鯨竜の鼓動
地中海某所。旅人はおろか、地元の船乗りたちでさえ目にも留めない、辛うじて島と言えないこともない無人島が夜の海を見つめていた。今夜は風もなく水面に映るアルテミスの御影も揺れることのない静かな夜だった。
ザパァッ!
そんな海から一つの小さな人影が岩の上に上がってきた。ブルブルっと全身を犬のように揺らして濡れた身体から水を飛ばすと、そのまま岩の上に腰を下ろして膝を抱えた。
「……見つからないものね……場所が悪いのかしら?」
棕櫚の衣から水滴を垂らしながら、少女は不満げに呟いた。腰に巻きついている白蛇も真っ赤な舌をちろちろと揺らして、アスクレピオスの杖の不満に同意する。
アスクレピオスの杖は地中海に沈んだとある遺骸を探していた。アスクレピオスの杖の悲願を達成するために必要となるものと判断した物だ。しかし、いくら潜っても見つからない。海に潜ることは苦にもならないが、他の遺物とたちよりも気が短い方なのだ。アスクレピオスの杖は唇を尖らせながら、腰にぶら下げた革袋の中からヴェルンドから譲り受けた小箱を取り出した。そして、その蓋を開けて、中身を摘まんで目の前に持ってくるとじっと見つめた。
アスクレピオスの杖の繊細な指先に挟まれた小さな針が海面に浮かぶ月光に煌めいている。
「死者を蘇らせる針……人間が作ったにしては高等な出来栄えですネ?どちらかというと打ち込まれた魔術的な要素が強く作用して、魂亡き者の躯体を動かす……風の噂に嫉妬してしまいましたガ、それには値しない代物でしタ。でも、ワタクシの立てた完璧な計画の一助にはなりますネ」
アスクレピオスの杖は強大な力を有する他の神話級遺物たちと比べると極端に弱い。その代わり頭脳面では圧倒的だ。ヴェルンドの話を聞いて、千子山縣の生き針の有用性を瞬時に見抜いた。
「魔術的な死者蘇生など外道。医学による死者の蘇生こそが正道。主が死の瞬間、この頭脳にに刻んでくださった神慧……“蛇髪の悲女神”の血さえ揃えば悲願は再び成就するのデス……」
研究を踏まえて、針には、アスクレピオスの杖がその手で独自の改良を施した。死者の魂だけでなく、肉体的損壊をも治療しうる薬を焼き入れてある。
「“蛇髪の悲女神”が現世にあると知った時の歓喜……私の完璧な計画、その第一段階のためにも……必ず見つけ出さなくては……灯りの下は暗い……やはりヤッファを探してみるが吉ですカ」
アスクレピオスの杖は行き先を決めると僅かな波紋を起こすのみで、音もたてずに暗い海へと飛び込んだ。その影は、海蛇のように滑らかに海中を進み、やがて、溶けるかのように消えていった。
エーゲ海全域が恐怖に陥れられる三日前の誰も知らぬ独白であった。
大変ご無沙汰しております。少しずつ執筆を再開しようと思いまして、更新しました。なんとか頑張っていきたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。





