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(帰ってこない)
冷たい感触の指先が心臓に届く。
(周一郎は二度と俺を呼ぶことはない)
「……」
ゆっくり我に返る。
正面の俺のポートレートが能天気な笑みを浮かべている。
周一郎の個室に、その写真は掛かっている。ベッドと上品な落ち着きをたたえる木製の調度品の中、部屋のどこからでも見られるように。
まるで、一番大切な家族、離れてはいるけれど、誰よりも側で見守ってほしい家族の写真のように。
「…んなもん、飾ってどうするんだ」
写真は答えない。
写真は助けない。
俺はすぐ側に居たのに。
(最後まで一人で逝ってしまった)
落ちた時に、周一郎が自分から差し伸べた手を引き寄せてしまったことが、心に苦く澱んでいる。
「ひきずり落としときゃ、よかったんだ」
こんなに鈍感な俺なんか。
「こんなふうに大事にするほどの価値なんて、なかったんだ」
写真に毒づく。
どれほど哀しかっただろう、自分から救いを断ち切ってしまうのは。
どれほど苦しかっただろう、これほど心を許した友人に裏切られるというのは。
「俺を落として、お前が助かればよかったんだ……っ」
冷たい顔で冷ややかに振舞っていた通り、俺の安全なんか、気にしなくてよかったんだ。
「にゃ」
「……ルト?」
ふいに声が響いて振り向くと、部屋の隅から青灰色の猫が立ち上がり、とん、と机の上に乗った。そのまま、燃えるような金色の目でこちらを見ている。
「…呪い殺していいぞ」
お前にはその資格がある。
自嘲気味に呟いてみせたが、相手は俺の自己憐憫なぞに興味はなかったらしい。瞳を鋭く煌めかせると、こととっ、と机の上にあった本を蹴り落として床に飛び降り、そのうちの一冊を踏みつけて小さく鳴いた。
「にゃむ」
「何?」
「んにゃ」
「何だ?」
こっちへ来てみろと言わんばかりの声に、ゆっくり体を起こし、ルトの側へ近寄る。ひらりとルトが身を避けて、踏みつけていた本を拾い上げる。
立派な革表紙の本、だが開いてみて、繊細な文字で書かれたそれが日記だと気づく。
「…今日、遊び相手が来た。滝志郎。大悟に似ている。だがドジだ……俺?」
おい、ルトこれは、誰の。
振り向いてみたが、既にルトは姿を消している。
日付は俺が初めてここに来た日だから、ここの家の者には違いない……もしかして。
「周一郎の…?」
おいおい、それはまずいだろ、と慌てて戻そうとしたとたん、捲れたページと視界に飛び込んだ文字に動けなくなる。
『滝さんが撃たれた。僕は自分を許さない』
「ああ……あの時の…」
『こんな人が居てくれたら、どれほどこの世界が好きになれるか、と』
「………」
胸が詰まる。
のろのろと椅子に戻り、俺が屋敷に来た日からゆっくりページを捲った。
『わからない。どういう人だ? 見えている通り? こんな人が世の中を生きていける? ぼくと同じ、孤児なのに』
『本当に見えている通りのお人好し? あり得ない』
『本気で心配して、子ども扱いする。不愉快だ。計画に適合しない?』
『他人をあてにした。僕が。怪我をしたせいだ。計画がずれたせいだ』
『何を迷ってる? 打つ手は終わった。滝さんを使えばいい。けれど、嫌われる? たぶん確実に。憎まれる? あり得る。憎まれるんだ』
『ミス。滝さんが危ない。怖い。どうして? 失敗が?』
『滝さんを庇ってしまった。馬鹿か? 僕が? 滝さんが? きっと僕だ。キャストをミスしたのに手放さなかった』
『種明かし。しなくていいのにしたかった。嫌われたくなかったが嫌われた。憎まれた。二度ともう戻ってこない』
『二度と戻ってこない。助けてくれそうだったけど』
『二度と戻ってこない』
『戻ってくるはずない』
『どこにいるんだろう』
『戻ってくるはずない』
『大丈夫か』
『二度と戻ってこない』
『戻ってきた。なぜ? ああもう理由はいい。戻ってきた』
胸をえぐられて読むのを止める。
朝倉家に戻った時の周一郎の顔を思い出す。自制がきかずに、一瞬ぱっと顔を輝かせた。その時ばかりはサングラスが不似合いな子どもに戻った顔。
「……ちっ」
舌打ちして日記に戻る。
逃げるな。こっからが俺がやったことだろ。
『清の裏切り。罠。滝さんが一緒だ』
『僕は、大丈夫だ』
日記は少し途切れている。無邪気な『直樹』の時間。
光の中、笑い声、あのまま周一郎を放っておけば、今も生きていたんだろうか。あんな切ない死なせ方をさせなくて済んだんだろうか。
『滝さんが撃たれた。僕は自分を許さない』
『こんな人が居てくれたら、どれほどこの世界が好きになれるか、と考えては、いけなかった』
『何度も戻ってくる。なぜ? 危ないのに。なぜ? 僕は何もしないのに? なぜ?』
『信じる、という行為は何だろう。意味がないのに。滝さんはなぜここにいる?』
『彼女から警告。綾野は生きている』
ざわ、っと背中の毛が一気に逆立った。




