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第76話 中央市場






帝都第六離着区――。


飛空挺を降りた瞬間、乾いた石畳と鉄の匂いが鼻をついた。


「うーん、この空気。やっぱり帝都って感じするわ」


隣で深呼吸するカイは、まるで懐かしい故郷に戻ってきたかのような表情をしていた。

対して俺は、重い荷物を担ぎ直しながら無言で前を向く。


「で、どこ行くんだ? 食材買うって言ってたけど、市場?」


「ああ。帝都東区、中央市場。香草や保存食なら、あそこが一番だ」


中央市場――帝国一の商業区に位置する巨大市場。

全国、いや全大陸から品が集まる食の中心で、昔は軍務の合間によく立ち寄ったものだ。


この市場は、帝国における“胃袋”とも言える場所だ。


その広さは小さな村が丸ごと三つ入るほどとも言われ、実際に歩いてみると、その比喩はあながち誇張でもないとわかる。入り口からすでに香辛料の匂いが漂っており、通りには干し肉や魚を天日干しにする露台が並んでいる。香草や果実を積んだ魔導浮遊車が縦横無尽に移動しており、荷受けの音や商人の声があちこちで響いていた。


一歩足を踏み入れただけで、目と耳と鼻が騒がしくなる。


「中央市場」とひとくちに言っても、実際には用途や階層に応じて複数のエリアに分かれている。調味料、保存食、食肉、魚介、珍味、魔素食品、そして異種族向け食材――細かく分類されたゾーンが、それぞれ巨大な区画を形成している。魔導庁の地図アプリですら、ここだけは“完全には網羅できない”と匙を投げたほどだ。


俺が現役だった頃は、部隊の食糧補給の関係で何度もこの市場を訪れていた。作戦前の買い出し、兵の慰労用の嗜好品、あるいは補給物資が足りなかった際の緊急調達――


中央市場には、あらゆる品があり、そして“あらゆる人間”がいた。


露店の主は陽気な地方商人だったり、野菜を並べる手つきに無駄のない農家の長だったり、妙に格式ばった魔導商会の使者だったり。なかには、帝都貴族の“遊び”で設けられた高級食材専門の販売区画もあり、ここの動きは帝都の“景気そのもの”を映す鏡でもあった。


俺が特に覚えているのは、市場の裏路地にある“廃材小屋”だ。正式な屋号もない小さな屋台だったが、そこで売られていた干し茸――それが、兵士たちの栄養源になったこともあった。多くの命が、ここで仕入れた一片の保存食によって戦線を越えた。


……あれから、もう何年になるだろうか。


「へぇ。あんたが案内してくれるなんてな。ちょっと楽しみだぜ」


「はしゃぐな。言っておくが、用事を済ませたらすぐに帰るからな」


「うわ、ほんとに食堂の店主になっちまったな、親父」


そう言って笑うカイに苦笑しながら、俺たちは門番の詰所を抜け、帝都の大通りへと足を踏み出した。



市街地へ入ると、途端に喧騒が増す。


魔導車が通りを行き交い、雑貨屋の呼び声、香辛料の匂い、子どもたちの笑い声――

すべてが、ここが“世界の中心”だと物語っているようだった。


街道を抜けた先、帝都セレスティアの市街地は、昔と変わらぬ賑わいを見せていた。

高い塔が連なる都市の輪郭は空に映え、魔導通信塔や監視灯の灯りがまるで昼夜を問わず都市そのものを活気づけているようだった。


帝都の中心街には白石を敷き詰めた大通りが走っている。かつては軍の閲兵式にも使われていたこの通りも、今は行商人の荷車や魔導浮遊車が行き交い、当時の軍事都市の威容と、今を生きる市井のざわめきが入り混じる雑多な通りへと変貌していた。


建物はどれも重厚で古く、石造りの壁面にはつる草が這い、窓には色とりどりの染布が垂らされている。高級住宅街の一角では手入れされた噴水が涼しげな音を立て、魔力で動く小舟が観光客を乗せて広い水路の上を漂っていた。


視線を上げれば、頭上には魔導軌道網の中型列車が通り過ぎていくのが見える。金属の車体に施された帝国紋章の意匠は、かつての栄光を今も物語るようで――同時に、どこか肌に合わないものでもあった。


