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第77話 ミスレル香房



セレスティア中央市場の東側、香草と香辛料の専門通りは、朝から活気に満ちていた。


乾いた日差しに照らされた石畳。異国の言葉が飛び交い、赤や金色のスパイスが露店の棚を鮮やかに染める。


この通りは、帝都の中でもとりわけ“個性”が濃い場所だ。


東方諸国の商人が扱う香辣草、南海から運ばれた海香塩、西域山脈の焼き花胡椒――それぞれが色と香りを競い合い、まるで市場全体が巨大な調味料の壺にでもなったかのような空間が広がっている。


香りだけじゃない。棚の形、天幕の色、商人の衣装すら多種多様だ。


羽根飾りをつけた遊牧民風の女主人が鍋を煮込む店があれば、銀の鉢に黄金色のパウダーを丁寧に詰める老魔導師風の店主もいる。時折聞こえてくる掛け声は、共通語よりむしろ各地の方言が主流で、言葉がわからなくても、匂いと湯気だけで売り物が伝わってくる。


小さな露店のひとつでは、香辛料を焼いたせんべいをその場で売っていた。熱で立ちのぼる匂いに、客たちが思わず足を止める。焼き台の横に置かれた石版には「喉に効く」とか「勇気が出る」とか、いかにも怪しげな効能が書かれていたが、それでも客は絶えなかった。


石畳の路地は入り組み、通り全体がまるで迷宮のようだ。空には細い布地の庇が張られ、直射日光を和らげてくれているが、その分、香りは篭って密度を増している。


俺の記憶が正しければ、この一角には百軒以上の香辛料店がある。


“香の街”とまで呼ばれたこの通りは、帝都の胃袋を支えるだけでなく、貴族の宴会、魔導医術の治療香、儀礼に用いる煙草など、生活のあらゆる場面に繋がっている。まさに“食と魔導の交差点”だ。


中央通りから分岐する細道では、試供品を配る声が飛び交い、魔導香炉の煙がゆるやかに風に流れていく。通りの両側には腰高の棚が並び、瓶詰め、布袋、乾燥束、粉末、液体……香辛料の姿はさまざまだ。


帝都にいた頃、俺はよくこの通りに足を運んでいた。


戦地で食事を支えるには栄養価のバランスや保存性も重要だが、“風味”も欠かせない。人は味があるだけで、ほんの少しでも生きる気力を取り戻す。だからこそ、塩と胡椒だけでは足りなかった。


たとえば、ルドラスの黒煙唐。使い方を間違えれば毒にもなるが、正しく調理すれば深い辛味と独特の香気が出る。あるいは、“幻光香”――名前に反して劇薬ではなく、夜の哨戒任務で神経を研ぎ澄ませるための刺激香として用いられていた。


そうした“効能を持つ香り”の多くが、この通りに揃っていた。


だが今の俺にとって、香辛料は戦の備えではない。


風味を調え、余計なものをそぎ落とし、静けさの中で客の舌と心を満たす――それが、今の俺の“戦場”だ。


鼻をくすぐる香りに、俺の胃が少しだけ反応した。


「うわ、ここすごい……なんか、全部カレーの匂いする……」


カイが鼻をひくひくさせながら、どこか楽しそうに歩いていた。


「目的の店は決まってる。寄り道するなよ」


「はーい」


子供かこいつは。


俺は通りを抜け、馴染みの香辛料店〈ミスレル香房〉の前で足を止める。



〈ミスレル香房〉は、俺がまだ帝国にいた頃から通っていた香辛料専門の老舗だ。


元は魔導薬草店として開かれた店で、戦時中に兵士向けの保存香料や治療香などを扱うようになった。だがその知識と調合技術が評価され、やがて“料理用調香”という独自の分野を切り拓いた。


当時の店主は、厳格で無口な初老の男だった。名をグラトス・ミスレル。かつて魔導庁に所属していた元調香師で、香りを“味の一部”として定義するその姿勢は、俺にとって衝撃だった。


「風味とは、戦場における最後の慰めだ」


そう語ったあの言葉は、今でも忘れられない。


彼の勧めで試した数々の香辛料――なかでも“焦焚香しょうふんこう”と呼ばれる香草ブレンドは、俺の料理に深みを与えてくれた。炒め物や焼き物の仕上げにひとつまみ加えるだけで、香りの層が一段変わる。まさに魔法のようだった。


戦争が終わったあと、ミスレル香房は一時閉店していたと聞いていた。グラトスが高齢で引退したのが原因だったらしい。だから、正直言って――この店がまだここにあることに驚いた。


