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「…今回は、佐野さんにいろいろお世話になりました」
朝倉家の自室、窓に軽くもたれながら、直樹の顔を脱ぎ捨てた周一郎が続ける。
「僕と直樹を入れ替えたのも彼女…もっとも、僕は死ぬつもりだったけど」
翳らせた深い瞳をゆっくり瞬いた。
和野岬で俺達を追って来た二台のオートバイのうち、ヘルメットを脱ごうとしていたのが直樹だったらしい。綾野の卑劣さに嫌気がさして裏切ろうとしたが、果たす前に消されてしまったのだ。お由宇は周一郎を追っていて、それに気づき、二人を入れ替えたという。
そして、周一郎は直樹に成り済まし、俺達と行動を共にした。
「綾野がどういう手を打って来るかわからなかったから」
ぽつりと言った周一郎の、口に出さなかった部分を、お由宇ならこう言うだろう、残された俺の身を案じたに違いない、と。
「理香さんも協力してくれました」
彼女も辛い立場だったはずだ。恋人そっくりの偽物相手に、幻の、もう戻ってこない日々を重ねなかったはずはない。
そうやって、綾野にとって目に見えぬ蜘蛛の糸が、静かに張り巡らされていったのだ。
ふと、耳の奥に、お由宇の電話の声が蘇る。
『不運だったと言えばそれまでだけど……そうね、彼の作戦がうまくいき過ぎたことにしておきましょう』
あの、彼、は周一郎のことだったのだろう。
『きっとそうね、あちらの末端から追い込んでおいたんでしょうけど……今までなら、綾野ごときに食いついてはこなかったでしょうし。全く喰えないお子様よ』
俺の知らないところで、まだまだいろいろと、周一郎はお由宇を苦笑させるような喰えないことをやっていたということだろう。
種明かしを頼もうかと思ったが、窓にもたれてじっと月を眺めている周一郎があまりにも物憂げで、俺は諦めてコーヒーを口に運んだ。
「滝さん」
「ん?」
思い詰めたような声音に目を上げる。
「もし、僕が、側に居てくれと」
言いかけて周一郎は口を噤んだ。そこから先を続けられないまま唇を噛み、気を取り直したように、
「僕はここに居ても」
だが、その問いも途切れる。
(死んでも治らねえな、この意地っ張りは)
思わず苦笑した。
そういう俺だって、同じ問いを周一郎にしろと言われれば、やっぱり口ごもるかもしれない。
必要だと言ったら居てくれるか?
ここはお前の居場所だと言ってくれるか?
家族らしい家族もなく、違う意味でお互い天涯孤独、意地を張って背中合わせに立ち尽くす、けれどわかっている、背中から風が吹き込まない、その安心を感じている。
しん、と胸に沁みる想いだった。
「お前が……生きててくれてよかったよ」
俺はそっと静かに吐き出した。
コーヒーのほろ苦さが想いの優しさを際立たせていく気がする。
そして、俺には周一郎ほどの自制力の持ち合わせはない。
ぴくっと指を震わせた周一郎が、ためらうように視線を投げて来るのに、途切れた問いかけを感じ取る。
『僕はここに居てもいいんですか、滝さん』
(当たり前だろ)
聞こえない問いに、胸の中で返答する。
(お前以外の誰がここに居られるんだ)
けれど、口にしたのは違うことばだった。
「生きててくれてよかった」
(二度とあんな想いはごめんだ)
(勝手に一人で決めちまうな)
(もっと寄りかかってくれていいんだ、少なくともお前よりは年上なんだし)
続けたいことばは山ほどあった。
けれどどれも、今口にできるこのことばほど、真摯なものにはならないような気がした。
「本当に、よかった」
「…」
つい、と突然周一郎が窓の外へ顔を向けた。嬉しいような哀しいような表情で下唇を噛んだその頬に、一瞬、光るものが伝わったような気がした。
「…クレッセント・ムーンですね」
淡々とした声が微かに震えている。
「ああ」
俺は応えて、ゆっくりコーヒーカップを傾けた。
終わり