「……変わらないな、ここは」


路地裏から漂う香ばしい香り、屋台から響く鋭い鉄鍋の音、そしてどこかから聞こえる弦楽の生演奏。

街の喧騒は懐かしさというよりも、むしろ“過去に置いてきたもの”を無理やり胸に引き戻してくるようだった。


「ここ、魔導研究塔が近いんだよな? 昔、襲撃事件あったって聞いたけど……」


「十年前だな。俺もその時、現場にいた」


「……マジで? 英雄エピソードの一つじゃん」


「やめろ、そういうのは。今の俺はただの……」


「店主?」


「そうだ」


通りを進みながら、俺は記憶の底に眠っていた映像がふと蘇るのを感じた。

燃え盛る建物、瓦礫の中の泣き声、剣を抜き、背を向けられる敵――

だが、それらは今ではまるで他人の物語のようだ。


「着いたぞ。ここが中央市場だ」


開けた石畳の広場に、無数のテントと露店が並んでいる。


空に浮かぶ魔導ランタンが色とりどりの光を落とし、

香草、肉、魚、果実、そして見慣れない異国の食材までもが所狭しと並んでいた。


「うわぁ……すご……! なぁ、あれ見ろよ! 幻火唐辛子!」


「見るだけならいいが、買うなら交渉は俺がやる。観光客価格を吹っかけられるぞ」


「うっ、わかった……」


興奮するカイをいなしつつ、俺は目的の店へと足を向けた。


まず立ち寄ったのは、かつて軍の食糧を一手に引き受けていた老舗商人、〈アヴィオ商会〉。


アヴィオ商会は、帝都中央市場の西翼中段、いわゆる“兵糧街道”と呼ばれる一帯に店を構えている。

創業は帝国歴で三百年を超えるというから、代々この街に根を張ってきた老舗だ。かつて俺が帝国の兵として駆けずり回っていた頃、この店の干し肉と塩漬け野菜には幾度となく腹を満たされた記憶がある。


なにより、アヴィオ――あの髭面の親父がいる限り、この店は変わらない。


表向きはただの商人だが、その“仕事ぶり”は兵士たちの間で語り草になるほどだった。


腐らせず、切らさず、遅れずに届ける。


帝都の市場には“馴染み”という言葉がある。形式ばった契約よりも、顔を合わせた時間、交わした言葉、支えてきた実績。それが何よりの信用になる。

アヴィオとは、戦時中に何度も顔を合わせた。前線への突発的な補給命令、魔物に囲まれた野営地への配送依頼、酷寒地で凍結しない保存食の相談――無理難題を投げつける側と、それを笑いながら引き受ける側。そんな関係だった。


アヴィオ商会は帝都の商人としては珍しく、売り手側の都合よりも“使う者”の立場を優先する。


保存食の魔封処理ひとつとっても、ただの長期保存用ではない。山間部の気圧変化に耐えられる封印式、気温差による食材の風味変化を抑える多重封印加工、簡易魔導炉でも開封可能な罠式封缶――すべてが実用性に特化していた。


俺自身も帝国最北戦線で指揮を執っていたとき、彼の運んできた干し肉と香草で兵の士気が救われたことがあった。それ以降、軍の補給申請書に「アヴィオ優先」と書き込んだのは、何も俺だけではなかった。



…あれはだいぶ昔の話だが、アヴィオの倉庫が火災で半壊したとき、俺の部隊は私的に動いて消火と復旧を手伝ったことがあった。

その時、親父は手を真っ黒にしながらこう言ったのを今でも覚えてる。


「うちの干し肉が兵の腹に入って、明日を生きる手助けになるなら――安い投資だ」


そう言って笑ったあの顔がどこか子供の頃に見た父親に似ていて、…だからか妙に胸に残っていた。


戦争が終わり、帝国が再編され、俺がすべてを置いて山へ消えたあとも、この場所は残り続けていた。


正直、今ここへ来るのは少し怖かった。


懐かしい景色というのは、時に人を優しく刺してくる。


かつての俺が「生き延びるため」に立ち寄ったこの地で、今は「静けさを維持するため」の食材を探している。

立場は変われど、やってることの本質は変わらない気もするが――それでも、ここにいると昔の俺が背後に立っているような気がしてならない。



ふと、足を止めて見上げた。


石造りの店構えに魔導ランタンがぶら下がり、手作りの看板には確かに「アヴィオ商会」と刻まれている。


店舗は街道の南側、——少し奥まった通りに面しており、派手な装飾や魔導演出こそないものの、頑丈な石造りの壁面と磨き込まれた木の看板が放つ「本物」の空気は、一見してそれとわかる。


外には魔封缶が積み上げられ、保存干し肉、濃縮味噌、魔力乾燥香草などが整然と並べられていた。店内では年代物の棚に整然と商品が並び、背後のカウンターには複数の伝票と魔導帳票が並んでいた。


その一方で、カウンターの片隅には子ども向けの安価な乾燥果実や、老夫婦向けの塩分控えめ味噌なども並んでいる。どれも数は少ないが、“必要とする誰か”のために用意された気遣いが見て取れる。