だが変わったのは、店の内装だけじゃなかった。


通りに面した木の扉は新しくなり、看板も塗り替えられている。だが、布に描かれた“筆文字の屋号”だけは昔と同じ書体だった。あれは初代が自ら書いたと聞いている。


店内の空気は静かで、香辛料が整然と並ぶ棚はまるで書庫のような佇まいだ。


色とりどりの瓶、乾燥束がぶら下がる天井、粉末を詰めた革袋が揺れる棚。どこを見ても無駄がなく美しく、そして――芳しい。


通路の奥には調合専用の調香台と、魔導圧縮瓶の装置が見えた。あれは、香りを“素材として保存”するための魔導具で、調香師でなければ扱えない。


俺がかつて注文した“灰焚のブレンド”も、この装置で香気を閉じ込めてもらっていた。


「まだ、ここに……あるのか」


思わず、呟いた。


香りは記憶を呼び起こす。かつて戦地に持ち込んだ小瓶を開けたときの、あの安堵と夜に漂った静かな香りが、脳裏に浮かんできた。


だが今は、もう戦ではない。敵を倒すためでも、生き延びるためでもない。


静けさの中で、誰かが心から「うまい」と言ってくれる。その一言のために、俺は香りを使う。


〈ミスレル香房〉は、今もそれに応えてくれる場所であってほしい。


そう思って、扉に手をかけた。


藍色の布看板には、今でも変わらず手書きの文字が踊っていた。


扉を押すと、鈴の音が鳴った。


「いらっしゃ――って……え? ……ゼンさん?」


振り返ったのは、銀色の髪を後ろで束ねた青年だった。

細身の体にエプロン、眼鏡越しの驚いた目――


「……ラセル。まだここにいたのか」


「“まだ”って……僕、ここで独立して三年目ですけど!?」


かつて、帝国騎士団の食糧補給班にいた青年――ラセル・フリーマン。

あの頃はまだ“見習い”だったが、今や立派な職人になったらしい。


「久しぶりだな。君が店を継いでいたとは」


「灰庵亭の噂、聞いてますよ!“山奥で食堂を開いてる”って、…本当なんですか?」


「誰がそんなことを……いや、もういい。今日は仕入れに来ただけだ」


「はいはい! 喜んで対応させていただきますっ!」


早口でそう言うと、ラセルは棚から香草の束を取り出して次々に並べていく。


「例の香味ブレンドですね? それとも、新しい試みにも挑戦しますか?」


香味ブレンド――俺にとって、それは単なる調味料じゃない。


ベースには“焦焚香しょうふんこう”。これは乾燥させたバルマ草と数種の根香を混ぜ合わせたものだ。火を入れたときだけ、煙のように立ち上がる深みのある芳香が生まれる。香ばしいわけじゃない、どこか“焼けた夕暮れ”を思わせる香りだ。


そこに、“黄樹の皮”を削って混ぜる。これは少し渋みと苦味があるが、焼き物に使えば香ばしさが立ち上がる。反面、煮込みに使うと香りが沈んでしまうため、量とタイミングの調整が難しい。数秒の差で印象が変わる厄介なやつだ。


次に、“影胡椒”。これは西域の密林で採れる黒い実で、通常の胡椒よりも遥かに辛味が強いが、粒を潰さず、丸ごと香草と一緒にオイルで熱すれば、刺すような辛さがふわりと変わる。刺激というより“緊張感”に近いアクセントが加わる。


……そして、俺が個人的に気に入って使っていたのが、“灰樹香かいじゅこう”という乾燥樹皮だ。砕いて粉にしたものを仕上げにひとつまみ。これは香りに“余韻”を残すための香材で、すぐに香るわけじゃない。むしろ、皿を下げたあとにふっと立ち戻るような――そんな遅れてくる記憶のような香りがある。


俺はこれらを比率を変えながら調合し、その日の気温、湿度、客の体調、出す料理に応じて微調整してきた。灰庵亭の“あの味”と呼ばれているものがあるとすれば、それは技術でも素材でもなく――香りのレイヤー構成にある。


