噂は広まる世界へと(後編)
──中華大帝国、中心部、渭水の畔。
「ふむ……今日はなかなか当たりがないのう」
周囲に人影のないのどかな風景の中、粗末な服を身に纏った老人が河に釣り糸を垂らしていた。それだけ切れ取れば珍しくない光景なのだが、老人は竜と馬と麒麟を足して割ったような見た目で、宙に浮く不思議な動物の背中に腰を掛けて河のど真ん中に釣り糸を垂らしていた。
何を隠そう、彼こそが中華大帝国一の魔術師にして伝説の仙人、“叡智”序列二位、太公望その人だった。
因みに彼を乗せている動物はその名を“四不象”と言い、彼が周の文王・武王に仕えていた三千年前からの付き合いになる霊獣だ。
「おーい!たーいこーうぼーう!!」
「ひょっ?」
そんな偉大なる人物を遠くから呼ぶ声が聞こえた。しかも、呼び捨てだ。声の方に顔を向けた太公望の目に映ったのは真っ白な服を着たおかっぱの少年だった。年のころは十歳前後だろうか。ブンブンと元気に手を振っている。
「なんぞあったかの……どれっ!」
太公望は垂らしていた糸を引き上げた。当然ながら獲物はかかっていない。四不象の背中を優しく叩くとふわふわと少年の待つ川辺まで飛んでいく。
「当たりはあった?」
「ひょっひょっひょ!今日は坊主じゃ。して、打神鞭や何があった?」
「“滅魔の修道女”が伏見双魔って子供に負けたらしいよ?」
「ひょっ?誠か?」
「噂じゃギリギリで“滅魔の修道女”が勝ったってことになってるけど、その実は負けたんじゃないかな?って思うよ?」
「ひょっひょっひょ!左様か……それにしてもよく聞く名じゃう?」
太公望は知らせに驚きはしなかった。どの時代も台頭する者は突然頭角を現すのが常だ。気になったのは伏見双魔の名だった。ついこの間の叡智会議で話題になった者だ。
「ひょっひょっひょ!世界はまた大魚を釣り上げたか……近いうちに会うことになるじゃろうて。話は変わるが、呉国の動きはどうじゃ?」
「うーん、孫家が頑張ってるけど、そろそろ魏に亡命するんじゃないかな?反乱を起こした輩に宝貝が何人か協力してるって話だよ?首魁は怪しい感じムンムンさ!」
「ふむ……ブリタニアに送った桃玉から報せは?」
「まだかなー」
「“英雄”の敗北も来る世界のうねりの予兆じゃろう。もしもの時は頼むぞ?」
「あいよー」
「さて、それでは釣に戻るかの」
太公望は話を終えるとまた河の真ん中へと戻っていった。幾多の変化を目にしてきた仙人の眼差しは不穏の気配を感じ取っても不気味なほどに穏やかだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
──神聖ドイツ帝国、ブランデンブルク辺境伯領、プリルヴィッツ。
国内で帝城と同じく不可侵とされる聖域、その洞窟には一頭の黒竜が居を構えている。
その名をジルニトラ。“魔術聖刻竜”とも称され、世界魔術協会の顧問にして魔術師たちの位階を決定している魔導界の大物中の大物である。
そんなジルニトラは遠隔通信魔術でとある相手と言葉を交わしていた。緊急性の高い事態についてだ。相手とは世界一の魔術師、ヴォーダン=ケントリスである。
「さすれば……今回の一件には……天の使徒が関わっていると?」
『うむ、間違いなかろう。今、奴らが一番繋がりやすかったのがアンジェリカとデュランダルであったのは確実。元々、あの連中は独善的で危険な思想を持つ者が多い。中華では裏でさらに大きな事態を操っておるらしい……近いうちに、大きく動くやもしれん』
「有事の際は多くの力を束ねねばなるまい……直接手を出してくる神々はおらぬだろうが……そうなると分が悪い」
『天の使徒が動くとなれば……明けの明星や堕ちた使徒も動く。その時が近づけば接触もあろう。まずは各国で起こるであろう異変に一つずつ対処することが肝要……獣もどうなるか分からん』
「まだまだ、我らは隠居できぬな」
『フォッフォッフォ!全くじゃ』
「して、ヴォーダン。伏見双魔のことだが…………賢者殿はどう判断するであろうか?」
“賢者”とは世界遺物協会におけるジルニトラと同じ役目、遺物使いたちの位階を判断している者のことだ。
『……表の情報でも“英雄”に惜敗。彼の経歴も多少探られれば……世に出るしかあるまい』
「……その場合、我らと“千魔の妃竜”との約定はどうなる?“枢機卿”であることを隠し通すのも難しくなろう……」
『……それは本人に判断させればよい。それならば文句もあるまい』
「そうか……そうするしかないな。この先どうなるか……新しい世代に賭けるしかないということか……」
『フォッフォッフォ……それが我ら老いぼれの役目じゃ。近いうちに直接相見えよう』
「ああ、それではな…………」
宙に映っていたヴォーダンの顔が消える。薄暗く静寂と魔力に満ちた洞窟内に動く者はジルニトラのみ。
『……“叡智”と“英雄”、どちらも手に届くか……伏見双魔……過去の因果を清算したばかりの彼に……運命は何を望んでいるのか……』
ジルニトラの呟きは岩壁に吸い込まれていく。見定める、見届けることが永き時を生きる黒竜の使命であり、生きる糧であった。