無駄がなく、隙がない。それでいてどこか温かい。


変わらない。


この場所も、この空気も、あの親父も――


こういう場所が、まだ帝都に残っていることが――少しだけ救いにも思えた。


そしてたぶん、俺の中にも“変わっていない部分”があるのだろう。


俺は深く息を吸って、扉を押した。


「おう、久しいな! ゼン親父!」


「……覚えてたか、アヴィオ」


「そりゃ忘れるわけない。うちの干し肉の味を、いの一番に褒めてくれたんだからな」


口ひげを揺らして笑うその姿に、少しだけ懐かしさが胸を打った。


「今日は何を?」


「保存食材中心に、干し肉、味噌、香草。あと、山で育たない野菜も少し」


「了解! 腐らないよう真空魔封缶に詰めてやるよ」


商談は早かった。軍時代の信頼が、今も値段に反映されているのだろう。

話が早いというのは、こういう時に助かる。


「……今は灰庵亭って名前で、食堂をやっている」


「噂は聞いた。『幻の食堂』ってな! 俺はてっきり、どっかでのたれ死んでるのかと思ってたぜ」


「勝手に殺すな」


アヴィオは豪快に笑いながら、魔封缶に食材を詰めてくれた。


並んだ商品棚には、見慣れた保存食がずらりと並んでいた。


干し肉は三種。薄塩の鹿肉、香草を練り込んだ猪肉、そして珍しい風乾処理を施された大型鳥獣の胸肉。どれも歯ごたえがありながら、じわりと旨味が滲むやつだ。特に猪肉は、炙ると香草の香りが立って絶品になる。手間暇かかる代物だから、山ではまず手に入らない。


乾燥野菜の棚には、輪切りの根菜、千切りの大根、裂いたキノコなどが並ぶ。すべて低温魔導乾燥処理がされていて、湯に戻すとほぼ生と変わらない食感になる。驚くのは、その風味の保持率だ。香りまで封じ込めてあるから、味噌汁や煮物に使うときは香りが立ちすぎないように気をつけるほどだ。


味噌も三種類ほど用意されていた。濃厚な赤味噌、軽やかな白味噌、そして帝都の一部でしか出回らない“黒香味噌”――これは干し茸や醤油を合わせて二度発酵させた濃縮味噌で、炭火で焼き味噌にすると香りが爆発する。昔、前線でこれを肴にして酒を回したことがあるが……あれは、たしか冬の北境だったか。


香草類は束ごと魔封処理された瓶に詰められている。ローザリーフ、カーゼミント、帝都原産の白花バジル。どれも、煮込みに入れると魔素の流れが変わる。ほんのひとつまみで味がまとまるのは、香草の魔素構成が料理に影響している証拠だ。


そして目に留まったのは、黒封缶の列。


あれは“軍専用”だった頃の名残で、危険地帯用の高耐性保存食が詰まっている。特濃スープベース、魔導炊飯キット、極寒対応の濃縮エキス――いずれも軽量で、栄養と温度耐性を兼ね備えた緊急食だ。


「こいつらは売り物ってより、いざって時の備えだな。今でも遠征地の依頼があると、用意してくれって言われるよ」


アヴィオの親父がそう言って、一本の封缶を掲げて見せた。封印術の名残が淡く浮かぶその缶を見て、思わず手が止まった。


あの頃は、これひとつで一日を乗り切ったこともあった。


「これももらっていく」


「へぇ、お前がこれを選ぶとはな……“何か”あんのか?」


「ただの……備えだよ。山に籠るといざって時に困ることがあるからな」


親父は何も言わず、うなずいた。


テーブルの隅にあった小瓶に目をやると、手のひらに収まるほどのサイズの香草ブレンドが並んでいた。カリオ、ゼントラ、蒼香草のミックス。これは漬物用だ。俺の店で出してる“山菜の漬物”に、こっそり使ってるやつだな。


変わらず置いてあるってことは……誰かが、今も買ってるってことか。


(そうか、ここはまだ生きてるんだな)


食材ひとつひとつに、記憶が染みついている。過去の自分と今の自分をつなぐ“味の記録”だ。


変わったのは俺の肩書きだけで、俺という人間の“芯”は、案外あの頃と変わっちゃいないのかもしれない。


気づけば、手にした袋はずっしりと重くなっていた。だが不思議と、心のどこかは少し軽くなっていた。


「また顔出してくれ。お前が来ると、なんだか元気をもらえる気分になる」


「考えておく」


袋を背負い、商会を後にする。

その背に、カイがポンと手を乗せて言った。


「……あんたら、昔は色々あったんだな」


「……だからこそ、戻りたくなかったんだ」


思わず本音が漏れた。


この街は綺麗で、便利で、すべてが揃っている。

だがそれと引き換えに、何かを擦り減らして生きていく街でもある。


だからこそ、俺は山へ向かった。


そして今、こうしてまた――。



「次はどこ行くんだ?」


「……次は、香辛料の“ヤツ”を仕入れる。あれがないと、煮込みが決まらん」


「お、だんだんと真剣な顔になってきたな。料理人モードってやつか?」


「うるさい」


まだ日は高い。買い出しは始まったばかりだ。


だがこの街には、食材以上に“いろんなもの”が転がっている。


それが良い出会いなのか、ただの厄介ごとなのか――それは、まだわからない。


(……面倒ごとが、起きませんように)


俺は再びそう願いながら、大通りを歩き出した。


風はまだ、静かだった。


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