だが今は、それだけじゃ足りない気がしていた。


最近、山の静けさに慣れすぎたせいか、俺の舌が“穏やかな甘さ”を求めるようになった気がする。戦のような刺激じゃない。日々の温もりに溶け込むような、柔らかな風味だ。


だから――


「基本は前と同じで。だが……そうだな、“軽い甘みのある香草”を追加で試したい」


「でしたら、この“風落草ふうらくそう”がオススメです。火を通すと、ふんわりとした香りと仄かな甘みが出て……」


俺の言葉を待たず、彼は語り始める。……相変わらずだ。

だが、この情熱と知識の深さこそが、彼が一人前になった証でもある。


……ラセルがまだ見習いだった頃を、ふと思い出す。


当時のこいつは、帝国軍の補給班に配属されたばかりの少年兵だった。剣も魔法も並以下、体格も細く、何よりも戦場に立つ覚悟が決まっていない顔をしていた。だが、手先だけはやけに器用で、調理場に入ると不思議と落ち着きを見せた。ナイフの握り方、火加減の読み方、食材の組み合わせ――誰に教わったわけでもないのに、妙に“感覚が良い”やつだった。


もっとも、最初は「不器用で小柄な連絡兵」くらいの印象しかなかった。だがある日、戦線が崩れて補給部隊まで敵の魔導兵が迫ったとき、彼は誰よりも早く調理用の魔力灯を抱えて逃げた。逃げながらも、保存していた乾燥香草と干し肉を布袋に詰めていたのを覚えている。


「戦えるわけじゃないけど、明日の飯を作る準備だけはしておきたい」と、そんなことを言っていた。


あの瞬間、俺は初めて――この少年には“恐怖の中でもやるべきことを見極める目”があると気づいた。


それからだった。補給拠点が落ち着いた後、俺は自分の裁量でラセルを戦線近くの移動厨房へと異動させた。補給班の上官には「料理人の実地訓練だ」と適当な理由をつけて。


現地の素材だけで兵の胃袋を満たす仕事は、誰にでもできるわけじゃない。食材が足りなければ工夫し、塩分が多ければ香草で調える。魔導病の兵には刺激を避けて栄養を優先する。……そういう“気配り”ができる料理人は、戦場では貴重だった。


ラセルは、誰よりも熱心だった。


メモ帳はいつも香草の汁や出汁の染みで汚れていて、戦地で拾った葉や種を押し花みたいに挟んでいた。新しい香りを嗅げば、すぐに何と合わせれば合うかを口にする。包丁を研ぐときも、炊き出しの列に並ぶ兵士を見て、どんな味が欲しがられているかを観察していた。


俺はこいつのそんな姿勢に、どこか救われていたのかもしれない。


戦が終わる頃、彼は「料理の道で生きたい」と言ってきた。……それを聞いて、俺は心の底から安堵したのを覚えている。剣を取る理由も死地に立つ覚悟も、人にはそれぞれだが――ラセルは“生かす側”に回るべきだと思っていたからだ。


あの時のひょろっとした背中が、今こうして堂々と香草の束を並べ専門家の目で語っている。


……時が経ったんだな。


店の奥で香草の束を嗅ぎながら、「プロって感じだな」とカイがぽつりと漏らした。


そんなカイの声に、ラセルは照れくさそうに笑う。


「いえいえ、まだまだです。師匠の料理を前にしたら、僕なんて全然……」


「調香と調理を一人で立派にこなせてるんだ。グラトスのやつも、今のお前を見たら認めざるを得ないだろう」


俺がそう言うと、ラセルは一瞬だけ表情を引き締めた。


「……ありがとうございます。でも、ゼンさんが昔僕にくれた言葉が、今でもずっと心に残ってるんですよ。“香りを選ぶということは、食べる人の気持ちを想像することだ”って、あの時言ってくれたのを覚えてますか?」


