表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刻印術師の高校生活  作者: 氷山 玲士
第七章 神器繚乱編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

136/164

5・ラピス・ウィルス

――西暦2098年1月20日(月)PM16:30 京都 御国院神社 代表執務室――

 年が明けてからもたらされた魔剣アゾットは、七師皇達にも大きな衝撃を与えていた。既にアジア共和連合だけではなく、ロシアや中華連合、ユーロにまで感染者と思わしき者が現れてしまったのだから、対策を講じなければ、世界的なパンデミックを引き起こしかねない。

 だが数えて3度目となるアゾットに関する七師皇会談は、いつもとあまり変わりがなかった。


「イーリス、進展はどうだ?」

「厄介ですね。サクール君」


 エジプトのライブラリアン サクール・カナーヒトは、イーリスの下にウィルスのサンプルを届け、そのまま助手として解析に携わっている。


「はい。件のウィルスですが、第一次世界大戦末期にパンデミックを起こした、通称スペイン風邪に酷似していることはわかりました」

「スペイン風邪か。確か第一次大戦の戦死者より、罹患による死亡者の方が多いと言われていたな」


 スペイン風邪とは、1918年~1919年にかけて発生したインフルエンザのことで、世界最初の大流行―パンデミックと言われている。

 当時の世界人口は18億人~20億人といわれているが、約5億人が感染し、推定でも5千万人以上の人が命を落としたと言われている。

 スペイン風邪の発生は、最初の流行があったアメリカで感染した兵士が、第一次世界大戦真っただ中だったヨーロッパ戦線に参戦したことがきっかけだった。戦場という環境は最悪で、味方だけではなく、敵にまで次々と感染し、世界中へと広まっていった。そのため戦争どころか、経済にまで大きな影響を与え、ついには戦争をしている余裕もなくなり、そのまま終戦につながったとされる。

 スペイン風邪という名称は、当時中立国だったスペインから情報が発せられたためだ。


「それに似ているということは、かなり強烈なウィルスということか」

「それが難しいんですよ。症状はそこまでひどいものじゃないみたいですけど、感染力と繁殖力は上回ってます。しかもタチの悪いことに、心筋に感染する可能性が高いんですよ」


 スペイン風邪ウィルスは、現在まで世界を騒がせたどのインフルエンザ・ウィルスとも、違う性質を持っている。

 現在のインフルエンザ・ウィルスより30倍も早く増殖し、致死性の強い肺炎と免疫反応の調節に以上を起こす。老人や子供のような免疫力の低い者の死者が多いのは、インフルエンザに限らず、普通の風邪でも共通している。だがスペイン風邪は、25~30歳という若い世代からも多くの犠牲者を出した。サイトカイン・ストームと言われる体の免疫機能の過剰反応や、当時のアメリカ軍が開発した細菌兵器が原因だとも言われているが、第一次世界大戦中はウィルスという概念がなかったため、今もってはっきりしていない。


「どういうことだ?」

「私が説明します」

「エアハルト、なぜ心臓外科の権威であるあなたが?」


 今回の七師皇会談には、イーリスの夫であるエアハルト・ローゼンフェルトも参加していた。心臓外科が専門だが、世界に名を馳せる一流の医療術師であり、生成者としての実力も確かだから、専門外であることを承知の上でイーリスが要請し、サクールと共に解析に当たっていた。


「その心臓に関することだからです。このウィルス、私達はラピス・ウィルスと呼んでいますが、全身の筋肉に作用するようなのです。そしてその中には、心臓を動かす心筋も含まれています。推測ですが、アジア共和連合で亡くなった方の中には、急性心筋炎によって亡くなられた方も少なくないでしょう」


 ラピスは賢者の石を意味する。アゾットの柄尻には賢者の石が封入されていることから、あえて命名したのだろう。

 心筋はウィルスに感染しにくいと言われているが、稀にウィルスが感染することによって炎症を起こし、急性心筋炎を引き起こすことがある。軽度であれば無症状や風邪に似た症状で済むが、重度のものになれば呼吸困難や心不全を引き起こし、命を落とすため、早急な治療が必要だ。


