0881 ゾルン皇太子と三号君
バーダエール首長国ゾルン皇太子の朝は早い。
日が昇る前から始まる。
隣に眠る妻を起こさないように、そっとベッドを出る。
ほとんど音をたてずに隣室に移動し、昨晩の内に置いておいた書類の山に目を通す。
近侍の者たちを呼ばず、一人で仕事を進めるのだ。
「私は、父に比べて経験が浅いし、行政に関しても理解が深いとは言えない。少しでも、父との差を埋めたいと考えているのです」
行政長官の一人が、ゾルンの早朝からの政務に関して問うた時に、ゾルンはそう答えた。
周囲に迷惑をかけたくないために、前の晩から用意しておく辺りがゾルンらしいと言えるだろう。
しかしゾルンは知っている。
扉の向こう、廊下にはすでに立っている人物……いや立っている氷のゴーレムがいることを。
そのゴーレムは、どうやってか分からないがゾルンが起床するのを感知し、いつの間にか廊下にいるのだ。
廊下にいるだけで、特に何かをするわけではない。
ただ、ゾルンが出てくるのを待つ。
その後、多くの者が起床し、朝食、ゾルンがいくつかの指示を出し、さらに書類決済の仕事をして、部屋を出た。
今日の大きな仕事の一つ、首長会議への出席のためだ。
当然、部屋の外には氷のゴーレムがいる。
その名は、突撃探検家三号君という。
「三号君さん、首長会議に出ます。ついてきていただけますか?」
ゾルンが問いかけると、三号君は無言のまま頷く。
当然、三号君は話さない。
彼が持つ氷の板にも、文字が浮かぶことはない。
ロンド公爵が持たせた氷の板は、三号君の意思を表示するものではなく、ロンド公爵にこちらの準備が整ったことを伝えるためのもの。
そのため、基本的に三号君が背中に背負ったままだ。
途中、ゾルンが後ろを見ると、ゾルンの供回りの者たちの後ろから、三号君はついてきている。
最初は、供回りの者たちもびくびくしていたが、現在ではむしろ仲間意識すらあるようだ。
正直ゾルンも、最初は監視されているかのような居心地の悪さを感じていた。
それは事実。
だが今では、全く違う。
反抗的な者たちですら、ゾルンの後ろに立つ氷のゴーレムを見て思い出すのだ。
誰が、その後ろ盾になっているのかを。
恐るべき水属性の魔法使い。
最近は、バーダエール首長国にも、吟遊詩人が歌いまわる『ナイトレイ王国解放戦の歌』が広まり、ほとんどの民が聞いたことがあるほどになった。
最初に歌ったのは、東方で活動する吟遊詩人だったらしいのだが、良いものは広がる。
他の吟遊詩人たちが、こぞって歌い広めた……。
そこで謳われる水属性の魔法使い、ロンド公爵。
そのロンド公爵自らが造り出した氷のゴーレムが、ゾルン皇太子の後ろにいる。
ロンド公爵は、『清涼なる五峰』のキンメを一騎打ちで破り、バットゥーゾン首長の身柄を奪っていった。
そんな恐ろしい魔法使いに盾突く?