「……言ったかもしれないな」


「僕、それがずっと忘れられなくて。いまでも、調香する前に必ず一度“誰に食べてほしいか”を考えてます」


まっすぐな目だった。


戦場で、泥にまみれていた少年兵が――今は言葉と香りで人の心に触れようとしている。


俺は、少しだけ頬が緩んだのを自覚した。


「……仕入れ用に三種、それと試供分を少し。あと、例の焦焚香も調合しておいてくれ。今度は干し肉の燻製に使いたい」


「了解ですっ! 次回は特濃仕上げにしておきますよ。ええと、次はいつ来られますか?」


「未定だ。……だが、また寄りにくる」


そう言って立ち上がると、ラセルは深く頭を下げた。


「いつでもお待ちしています。……ゼンさん、くれぐれも無理はなさらずに。どんな人でも、いつだって休息は必要ですから」


カイが先に扉を開け、外の光が差し込んだ。


瓶の並ぶ店内に、香草と陽光の混じった柔らかな風が流れ込む。


袋の口を革紐で締めながら、俺はミスレル香房をあとにした。


扉が閉じると、鈴の音が名残惜しげに揺れた。

外の空気は香房の中とはまるで違う。風に運ばれるのは茶葉や果物、肉の焼けた匂い、叫び声、笑い声、靴音。


——そして、少しだけ熱を帯びた帝都の“息遣い”だ。


通りには人があふれていた。

中央市場の午後はいつだってこうだ。荷車を押す商人、香油を売る旅の女、魔導玩具に駆け寄る子どもたち。

人の数だけ声があり、声の数だけ生活がある。


俺は買い物袋を片手にその喧騒へと一歩を踏み出す。

砂利が敷かれた路地に足音が吸われて、頭上では旗がはためいていた。



香房の袋から、ほのかに香草の匂いが立ち上る。

焦焚香に、風落草。ほんの少しの甘みが、街の喧騒の中でも自分の輪郭を保たせてくれる。

「香り」は戦場でも日常でも、静かに在るための“壁”だ。

これを手に、また山の食堂に戻る――そう考えるだけで、少しだけ気が楽になる自分がいる。


だが、同時に思う。


あの頃のラセルが、こうして一人前になっていたように。

カイが今なお空を信じて生きているように。

そして俺もまた、こうしてここにいるように。


“止まっているようで、どこかで何かが進んでいる”――それが、生きるということなのだろう。


俺は鼻から息を吐いて、肩の力を少し抜いた。


人々の合間を縫って、少しずつ歩みを進める。

買い出しはまだ続くが、焦る必要はない。

今日はまだ陽が高い。


……と、そのとき。


一歩、また一歩と外へ出たときだった。


――その声が、風に混じって届いたのは。



「――あら。夢でも見てるのかしら」



通りの向こうから、涼やかな声がかかった。


俺は振り返り、思わず言葉を詰まらせた。


長い黒髪に深紅のローブ、すらりとした体躯。

凛とした佇まいに、道行く人々の視線が自然と吸い寄せられていく。


「……お前か、リシェル・ヴァーレン」


「“お前”はひどいわね。数年ぶりの再会なのに」


リシェル・ヴァーレン。かつて帝国魔導院で諜報任務を担っていた“魔眼の導師”。

帝国の裏と表を知る、数少ない元同僚のひとりだ。


帝国時代、俺たちは何度も共に作戦に出た。

前線の戦場ではなく、もっと深く、暗い場所。

諜報、交渉、あるいは抹消。

“戦い”とは名ばかりの、泥のような情報戦。その中で、彼女は常に“正しい顔”をしていた。


誰も信用しない。自分すら、半分信用していないような目をしていた。

だがそれでも、俺は――何度か命を預けたことがある。


彼女は〈帝国情報局 対魔導諜報部〉のエリートだった。

帝国魔導院の出身でありながら、戦場では剣を持たずに兵士以上の働きをする。

彼女が構築する〈高密度結界〉は、周囲の空間を完全に沈黙させ、まるで“この世から切り離された小部屋”のような密室を作り出す。

その中で、彼女はいくつもの真実を引き出し、いくつもの“虚構”を封じ込めてきた。


結界術というのは、見た目の派手さとは裏腹に、ひどく地味で神経を削る仕事だ。


あらゆる術式の根底にあるのは、魔力をいかに自らの領域内で制御・安定させるか、という一点に集約される。魔導核が魔力を生成し、それを展開術式として外部に作用させる際、まず必要となるのが――術者と外界との境界を定義する「フィールド」の確保だ。これは単なる空間の確保ではない。魔力という見えざる力の流れを制御し、それに秩序を与えるための“基盤構造”――すなわち、結界である。


結界とは、広義には「魔力の流通を限定し、特定の構造内に閉じ込める技術体系」と言える。これは魔導核が生成する霊素が、いかに空間に放射され、術式として定着するかという“初期状態”の安定に不可欠な処理だ。物理学でいうところの「量子場理論」に似た側面を持ち、術式とは、術者が世界に刻む“定義文”であり、結界とはそのための“起点座標系”に等しい。


つまり、結界とは単なる防御の手段ではなく、術者自身の魔力構造を世界に繋ぐための“魔導的座標原点”だ。術式の座標軸は結界上に展開され、そこを基点に魔力の伝達、変換、そして出力が行われる。結界が不安定であれば、いかに高度な術式も“発動”という段階に辿り着くことができない。


特に高密度結界においては、術者が構築する空間そのものが「独立した魔力場マナフィールド」として振る舞うため、外界の影響を排除した完全制御領域を形成できる。精神干渉、音響干渉、霊素共鳴――そうした“ノイズ”を遮断することで、術者は純粋な魔力演算と空間操作に集中できるようになる。