「確か心筋は、代用が効かない特別な筋肉だったな?」

「おっしゃる通りです。人工心臓で代用することはできますが、それも根本的な解決にはなりません。通常の風邪であっても、ごく稀に心筋に感染することがありますが、ラピス・ウィルスはそれらより数倍、もしかしたら数十倍以上の確率で感染すると予想されます」


 筋肉の塊である心臓は、全身に血液を送り出すポンプのようなものだが、心筋という特別な筋肉でもあるため、代用できる筋肉はない。その筋肉にウィルスが感染すると、心臓の機能が著しく低下し、最悪の場合、命を落とすことになる。


「つまり感染したら、高確率で心臓がやられるということか」

「あくまでも推測にすぎませんが」


 まだ解析中だが、判明した変異は、アゾットが起こした可能性もある。自然界においても、ウィルスは容易に突然変異を起こすのだから、刻印神器であるアゾットに原因を求めることは不自然ではない。


「なんにしても、厄介だな」

「予防策はないのか?」

「光、もしくは闇属性に適性があれば、多少は感染を遅らせることができそうです。今の所は、それ以外にありません」


 理由はわからない。だがウィルスを生み出すアゾットは闇属性の刻印神器なので、同属性の闇と対となる光属性に、ある程度の耐性があるということになるのだろう。


「スペイン風邪のワクチンは?」

「ワクチンなんてありませんよ。そもそもスペイン風邪は、人為的なものと言われていますから」

「どういうことだ?」

「記録によれば、予防接種を受けた人のみ、感染していたようです。当時はウィルスといった概念は存在しませんでしたから、治療法が正しかったわけではなかったことも、過去最大のパンデミックを招いた要因でしょう」


 ラピス・ウィルスを解析するにあたって、イーリス達はスペイン風邪も調べ上げた。インフルエンザに関わらず、病気というものは抵抗力や免疫力の低い子供や老人の多くが犠牲になりやすい。だがスペイン風邪は、抵抗力や免疫力が高い若者の罹患率と死亡率が最も高かった。有史以来、若者が犠牲になった病は多いが、ここまで圧倒的に犠牲を出した病魔は、おそらくはない。

 そのスペイン風邪、某国が作り出した細菌兵器という噂がある。イーリス達も調べていく過程で、その疑惑を持った。仮に本当だとしても、資料が少なく、噂程度の情報しか集まっていないが、予防接種を受けた者だけが罹患したという噂は、それが実施された時期と一致する。ドイツ医学界に保管されているデータにも同様のことが記されているし、ウィルスという概念がなかった時代だから、治療方法を誤った結果なのだろう。


「つまり治療法はなく、感染を防ぐことも不可能ということなの?」

「遺憾ながら、その通りです」


 スペイン風邪のウィルスなら、現代医療を駆使すれば、治療はできる。だがそれを変異させたと思われるラピス・ウィルスが相手では、簡単にはいかない。


「これも推測なんですけど、アゾットが存在している限り、根本的な治療は無理かもしれません。解析中に何度か、ウィルスが不規則に活性化したことがあり、特性が変化しましたから」

「活性化って、それ、危険じゃないの?」

「危険ね。私とエアハルト、それからサクール君が展開させた光空間内だったから、外に漏れてはいないけど」


 病気の治療に刻印術を用いることが多くなっている昨今、二次感染や院内感染を防ぐため、支援系は同系統術式に分類されている医療系と最も相性が良い。光には多くの種類があり、その中には戦前から治療に使われているものもある。エックス線やガンマ線、赤外線や紫外線ですら使われている。さらに病室も、個室限定ではあるが光の屈折率を操作することで、殺風景で閉塞感のある空間を一変させている。

 この光の空間、光性B級広域支援対象系術式ヒーリング・ルームは、当初は視覚効果だけしか期待されていなかった。だが近年の研究によって、光を使用した簡易的な治療を集中的かつ継続的に行えることも可能となり、しかも無菌室に近い効果を持つことも確認された。今では改良を加えられており、ほとんど無菌室と変わらない。