あり得ない。
ゾルンがバーダエール首長国に戻り、権力を掌握しつつあった頃、襲われたことがある。
供回りの者たちの守りを抜け、凶刃がゾルンの身に届きそうになった時……三号君が割って入った。
襲撃者の剣を受けても全く傷つかず。
そして右腕を振った一撃で、襲撃者を気絶させた。
結局、襲撃は失敗。
その事件は、ゾルンの力を強くした。
バーダエール首長国内で、ゾルンに反抗的だった有力者たちは、襲撃の容疑者として取り調べられ財産を没収された。
首長国において、財産の消失は権力と地位の消失と同じ意味だ。
これによって、バーダエール首長国内でゾルンに対抗できる者は、完全にいなくなった。
さらに、『ゾルンを守る氷のゴーレムの強さ』も国中に広がっていった。
それはある種、不思議なほどの速度と広がりであった。
まるで権力を掌握しようとしていた者が、あえて広めたかのような……。
もちろん、ゾルンは詳細を発表したりはしない。
恐るべき氷のゴーレム。
それはバーダエール首長国内だけでなく、東部諸国を形成する国々にも広がっていった。
『東部諸国』は、地域の名であると同時に国の名でもある。
何十もの中小国家の連合体、ある種の連合国だ。
その国々の中でも、古くからある八つの首長国は、バーダエール首長国と特別な結びつきを保ってきた。
そんな八つの首長国と、バーダエール首長国の長、九人が集まるのが、首長会議である。
国力差は、バーダエール首長国一国に対して、残りの八つの首長国が合わさっても全然かなわない。
とはいえ歴史的な関係から、バーダエール首長国も他の八つの首長国を無下に扱うことはなかった。
これまでは。
「ゾルン殿下、ここは首長会議の場です。失礼ですが、閣下は首長ではございません」
そう告げたのは、ラッシュン首長国のザン首長。
ラッシュン首長国は、バーダエール首長国に次ぐ国力を持つ国である。
ザン首長も権力志向の強い人物であることが知られてはいるが、バットゥーゾン首長の前ではこれまでおとなしくしていた。
しかし、現在、バットゥーゾン首長はいない。
今こそ、東部諸国の中心に躍り出るチャンス……そう考えているのは、誰の目にも明らか。
「ザン首長、おっしゃっていることは理解できます」
「そうですか。ではお引き取りを……」
「理解できるだけで、言葉を受け入れるつもりはありませんが」
「……は?」
はっきりと言い切るゾルン皇太子、想定外の言葉を返されて驚くザン首長。
「父バットゥーゾンは、現在、国政に携わることができません。それは皆さんもご存じの通り。そして私は、首長の代理としての権限を持つ皇太子です。正式にその立場にあります。過去の例から言っても、首長がその任に当たることができない時、皇太子がその全権を代行することは可能です」
「……」
「ですので、バーダエール首長国の代表として首長会議に参加する権利を持っています」
いっそ穏やかな口調で言い切るゾルン。
口調は穏やかだが、誰も抵抗できない。
ザン首長はもちろん、他の七人の首長たちも何も言えない。
彼らは、小さな頃からゾルンを知っている。
優秀な頭脳を持っているのは事実だが、バットゥーゾンほどの度胸と決断力はない……。
そういう認識であった。
むしろ、ひ弱な印象すら持っていた。
それが……。
今、目の前で見せられ、目の前に立たれているこの状況では、その認識が誤りであったと分かる。
ゾルン皇太子は表情を変えぬまま部屋に入り、バーダエール首長国の席に着いた。
他の八人の首長は何も言えないままその行動を見送り……ゾルンの後ろに立ったものに目を奪われる。
「氷のゴーレム……」
呟いたのはザン首長。
だが、その言葉は、会議室内に無音のまま広がった。
驚きと畏怖を伴って。
「例の、水属性魔法使いの……」
「あれが……」
首長たちは何も言わない。
口をついてそんな言葉が出てきたのは、各首長国の官僚たち。
ここにいる者たちは知っている。
なぜ、バットゥーゾンが首長会議に出られないのかを。
なぜ、氷のゴーレムがここにいるのかを。
嫌でも理解させられるのだ。
東部諸国全体が、窮地に陥っているのだということを。
氷のゴーレムは何も言わない。
だが、そこにいる、その存在だけで、首長たちに突きつけている。
権力争いなどしている余裕があるのかと。
「それでは皆さん、首長会議を始めましょう」
ゾルン皇太子の言葉に逆らう者は、もう誰もいなかった。
「ありがとうございました、三号君さん」
ゾルンが執務室に戻ったところで頭を下げる。
三号君はいつものように何も言わずに、小さく頷くだけだ。
まさに「気にするな」と言わんばかりに。
「無事に、首長会議でも議案が通りました」
ゾルンが説明する。
「一週間後、東部諸国全体会議が開かれます。そこでは、私の東部諸国代表就任が最大の議案となります。根回しの感触は十分。問題なく代表になれるでしょう。それがなったら、ロンド公爵様に連絡するつもりです」
ゾルンの説明に、三号君は頷き、背負った氷の板を肩越しに軽く叩いた。
これで連絡しようと。
「はい。その時はお願いしますね」
ゾルンは微笑みながらそう言うと、頷くのだった。