これは単に空間を切り取るのではなく、“現実の論理構造そのものを書き換える準備室”とも言える。


リシェル・ヴァーレンが得意とするのは、まさにこの“空間の構造定義”を徹底的に洗練したものだ。彼女の結界術は、既存の魔導理論では説明がつかないほど精密で、徹底して“無音・無干渉”に特化している。通常の術者が展開する結界は、必ずと言っていいほど何らかの“視覚的・感覚的兆候”を伴う。光、紋章、音、風――だが、彼女の結界はまるで「そこに空間が存在しない」かのように沈黙している。


それは、彼女自身の精神構造とリンクした“潜在意識型構文”とでも言うべき術式であり、思考と魔導核が直結した、極めて危険な技術だ。


範囲、密度、魔力の流れ、干渉遮断、精神感応への耐性――どれか一つが欠ければ、簡単に“抜け”が生まれる。

それを完璧に、無音のまま高度に構築できる者は帝国の中でもほんの一握りだった。


リシェル・ヴァーレンは、その中でも“別格”だった。



彼女はあらゆる状況で「顔色を変えない」ことに長けていた。


彼女の張る結界は、空間そのものが別の理に飲み込まれるような感覚を覚える。

音が消え、気配が沈み、空気が重く、外界との“断絶”が肌にまとわりつく。


静かで、冷たい――まるで、死者の沈黙のような空間。


彼女はそれを、“ただの思考の延長”のような顔でやってのけた。


拷問も尋問も、彼女の前では必要なかった。

結界の中では、相手の心の揺れや嘘が空気の微振動として響いてくるらしい。

だから彼女は黙って、ただ“見る”だけでいい。


言葉よりも視線よりも重い沈黙の中で、相手は崩れていく。


彼女が語る“結界”とは、魔術ではなく“交渉術”の延長線にある。


魔神族の捕虜を前にしても、泣き叫ぶ密偵の最期を見送っても、任務のために無辜の村を“魔導災害として処理”したときですら、彼女は微動だにしなかった。


……いや、違う。


動かなかったのは、あくまで“顔”だけだ。

あの目は――ずっと、何かを押し殺すように揺れていた。


誰かに見せるための仮面を、何重にも重ねたその瞳の奥に、俺はかつてほんの一度だけ“素の彼女”を見たことがある。


戦場の夜、焚き火の前で彼女がそっと紅茶の香りを吸い込んだとき。

その表情は、まるで戦う前の子供のようだった。


その瞬間だけ、俺は彼女の“人間”の部分を感じた気がした。


あれから、何年経った?


今、目の前に立つ彼女は、あのときと何ひとつ変わっていないように見える。

姿勢、声、笑い方、すべてが完璧に整っていて、それが余計に“本心がどこにあるのか”を曖昧にさせる。


だが、ひとつだけ――俺には分かる。


彼女の言葉の端々に、あの頃にはなかった“柔らかさ”が混じっていることを。


「久しぶりだな。……ここで何を?」


「言いたいこと、そっくり返すわ。山奥にある食堂の店主が、こんなところに来るなんてね?」


その目が細められる。まるで人を見透かすような視線だった。


「……今日は買い出しだ。それだけだ」


「ふぅん。じゃあ、私は“たまたま通りがかっただけ”。……で、信じる?」


「全然」


「正解」


リシェルはくすくすと笑いながら、近づいてきた。


「相変わらずね、ゼン。表情も仕草も、まるで変わってない」


「そっちはどうだ。今でも“あっち側”に?」


「さあ、どうかしら。少なくとも今日は、懐かしい友人の顔を見に来ただけ」


ほんの一瞬、彼女の表情に影が差した気がした。


「……しばらく帝都に?」


「半日もいないさ。買い物して、帰るだけだ」


「なら、顔を出しなさい。例の場所――“黒鐘局”で、待ってるわ」


その一言を残して、リシェルは踵を返す。


紅いローブが風に揺れて、香草の匂いと混ざり合った。


「……あの人、誰?」


カイがこっそりと尋ねてくる。


「……面倒ごとの気配だ」


「うわ、またフラグ立てた」


「黙れ」


市場の喧騒のなかで、俺はふたたび背筋を伸ばした。


“黒鐘局”。かつて帝国の非公式会議が開かれていた、地下の作戦室――


あそこに、今行くべきなのか。


俺は買い物袋を肩にかけ直し、空を見上げた。


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