「ルドラ、ラヴァーナの行方はつかめたか?」

「やはりA.S.E.A.N.に逃亡したようです。ですが一斗殿のおかげで、タイの迦楼羅王かるらおうから、それらしい男が東へ向かったと連絡をいただきました」

「ガルード・ナムサクか。確か親日家だったな」

「ええ。何度か来日していますし、私への訪問要請も、A.S.E.A.N.では一番熱心ですね。まだどこを訪問するか決めかねていますが、今回の件が解決すれば、タイを訪問することを考えた方がよさそうです」


 迦楼羅王ガルード・ナムサクは、タイの代表を務める一流の生成者だ。親日家であり、年に一度は必ず来日し、数年に一度は、それなりの期間日本に滞在するため、日本でも認知度は高い。


「戦中、戦後の恩返しか。律儀だな、日本人は」

「私にとっては、耳が痛い話だ」

「タイミングが悪かった、というだけですよ。戦争なんですからね」


 日本の代表が任期中にA.S.E.A.N.を訪問する理由は、戦時中の災害によって、戦争どころではなくなってしまった日本を、自分達も苦しいというのに、支援し、援助までしてくれたA.S.E.A.N.に、少しでも恩を返すためだ。そのおかげで復興することに成功した日本は、日本だけではなく、A.S.E.A.N.を襲っていた当時の中国を排し、終戦を迎えた。


「だが厄介だな。A.S.E.A.N.から東となると、真っ先に思い浮かぶのは日本だ。USKIAという可能性もあるが、遠すぎる」


 リゲルが表情を歪めた。A.S.E.A.N.の東には、広大な太平洋が広がっているが、少し北上すれば、すぐに日本に辿り着く。ほとんど単一民族で構成されている日本だが、他民族がいないわけではない。戦前は技術大国、戦後は刻印術大国となった日本は、世界各国から多くの人が訪れ、そのまま永住する者もいるし、今も昔も不法滞在者は多い。そこに紛れてしまえば見つけることは容易ではない。


「そのことですが、実はアルフレッド・ラヴレスからの情報提供がありました」

「ラルフの息子か。なぜミシェル、お前に?」


 アルフレッド・ラヴレスは、かつての七師皇 ラルフ・ラヴレスの息子であり、USKIA海軍中尉でもあり、一流の生成者でもある。総会談の席で七師皇達も会ったことがある。だがミシェルとは、あまり面識がなかったはずだと記憶している。


「共通の趣味を持ってるから、でしょうね」


 ミシェルは車が趣味であり、その関係でアルフとも親しい。


「車か。あんなもの、乗れればいいだろう?」

「私としては、もうちょっと居住性があった方がいいと思うけど?」

「確かにかっこいいデザインは多いけど、燃費がとんでもなく悪いわよね」


 ミシェル、雅人、そしてアルフが趣味としている車は、スポーツ・カーやレーシング・カーと言われる装飾型の要素を取り込んだ車で、電力の消費が激しいが、性能は高く、お値段はさらに高い。


「趣味なんてそんなものですよ」

「というかミシェルさんも雅人さんも、アルフレッド・ラヴレスと親しかったんですね」


 七師皇同様、アーサーも車は乗れればいいと思っているため、趣味の面では二人とは話が合わない。だが二人とも、無駄に博識なところがあるので、趣味以外ではけっこう話が尽きなかったりもする。


「趣味が合うってことは、気も合うってことだからな」

「夏休みの件については、アルフから直接謝罪を受け取っている。あいつとしても、本意ではなかったわけだからな」


 世界刻印術相会談の翌日、神戸の鉄拐山山中で、アルフは飛鳥やアーサー達を襲撃した。上からの命令だったが、アルフとしては心からやる気がなかったため、適当な所で切り上げるつもりだった。もっともアーサーが同行しており、部下達が全員命を落とすことになるとは、思ってもいなかったが。


