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綾野啓一。
周一郎を妹の仇と狙い、朝倉家を手中におさめようと、あれこれ仕組んだ男。
思い出す爬虫類のような瞳に奇妙な感覚が広がる。
あいつが自殺?
地球が滅びても自分だけは生き残る手立てを仕込みそうな奴だと思ったんだが、違ったのか。ひょっとして、周一郎もお由宇のことではなくて、そのことを考えているんだろうか。
パリはあいつの本拠地だった。先日の事件に絡んでいるとお由宇も伝えてきている。こちらでは終わったそれが、あちらではまだ動いているとも。
けれど、全ての黒幕であった綾野が死んでしまった以上、もう何をどうしようもないんじゃないか。
周一郎の思考も一区切りついたらしく、カップを置いて溜め息を付きながらソファにもたれる気配がした。横目で盗み見ると目を閉じて少し眉を寄せている。
今日は一日中難しい案件があったようで、部屋からほとんで出て来ていないと高野も言っていたから、疲れてしまったのかもしれない。端正な顔が微かに青白くなっていて、伏せた瞼に陰が差している。
「大変だよな…」
思わず呟いてはっとしたが、周一郎は気づかなかったようだ。くったりと背中をソファに預けている姿が妙にか細く見える。
無理もない。
たった十八、九で巨大な企業を背負って、そりゃ、小さい頃から慣れている、才能がある、運命だ、そう言うのは簡単だろうけど、そのせいでこいつが受け取れなかったもの、満たされなかったものはきっと俺が思っているよりもうんと多いに違いない。
かといって、どこをどう楽にしてやれると言うわけでもないんだが。
今でもこうやって宿敵の死をあっさり喜べない大人びた感覚に、俺の方が面倒みてもらってる。
それでもいつか。
周一郎が心の底からほっとできたり笑えたりするようになればいい。違う人間になるとか、仮面をつけてとかじゃなくて、周一郎自身として、真実楽しいとか嬉しいとか思えればいい。
そのために何か少しでもしてやれるといい。
「うん」
まあとりあえず俺の仕事はこれ以上こいつに迷惑をかけないことだよな、そう頷いて、残ったコーヒーに手を伸ばそうとした矢先、とん、と肩に何かが当たった。
「……お」
振り向くと、ソファの背にもたれていたはずの周一郎の体が滑ってきて、俺の肩に頭を寄せている。すうすうと軽い寝息が響いていて、どうやら一休みしたつもりが眠り込んでしまったらしい。
「おーお、無邪気なツラして」
微かに開いた口元、緩やかに溶けた表情は幼い。俺の肩に頭を預けて、眠りはいよいよ深くなっているようで、俺が動いても全く起きない。
「……頼ってくるのは、おかしい時か、眠ってる時か」
苦笑いして、再びコーヒーに手を伸ばそうとし。
「……うーむ」
届かない。
「う、うーむ…」
高野のコーヒーは旨いんだが。
「う…う…うーむ……」
あまり身を乗り出すと背中とソファの間に周一郎の体が落ち込んじまうし、かといって支えて動けばすぐに目を覚ますだろうし、このままの位置で、と頑張ってみたが肩の骨を外しそうなほど伸ばしても後数センチが届かない。
「も…すこし…」
「……ん…」
「わ」
もぞもぞ、と周一郎が身動きして、ひやりと思わず動きを止める。
いやもちろん、起こしてもいいんだ、別に構わないんだ、けどな。
せっかくこんなに無防備に眠ってるのを、起こしてやるのは可哀想じゃないか、なあ?
誰ともわからぬ相手に同意を求め、そうだよな、そらそうだ、と溜め息をついた。
コーヒーはまたいつか飲める。こいつは次にはこんな風に眠らないかもしれない、眠れないかもしれない。
「だよな」
諦めて腰を据え、体勢を整えて周一郎がまったり体を預けやすくしたあたりで、密やかなノックが響いた。
どうぞ、と小さな声で応えると、聞き逃すこともなく高野が入ってきて、俺と視線を合わせたとたん呆気に取られた顔で立ち竦む。
「お加減でも…?」
「いや、寝てるだけ」
「眠っておられる、んですか…?」
「疲れたんだろ……ああ、そうだ」
どうせなら毛布持って来てくれ。
「冷えてくるしさ、もう少しのんびり寝かせておいてやりたいし」
「はい、すぐにお持ちしますが………そうですか……お休みに……」
高野は首を振りながらコーヒーを片付けながら続けた。
「坊っちゃまが他人の側でお休みになるのは……初めてでございます」
「はい?」
いや、他人の側でって。
そもそも周一郎はここへ引き取られてきたんだから、周囲には他人しかいなかっただろうに。
「大悟ってのが父親がわりだったんだろ?」
それに清も居たわけだし。
俺がよっぽど妙な顔をしていたんだろう、高野は複雑な顔になった。
「旦那さまは坊っちゃまにとってお仕事のお相手でしたし………お仕事もおありでしたので、休まれるのはいつも皆が寝静まってから……私どもが最後の見回りをする前後だったと記憶しております」
「最後って……十時とか……」
「私は十二時から一時、でございますね」
「……いや、待て、その頃ってこいつ…」
小学生とかそういう年齢だろ?
「それまでずっと仕事?」
「眠くならないから、とおっしゃって」
「…そんなわきゃねえだろ」
精神は大人でも、体も心も子どもだっただろう。一日大人と対等に話して仕事して、きっとくたくたに疲れ果てていたはずで。なのに眠れなかったのは。
「……安心、できなかったのか」
「……おそらくは」
「………馬鹿が…」
こいつも、周囲の大人も、みんな馬鹿だ。
誰も気づいてやらなかったのか、眠くならないはずがないと。誰も気にしてやらなかったのか、疲れ切っているのではないかと。
だからこそ、張りつめた心は夜が来ても緩まない、いや夜になり人が動いている間は眠れない、何かを失うのではないか、何かに脅かされるのではないかと不安で。
その不安や恐怖を、誰もこいつから受け取ってやらなかったのか。
出て行った高野が毛布を持って戻ってきて、俺達の上にそっとかけてくれた。周一郎はそれでも起きない。俺がそっと体を倒して、一緒に軽く支えつつソファにもたれても、周一郎は目覚めない。
「…本当によくお休みですね」
高野が嬉しそうに呟いた。
「だな」
柔らかな寝息、甘い温もり、俺もじんわり眠くなる。
こんな周一郎を知っているやつが一体何人いるだろう。
「……おやすみなさいませ」
よろしくお願いいたします。
高野の口に出さない懇願を聞いて、俺は頷いた。部屋の明かりを消して、高野がゆっくりドアを閉める。
窓にかかったカーテンの隙間から澄み切った濃紺の空が見えた。
そこに浮かぶ煌々と白い月。
差し込む光は清浄だが冷たくて固い。まるでこいつのようだ。
けどな、周一郎。
俺は目を閉じ、見る見る闇の中へ落ちていきながら囁いた。
月も真昼には眠っているんだ。
温かな大地の底で。




