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月下魔術師 〜猫たちの時間3〜  作者: segakiyui
8.夜に還れ

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4

「冷や汗かいた…」

 ぼやく俺ににやりと笑ったお由宇は、大騒ぎになっている船上の喧噪を離れ、もう片端のデッキの下を覗き込みながら応えた。

「思ったよりもうまく行ったわね」

「で、本物は?」

 俺の問いに、相手はつい、と下へ手を伸ばした。白い指先に視線を導かれて、暗い波間に仄白く漂うモーターボートを見つける。

 乗っていた人影がくるりとライトを回して合図した。

「あれ?」

「アンリよ。直樹ももう戻っているみたいね」

「本物も?」

「置いていったって仕方ないでしょ」

 アンリに言ってやりたい。これでもお由宇より俺の方がコワイというのか?

「これで…綾野も終わりかな」

「この世界では無理ね。信用第一、ですもの」

 肩を竦めたお由宇が足下の何かを拾い上げ、外へ放り投げる。かあん、と高い音をたて、一度船体にぶつかったのは縄梯子、そのままつるつると海面近くまで落ちていくのに目を見張った。

「どうするんだ?」

「降りるの」

「どっから!」

「ここから」

「無理だって!」

 思わず首を振った。

「絶対無理、落ちた方が早いから」

「落ちてもいいけど、拾い上げにくいわよ? 夜だし、暗いし」

「いやいや、待てって」

「スーツだし、汚したら弁償でしょ?」

「いやそういうことじゃなくってさ、上に居て何とか隠れるとか」

「あのね、今はあのお客様方、綾野の追跡に夢中だけど、そのうち私達のことを思い出すわよ? かなりの事情通だったなあとか、それならもっといろんなこと、綾野の行き先と知っていないかなあとか」

「俺達が知るわけないだろが!」

「ええそうよ、でもあっちもそう考えてくれるとは限らないのよ?」

 言い合っている間に、モーターボートは縄梯子の下端を確保してくれたらしい。

「じゃあ、お先に」

「え、お、おい!」

 お由宇はふわりと身軽に手すりを乗り越え、まといつくドレスを膝上にたくし上げ、するするとかなりの早さで縄梯子を降りていく。

「待てよ、そんなの聞いてねえって…」

 けれど、お由宇の言う事はもっともで、客達に綾野が捕まるとは思えず、それならもう少し動きの鈍そうなこちらに矛先が向かうのは時間の問題だ。

 溜め息をついて手すりを乗り越える。それだけで、波に従って上下する船体に煽られ体が半端に浮きそうなのを、必死に堪えて縄梯子を掴んだ。踏みしめても沈むロープ、しっかり掴んでも変形してしまい、ごんごんと船体にあたる足や手、すぐに千切れないと思ってはいても、安定しなくて頼りないことこの上なく、必死に探ってボートに辿り着いた時には全身汗びっしょりだった。

「オ疲レサマ」

 アンリが俺に労りの声をかけて、ひょいと片手で何かを構える。

「何?

「証拠隠滅」

 かわりに直樹が低い声で答えてくれた。ばしゅっ、という音と閃いた光が意味を付け加える。断ち切られた縄梯子がボートに落ちた。

「サ、行キマショウカ」

 アンリは淡々と銃を片付け、操縦桿を握った。振動音とともにモーターボートが『マリー・ボネ』号から離れていく。

(綾野…もう、行く所はねえんだろな)

 組織に戻れるわけがない、起死回生の一手が破滅を招いたのだから。死人となっているからには、普通の生活にも戻れない。

 蒼白になっていた綾野の顔は、それまで感じていた鬼神でも得体の知れないオカルトっぽいものでもなく、ただただ白く無表情、月光を受けてたゆとう波間に浮かんで滲む。

(まさか、ああいう風にひっくり返されるとは思ってなかっただろうな)

 何だか、妙に、気力が落ちる。

「元気ないな、滝さん」

 直樹が、ちらりと俺を見上げた。

「ん…」

 吹き寄せてきた風の冷たさに目を細める。

「俺…さ」

 何だろう、この空しさ。一番ぴったりくることばを胸の中から探した。が、零れたのは、その瞬間まで思いもしなかったことばだった。

「綾野を何とかしたら………周一郎が帰ってくるような気がしてたんだ」

 ふいに、その想いが胸にあふれて、我にもなく、ましてや柄でもなく、ことばが詰まった。

「周一郎、が…」

 直樹が掠れた声で呟く。

「ああ」

 白々とした月光は、周一郎が生きていた頃と同じように明るく、ある種の澄み切った静けさを満たして降り注いでいる。煌々と輝く月は、白い面輪を曇らせもせず、俺を見つめ返している。

 綾野相手に大バクチをやらかした顔、アンリ、直樹、お由宇、そして俺……ただ、周一郎だけがこの場にいない。

 誰よりもここに居るのが当然、居るべきはずのあいつだけが、いない。

「馬鹿だな……死んじまっているのに」

 吐いたことばが自分の胸に沁みて、俺は眉をしかめた。

 それは重い実感だった。たとえようもなく重い、確かな実感だった。

 どうしてこの実感が、今の今まで湧かなかったのか、それが返って不思議だった。

 周一郎は、いないのだ、もう永久に、どこにも。

「朝倉家を出るの?」

「うん」

 お由宇の問いに、小さく息を吐いた。

 脳裏で澄んだ黒曜石のような瞳が瞬き、静かに閉じられる。

「うん、出ようと思う」

 ぼそりと答える。

 一人問答をしていた時よりも、それは一層はっきりした気持ちになっていた。

「すぴーど、アゲマスヨ」

 アンリの声がそう告げ、風が強まった。

 

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