「ますます軍に入りたくなくなってきますね」

「お前は今のままでいいと思うぞ。それでなぜミシェルに、というご質問ですが、俺やアーサーとは総会談の件がありますので、声を掛けにくかったんでしょう」

「そういえばそうだったわね。彼が悪いわけじゃないのに」


 雅人はアルフが帰国してから、事の詳細を聞かされた。事前に飛鳥やアーサーから聞かされていたから、雅人もすぐに謝罪を受け入れたが、もし本気で襲ってきていれば、たとえ友であっても、雅人は決して許さなかっただろう。


「それでミシェル、アルフは何と言ってきたのだ?」

「アイザック・ウィリアムが姿を消したそうです。それも部下であるインセクターを率いて、です」

「なんだと?」

「それはいつの話だ?」


 さすがにこの情報は唐突だった。


「どうも先月には、既に自宅にいなかったようですね。見張りの兵に金を渡し、影武者を仕立て、密かに軍艦を出航させたと推測されています」

「先月か。USKIAにもアゾットの件は伝えてあるが、それを知って動いたか?」


 あまりにも時期が悪い。ほぼ間違いなく、アイザックはアゾットのことを知り、それを狙って動いたはずだ。


「ありえますな。ルドラ殿、確か協力者がいると言っていましたな」

「はい。可能性は低くはないでしょう。ミシェル、その軍艦の行先は?」


 協力者の正体がアイザック率いるUSKIA特殊部隊インセクターという可能性は、十分にある。というよりアイザックが絡んでいれば、ほとんど確定だ。フランスの刻印神器推奨派を煽ったのも、今ではアイザックだと判明しているから、USKIAがアイザックの失踪を隠した理由はわかるが、これでは世界から孤立しかねない。


「西、としかわかっていないようです。ですのでアルフは、一斗氏の許可があれば、すぐにでも来日すると言っています」


 だがUSKIAも馬鹿ではない。元七師皇ラルフ・ラヴレスの息子にして、三剣士に比肩する実力者として名高いアルフレッド・ラヴレスを、目的地と思われる日本に派遣することで、事態の収拾を図るつもりだ。


「彼だけかね?」

「妹のアリスもだそうです」

「アリスも?だけどあの子って、まだ学生じゃなかった?」

「そう聞いてます。まあアリスのことですから、単純に日本に行きたいだけだと思いますが」


 アルフの妹 アリス・ラヴレスは飛鳥達と同い年だ。と言っても面識はないし、互いに名前だけしか知らない。ミシェルは総会談で会ったことがあるが、そのアリスは昔から日本文化に興味を持っているため、事あるごとに日本に行きたいと言っていた。ちなみにアリスは優秀な術師ではあるが、生成者ではない。


「なるほど、ミシェルが日本に行くから、それでか」

「あり得る話ですな」


 アリスが日本に興味を持っていることは、七師皇も知っている。だがそれ以上の理由も、よく知っている。


「なぜ俺なんですか?三剣士ということなら、雅人がいますよ」

「アーサーが来日することじゃないのか?」

「ミシェルさんということですから、セシルさんのことでは?」

「どうしようかしらね、この子達……」

「一度腰を据えて、話をした方がいいかもしれんな」


 三剣士の将来は、国が違うとはいえ七師皇にも大きな問題であり、関心事だ。雅人は結婚しているが、それとこれとは別問題だ。本格的に話をする必要がある。


「あの……差し出がましいようですが、アイザック・ウィリアムの件はどうされるのですか?」

「おっと、そうだった。すまないな、サクール」


 前回は報告だけだったが、サクールはアサドに依頼され、セキュリティ強化のために何度か参加したことがある。だから脱線することがあるのは知っているし、そんな事態に遭遇したこともある。だが相手が相手なので、口を挟んでいいのか、とてもとても迷ってしまう。もっとも普段ならともかく、この会談の内容が内容なので、口を挟むしかないわけだが。


