう既に殆ど回復しかけているというのに。
何故、そんなモノを感じるようになったのか。この感覚はなんなのか……。
それが分からなくて、エルムは首を傾げずにはいられない。
『どうしたの?』
ふと、心配そうな面持ちのティターニアが聞いてくる。
さらりと揺れる髪。仄かに燐光を放つ、柔らかな緑色。
エルムは目を細めながら、愛おしそうに彼女を見つめる。
「いや、なんでもないよ。ティターニア」
『…………っ!』
ティターニアは教えていないはずの、真の名で彼から呼ばれて、息を飲む。
エルムがその名で自身を呼ぶということは。それだけ、幻竜の計画が進んでいるという証左。
それが嬉しくて。その時が待ち遠しくて。
ティターニアは今までで見たことがないくらいに柔らかく、そして嬉しげな笑みを彼に向けた。
「ティター、ニア……?」
『うふふっ……なんでもないわ。さぁ、今日の分の回復をかけるわ。早く治して……元気になりましょうね?』
「…………あぁ。よろしく、頼むよ」
彼女の笑みに何かを感じた気がしたのだが。回復の副作用とも言える強烈な眠気によって、意識が強制的に離されていく。
ウトウトとし出すエルムの髪を撫でながら、彼女は微笑む。
『眠ってしまっても大丈夫よ……。どうか……どうか早く、良くなって頂戴ね。わたくしの────』
(い、ま……なん、て…………?)
意識を手放す時に聞こえたティターニアの声。
けれど、その言葉の最後は聞き取れずに……エルムは眠りに、ついてしまうのだった。
◇◇◇◇◇
花の香りが、鼻腔を擽る。
目の前には、晴れやかな日差しの下で……一面の花畑の中に立ち柔らかく微笑むティターニア。
ふわりと優しい風が吹く。色とりどりの花弁が踊る。彼女の淡い緑色の髪と、薄紅色のドレスが風で揺れる。
なんて美しい光景。なんて愛おしい相手。
エルムは頬が勝手に緩んでいくのを感じていた。
そして……ゆっくりと、彼女に手を伸ばそうとする。
「ティターニ……」
だが、その手は届かない。
エルムよりも先に……〝ソイツ〟が彼女に、手を伸ばして触れたからだった。
(……………え?)
エルムは目を大きく見開いて固まる。
ティターニアと手を取り合って──……彼女の髪色と瞳の色を反対にした色合いの、美しい青年が微笑む。
まるで愛し合っているかのように、幸せそうな顔で。
蕩けた笑顔で、互いの頬にキスを送り合う。
そんな光景を、エルムはただ見つめていることしかできない。
どうして彼女の手を、他の男が取っているのか?
彼は一体、何者なのか?
ティターニアとは、どんな関係なのか?
その全てが分からなくて……。
でも、ティターニアが他の男に微笑んでいるのを見て、腑が煮えくり返りそうなほどに、激昂した。せずには、いられなかった。
「お前っ……!ティターニアにっ……馴れ馴れしく触れるなっ!彼女はっ……彼女はわたしのっ……!」
『いいや、違うさ。こいつはお前のモンじゃぁ〜ない。ティターニアはオレの女だ。とゆーかぶっちゃけ……お前の方が間男の立ち位置だぜ?人間』
「っっっ!?」
美しい青年が、見た目にそぐわぬ荒っぽい口調でエルムに返す。
彼はティターニアの腰に腕を回し、見せつけるように抱き締めながら……ニヤリと、獰猛に笑いかけた。
『でもまぁ……まさか、こんな風に戻れるなんてなぁ?思いもしなかったぜ。もう少し時間がかかりそうだが……それでも幻竜様々だな』
「な、にを……言って……?」
『哀れな人間に説明してやる義理はねぇよ。それ以前に……お前、あんな化物に目ェつけられるなんて。一体、何やらかしたらそーなるんだよ?』
彼は心底不思議そうに首を傾げる。
だが、エルムは何を言われているかが分からなくて、困惑するしかない。
その様子を見た彼は、呆れたように溜息を零した。
『まぁ、所詮若造のオレ程度じゃあ……ぶっ壊れた竜の考えなんて分かるはずないわな。…………いや、オレじゃなくても分からんか。竜だもんなぁ〜』
ふと、彼が空を見上げる。
それにつられたエルムは、晴れた空が徐々に黄昏に変わり始めたことに、気づいた。
『おっと……どーやら、そろそろお目覚めの時間みたいだ。感謝しろよ〜、人間。オレのティターニアをちょーっとの間、貸してやってるんだ。残りの時間を惜しんで過ごすがいいさ』
その言葉と共に視界が、世界がぐにゃりと歪む。
ずぶずぶと足元から、泥濘に落ちていく。
エルムは声にならない悲鳴をあげて────。
◇◇◇◇◇
「うわぁぁっ!?」
エルムは叫びながら飛び上がった。
冷や汗を掻きながら、周りを見渡してもそこはいつもの部屋と変わらない。
…………エルムは服の袖で額の汗を拭い、息を吐いた。
「はぁ……はぁ……。なんて……嫌な夢を見──……あ、れ……?」
冷や汗が止まらないほどの、嫌な夢を見た……はずだ。
なのに、それがどんな内容だったかが思い出せない。
まるで靄がかかったように、曖昧で。
エルムは唇を噛み、自分の腕を強く抱く。
……………鏡のないこの部屋の中。
彼は気づいていない。
自身の髪が……琥珀色に変わり始めていることに。
ティターニアと同じように……燐光を放ち始めていることに。
もう彼は……手遅れなところにまで、進み始めていた──……。
◇◇◇◇◇
ドラグーン公爵家の自室で、簡易箱庭の中を観察していた二人は、クスクスと楽しそうに笑う。
ミスティは、この作戦を考えたマキナに楽しげな声をかけた。
「マキナ!貴方、天才だわ!これ、すっごく面白い!うふふふっ、今、こいつはどんな気持ちかしらねぇ?」
現在、エルムはその体内に違うモノを宿している。
それによって、彼は徐々に変わり始めていた。
「さぁ?内側から違うモノに変わっていく感覚は不気味だと思いますよ?本人に自覚できてるかは定かではありませんけど。さて……そろそろ頃合いですかね。本格的に始めましょうか?」
「えぇ!この時を待ってたの!」
準備期間は終わった。
これからが本格的な復讐の始まりだと、ミスティは歪な笑みを浮かべる。
「苦しんで頂戴?私を楽しませて頂戴?恐ろしいほどの地獄を、心が切り裂かれるような苦しみを。これが私から贈る神官への復讐よ。うふふふっ、うふふふふふふふっ!」
ミスティの呪詛は、まるで唄のように響いていた──。




