弥生の雪
「…………ふう……」
双魔の部屋で鏡華は一息ついた。膝に置いた手元には浅葱と群青の生地と裁縫針に糸、何やら縫物をしているようだ。
「…………」
作業に集中させていた目をぎゅっと数秒瞑った後、視線は窓の外に向けられた。
窓枠の向こうに広がる空には重量感を幻視させる灰色の雲と帳が降りていた。
暦は如月から弥生へと進み、ここ数日は暖かい日が続いていたが昨日から冬の寒さが戻ってきている。
「……雪……なんや、天の神様も気まぐれやねぇ……」
丁度雪がはらはらと舞いはじめた。双魔が見ていれば「春の雪もいいもんだ」と言いそうなものだ。
そんなことを思いながら鏡華は室内、目の前のベッドに横たわる双魔に目を戻した。
「…………すー…………すー…………」
顔を火照らせた双魔は額に氷嚢を乗せて穏やかな寝息を立てている。
「…………双魔」
鏡華は傍に置いてある折り畳みの机に針と布を置くと双魔の手を両手で包み込んだ。
自分より大きな、愛しい手は燃えるように熱かった。
双魔が寝込んでいるのは昨日の朝からだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
杓文字と茶碗を片手に鏡華は双魔に声を掛けた。
『双魔、ご飯の準備できたよ?』
『…………』
『……双魔?』
珍しく食卓の椅子ではなくソファーに身体を預けて新聞を開いている双魔に呼び掛けても返事がなかった。
『ソーマ、朝餉だぞ?ソーマ』
ティルフィングも様子がおかしいと思ったのか椅子から飛び降りて双魔の傍まで寄っていった。
『鏡華さま、どうしました?』
『双魔の様子が少しおかしいみたいなんよ』
『坊ちゃまが?』
台所から鮭の切り身を乗せたお盆を持って顔を出した左文の表情が一瞬で心配げなものに変わる。
『ソーマ?……キョーカ!左文!ソーマが!』
『っ!?双魔!?』
『坊ちゃま!』
ティルフィングの切迫した声に手にしたものを食卓において思わず二人は駆け寄った。
双魔の顔を覗き込むと顔が普段より赤く、目も虚ろだ。明らかに体調が悪そうだ。
鏡華は前髪を上げて自分の額と双魔の額を合わせた。
『熱っ!』
双魔の額は声を上げてしまうほど熱かった。かなりの高熱だ。
『鏡華さま、私がお部屋まで坊ちゃまをお連れします!氷嚢とたらいに水を張って手ぬぐいと一緒に部屋までお願いします!』
『分かった、任しといて!』
左文は素早く双魔を抱きかかえるとそのまま階段を上がっていった。
『キョーカ……ソーマは大丈夫なのか?』
残されたティルフィングが不安気に鏡華の顔を見上げていた。左文の判断と行動が迅速過ぎたおかげで慌てる隙も無かったのだろう。
『……大丈夫、少ししたらティルフィングはんも見に行こうな。取り敢えずご飯食べて待っとって』
『うむ……』
リビングにティルフィングを残して鏡華は洗面台にたらいを取りに向かった。
(……最近はあんまり具合悪くならない言うてたのに……双魔……)
ティルフィングの手前、取り乱さなかったが鏡華も双魔が心配でたまらなかった。
幼い頃に客間に敷かれた布団で自分の手を握って苦しそうに熱にうなされていた双魔の顔がフラッシュバックする。
(とにかく……早く用意せんと)
たらいに水を汲んで手ぬぐいを浸し、その足で台所によって氷嚢に氷と水を詰めて階段を上がる。
『…………』
そんな主の背中を浄玻璃鏡は静かに見つめていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして、双魔が倒れてから大体一日が経過した。双魔は一度も目を覚まさない。
初めは交替で双魔の傍についているように左文が言ったが、少し無理を言って鏡華がずっと傍についている。
ティルフィングも初めの内は部屋で双魔を見ていたがそわそわ歩き回って落ち着けない様子だったため左文と一緒に一階で待機している。
「…………双魔」
右手は双魔の手を握ったまま左手で氷嚢を持ち上げる。そろそろ換えた方がいいころ合いだろう。
「っ!?」
しかし、鏡華の表情は氷嚢触れた瞬間一変した。氷嚢が熱い。普通、温くなることはあっても熱くなるはずはないのだ。
氷嚢を枕元において双魔の額に手を触れる。
「熱っ!双魔!」
額の温度は昨日の朝の比ではなかった。双魔の身体に何が起きているのか分からないが明らかにこのままでは危険な状態だということは分かった。
「……ん……んんっ……うあ…………う…………」
「双魔!?しっかりし!左文はんに……」
突然、双魔がうなされはじめた。左文を呼ばなくては、そう思い鏡華が腰を浮かせた時だった。
「……キョーカ……ソーマは良くなったか?」
ティルフィングが恐る恐る、そーっとドアを開けて部屋の中を覗っていた。
「ティルフィングはん!左文はん呼んできて!」
「む?ソ、ソーマに何かあったのか!?」
鏡華の切羽詰まった表情にティルフィングは血相を変えた。
「熱が急に上がってっ!このままじゃ危ないんよ!」
「熱が……うむ、我に任せろ!」
「ティルフィングはんっ?何を……え?」
ティルフィングは双魔の枕元まで来ると小さな左手で双魔の額に優しく触れた。
ティルフィングの行動に驚いた鏡華だったが、双魔の様子を見てさらに驚いた。
真っ赤だった双魔の顔からみるみるうちに赤みが引いていくのだ。まるで、ティルフィングが熱を吸い取っているようだった。
「……うあ……う………………ん……んん……ん?」
しかも、そのまま双魔の両目がゆっくりと開いたのだ。
「双魔っ!」
鏡華はハッとして双魔の顔を覗き込んだ。数度瞬きした後、鏡華の顔を認識したのか双魔は何処か不思議そうな表情を浮かべた。熱に苦しめられている様子はもう欠片もない。
「……ん……鏡華?どうしたんだ……そんな死人が生き返ったような顔してって、おい!ちょっ!?」
「双魔っ!もうっ!心配させんといて!」
鏡華は双魔に勢いよく抱きついた。双魔は何が何だか分からない様子だが、上半身を起こしてそっと鏡華の身体を抱き返した。
「……ん、何か心配かけたな」
「ソーマ、大丈夫か?お主、熱を出して倒れたのだぞ?……大丈夫か?」
鏡華の反対側に立っていたティルフィングも顔を覗き込んできた。
「ん……大丈夫だ、ティルフィングのおかげでな……ありがとさん」
「うむ……むふふ……くすぐったいぞ」
何となくの直感だが熱に冒されていたとは思えないほど身体の調子が悪くないのはティルフィングのおかげだと分かった。
双魔にくしゃくしゃと頭を撫でられて何とも嬉しそうなティルフィングだった。
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