「一斗、アイザックの目的地が日本だとして、何か兆候というか、それらしいものはないか?」

「一つだけ。息子達が通っている学校が試験期間なのですが、風邪による欠席者が増加していると報告がありました」

「風邪?季節性のインフルエンザとかじゃなくて?」

「違うらしい。まだ特定できていないそうだが、入院する者もいると聞いている」


 この時期、日本ではインフルエンザが流行しだす。そのために試験を休んでしまう生徒が、毎年少なからず現れるが、さすがに事情が事情なので、回復後に試験を受けることができるようになっている。


「それ、怪しいわね」


 だがインフルエンザなら、既にウィルスの特定はできている。特定できていないということは、インフルエンザとは違う可能性が高い。そして現状から考えれば、一つの答えが導き出される。


「ええ。既にラヴァーナとアイザックが、日本に潜入している可能性もあるわね」

「ラヴァーナはともかく、アイザックは日本に恨みがあるだろうからな。狙いがあの子達だということも、大いに納得がいく」


 アイザックが軟禁状態になった大きな理由は、刻印後刻術の使用が明るみになったからだが、それを突き止めたのは日本の生成者だった。しかもまだ実用化どころか、開発すら難航しているはずの、探索系を刻印具に記録する技術を刻印法具で実現させている雪乃、インセクターと刻印後刻術を施した生成者を退けた敦と久美という、日本の若手生成者にしてやられたのだから、腹に据えかねていることは間違いない。


「一斗、その風邪のデータって、取り寄せてあるの?」


 イーリスは、日本がウィルスを特定できていないことに驚いた。世界最先端の医療技術を持つ日本は、ドイツでも有名だ。その日本がわからないなら、おそらくドイツでも特定は困難を極めるだろう。だが今回は心当たりがあるし、放置するにはあまりにも大きすぎる問題だ。


「一応はな。菜穂」

「ええ。送ったわよ、イーリス」


 それは一斗と菜穂も同様で、用意していたデータをすぐにイーリスへ送信した。


「確認したわ。エアハルト、サクール君」

「ああ」

「確認しました。同じウィルスです」


 やはり予想通りだった。これでアゾットが、日本に侵入していることも確定した。


「考えられるのは二通り。旅行者が感染しており、それが広まった。だがそれにしては、地域が限定されている」

「確認されているのは、鎌倉市内だけだな。潜在的にはわからないが」

「スペイン風邪より感染力が強いということなら、既に日本中に広まっていてもおかしくはないわよね」


 季節性インフルエンザは、日本全国で感染者を出しているが、逆に言えばそれはインフルエンザと確定している。だが鎌倉市の多くの患者は、インフルエンザではない。アゾットのラピス・ウィルスに感染し、治療法がないまま今も苦しんでいる。

 アジア共和連合やA.S.E.A.N.に旅行していた者がキャリアとなって帰国すれば、ウィルスは日本中に広まってもおかしくはない。だが実際には鎌倉だけに被害が集中しているから、この可能性はおそらくない。ほぼ間違いなく、近くに潜伏しているだろう。


「その通り。ですのでこれは、アイザック・ウィリアムの手引きで、ラヴァーナが日本に潜入している、ということでしょう」

「鎌倉をピンポイントで狙った理由も、あの子達のことを考えれば当然ね」

「それだけなら私や菜穂も出向けば、何とかならなくもないだろうが、今は時期が悪い」


 相手が元七師皇と刻印神器アゾットとはいえ、鎌倉には雅人とさつきもいる。その雅人は、この会談に参加しているのだから、すぐにでもアイザックやラヴァーナの行方を捜索するだろう。だが鎮圧に動くとしても、飛鳥と真桜の力は必要だ。予定より早くブリューナク生成者が明るみになるかもしれないが、それは仕方がない。

 さらに問題なのは、前世論の討論会だ。


「ええ。前世論討論会の準備が進み、各国の研究者も、その日のためにスケジュールを調整していると聞きます。僕やマーリン教授もそうですし、姉さんは先に日本へ向かう予定ですから」

「ほう、クレアもか」

「他にもイタリアのクワトロ・エレメンツ ローザ・ベラルディも来日すると、連盟に連絡がありましたよ」

「ローザも来日するのか。これはマズいな」


 クワトロ・エレメンツはイタリアを代表する四人の女性生成者を示す称号で、ローザはその一人でもある。同時に前世論の研究者でもあり、あまり戦闘向きではないがイタリア屈指の生成者でもあるし、今回の件は世界中にいる前世論者にとって願ってもないことなので、誰も来日を止めることができなくなっている。


「ええ。討論会の会場は横浜。鎌倉の目と鼻の先です。しかも開催日は丁度一ヶ月後ですから、それまでに解決するかどうか、正直難しいところですね」

「かなり強引にスケジュールを組みましたから、さすがに日時も会場も変更ができませんしね」

「ますますマズいな」


 だがそれは、この場の者にとっては非常に都合が悪い。前世論の研究者はアーサーやローザのように世界的な刻印術師、生成者も少なくないが、そうではない者の方が圧倒的に多い。当然日本としても警備は厳重にする予定ではあるが、今回は相手が悪すぎる。


「ええ。飛鳥と真桜のことが明るみになるのは、この際止む無しと判断します。ですが討論会の方は、今更延期となると研究者の方々は黙っていないでしょう」

「日本へ押しかけ、各自で調べ始める、か」

「アゾットの件がありますから、すぐにということはないでしょうけどね」


 刻印神器が日本に侵入し、凶行に及んでいると知れば、日本を訪れる人は激減する。それは研究者であっても例外ではないが、皆無というわけではない。むしろ都合がいいと考える研究者もいるだろう。しかも止める手立ては無いから、最悪の事態は十分に考えられる。


「アサドさん、私とエアハルト、それからサクール君で日本へ行って、直接調べてみようと思うんですけど?」


 今回の問題は、医学者でもあるイーリス、刻印神器生成者のニア、リゲル、アーサーにとっても他人事ではない大問題だ。


「……林虎、どう思う?」

「問題はアイザックの目的でしょう。仮に日本を掌握したとして、次は何をしたいのか……」

「中華連合やA.S.E.A.N.だけではなく、オウカの件がありますから、ロシアも黙ってはいないでしょうね」

「それを言ったらフランスもだ。名村さんとセシルさんのことがある」


 刻印神器が表に出た事件はこの一年で二件発生しているが、今回はそれより大きな問題になりかねないどころか、戦争につながる危険性も孕んでいるのだから、七師皇にとっても看過できない事態と言える。


「ルドラ、異存は?」

「ありません」

「では七師皇・三剣士の総意で、日本へ向かう。だが相手は刻印神器、元七師皇である以上、最悪の事態を想定しておけ」


 魔剣事件の時もニアが動く寸前だったが、あれはフランスがダインスレイフの存在を隠していたため、七師皇としても初動が遅れてしまい、最終的には飛鳥と真桜のブリューナクによって解決したが、若い術師を危険に晒してしまったことが問題になった。そのため刻印神器が関与する事件は、七師皇や三剣士としても即座に対応することを魔剣事件後の七師皇会談で決定していたが、こんなに早く次の事件に遭遇することになるとは、誰も思ってもいなかった。


「すいませんな、我が国のことで」


 一斗としては、総会談に続いて七師皇や三剣士の手を借りる事態になってしまったことに、頭を抱えるしかない。だが自分や菜穂だけでは対応しきれないし、取り返しのつかない事態になることに比べれば他に選択肢はない。そもそも一斗が頭を抱えているのは、借りを作ったなどという理由ではなく、事件終息後の接待にかかる費用を捻出するのがめんどくさいという理由だったりする。メンツは大事だが、時と場合によってはゴミにしかならない、というのが一斗の持論でもある。


「発端は共和連合です。私の手で収集を付ける義務があります」

「来日する時期が早まるだけですよ」

「理由はどうあれ、ようやく日本へ行けるわけだから、私達としても願ってもないことよ」

「そういえばエアハルト、JFSとはどうなの?」

「実に有意義な情報をいただいている。ことが落ち着けば、正式に訪問させてもらうつもりだ」


 七師皇達もただで来日するわけではなく、それぞれが適当な理由を見出しているし、放置すれば世界大戦に発展する可能性が高いわけだから、無視することは最初から考えていない。これが他の国であったら、一斗も同じことを考えるだろう。


「そういうことなら、早く解決しなければいけませんね」

「ミシェル君。アルフ君の件だが、私はいつでも歓迎していると伝えてくれ」

「わかりました。伝えます」


 アルフは三剣士に匹敵する実力者で、向こうから協力を申し出てくれているわけだから、断る理由はない。


「せっかくだし、うちの子達も連れていこうかしら」

「イーリス、観光じゃないんだぞ?」

「わかってるけど、こんな機会がそうそうあるわけじゃないもの。オウカちゃんのこともあるしね」

「それは歓迎するけど、感染しても責任は持てないわよ?」

「百も承知よ」


 だがイーリスの子供達は、こんな危険地帯に連れてくる理由がなく、感染する可能性も低くないのだから、それを理由に国際問題にされても日本としては困るとしか言えない。だから釘を刺すのは当然だが、それでも万が一の場合、ドイツは問題にしてくる気がして仕方がない。その場合はイーリスに止めてもらうことになるだけだが。


「ところで一斗、なぜ今日は雪乃がいないんだ?」

「まだ高校生ですからね。試験中です。それに私達は連盟本部に戻りましたから、簡単には呼べません」


 明星高校3年生である雪乃は、今回の試験に卒業がかかっている。成績優秀の雪乃が落第することは万に一つもあり得ないが、それでも試験中の学生を京都まで呼びつけるような非常識を行うつもりは、さすがの一斗にもなかった。


「それは残念です。複数属性の設置型生成者オラクル・ヴァルキリー。一度話をしてみたかったのですが」


 サクールは単一属性とはいえ、雪乃やイーリスと同じ設置型刻印法具の生成者でもあり、そもそも設置型の生成者は世界でも十人程度しか存在していない。そのため雪乃に親近感を感じており、ぜひ一度会ってみたいと思っていた。


「日本に行けば、会えるわよ。アーサーがいるから、二人きりは難しいと思うけど」

「なぜ僕なんですか?」

「これだもの」

「そういうことですか。その点は安心してもらってもいいですよ」


 アーサーは相変わらずだが、サクールは察したようだ。一流の生成者全員が鈍いわけではないのは、七師皇を見ていればよくわかる。


「もしやサクール、意中の人でもできたのか?」


 だがそのサクールの発現に、師匠でもあるアサドが敏感に反応した。


「実はそうです。帰国したら師父にも紹介するつもりでした」

「しかもその子、ドイツに来てるのよね」

「よし、わかった。サクール、その娘も日本に連れてこい」

「彼女も、ですか?」

「当然だ」


 アサドは至上命題として、サクールの結婚相手を探していた。何度か見合いもセッティングしていたが、どうやら自分で相手を決めていたようだ。これはアサドにとっても非常に嬉しいニュースだったから、すぐにでも会いたいというのが偽らざる本心だった。


「ついにライブラリアンも結婚ですか。日本のエグゼキューターとフランスのサクレ・デ・シエルのこともあるし、めでたいことが続くな」

「次は誰になるのかしらね」


 七師皇の直弟子でもあるサクールの結婚は、七師皇にとっても関心事だった。同じ立場にある中華連合の王星龍も同様だが、こちらもお相手が決まっていると聞いているし、この場にはいないこともあって、今の関心度はサクール程ではない。七師皇にとってはこの場にいる独身の三剣士二人の方が気になるのは、ある意味では当然だろう。


「はい?」

「な、なんですか?」

「アーサーはまだ学生だからともかく、ミシェルはまだ恋人の一人や二人、見つからんのか?」

「……恋人ってのは、普通は一人じゃないんですか?」

「三剣士なんだから、三人や四人いても不思議じゃないでしょう」

「なんで増えてるんですか!あいにくとまだ、そんな人はいませんよ」


 まだ学生のアーサーは、とある理由もあって放置に近いが、ミシェルはそうはいかない。このことを七師皇が見逃すはずがないこともよく知っているが、本人としてはたまったものではない。本当に勘弁してくれと、心から思う。


「まあ、その理由もわかってるんだけどね」

「そうなんですか?」

「そ、それより!いつまでに日本に行けばいいんですか!」


 旗色が悪くなりすぎたどころか、へし折られかねない勢いの話を回避するため、ミシェルは声を上げて無理やり話題転換に乗り出した。


「いつでもいいが、なるべく早くだ。連盟の本部へ行こうと、直接鎌倉へ行こうと、それは各人の判断に任せる」

「そうそう、アーサー君」

「なんでしょうか?」

「三条君の自宅には泊まれんぞ」


 アーサーが雪乃と親しくしていることは、七師皇にとっても周知の事実となっている。


「確か雪乃さんのお母さんが、間もなくご出産されると聞いていますが、だからですよね?」


 だがアーサーは、そのことにはまったく気付いていない。それどころか雪乃の実家に宿泊できない理由を告げることで、七師皇も溜息を禁じえなかった。今回はその理由が当たり前すぎるものだったから、七師皇としても納得せざるを得なかったわけだが。


「彼女の母上が?」


 そして理由を理解すると、雪乃の母が出産間近だということでまた話が弾むことになった。


「ええ。実はあの子のご両親、私より若いんですよ」

「そうなの?」

「ああ。息子達が世話になっているので、今年の正月に挨拶をさせてもらったんだが、まだ20代といっても通用するだろうな」


 雪乃の両親は、見た目がとても若々しい。一斗も菜穂も、最初は雪乃の兄姉だと思っていたからけっこう驚いたことを覚えている。三条一家としては七師皇がやってきたわけだから、正月早々大慌てだったが。


「奏さんなんて、雪乃ちゃんと姉妹だって思われてるみたいだものね」

「それはまた、羨ましい話ね。若さの秘訣でも教えてもらおうかしら?」

「秘訣は夫婦円満、家族円満だそうよ」

「家族円満って……ああ、そういえばオウカが言ってたけど、確か彼女の下に、三つ子がいるんだったわね」

「三つ子とは珍しいな」

「それだけじゃなく、お腹の中にいるのは双子なんですって」

「それはまた子だくさんだな」


 今の時代、どの国でも子供は一人から二人が平均となっているのに対して、三条家は四人姉弟で、しかも双子が生まれる予定になっているから、十分子だくさん一家と言える。


「僕達は会ったことがありますが、元気のいい子達でしたね」

「だな。一人男がいますが、美人姉妹の中の黒一点ですから、かなり肩身が狭そうでしたよ」

「それはそうだろう。私にもよくわかる」

「あれ?アサドさんって兄弟いたんですか?」

「姉が三人と妹が五人いる。男は私だけだったから、若い頃は大変だったぞ」


 既に他界しているが、アサドの父は世界的な富豪であり、妻も三人いた。母同士の仲も良好だったし、唯一の男だったアサドは三人の母から可愛がられて育っていたが、姉や妹達も同様だったため、若い頃は色々と苦労しており、その反動なのかアサドの妻は一人で、妾すらいない。


「ならその子に、アサドさんの経験談を聞かせてあげた方がいい気がしますね」

「一番上のお姉さんが、世界的な有名人になっちゃったものね。その三つ子ちゃん達のプレッシャー、とんでもないわよ、きっと」


 似たような境遇とはいえ、七師皇の長が訪ねてくれば、それだけで仰天ものだということは、この場の誰も考えていない。七師皇にとってはいつものことだから、考えるだけ無駄でもある。


「機会があればな。では各人、なるべく急げよ」

「感謝しますよ、皆々様」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