第75話 第六離着区
雲が割れ、陽が射し込んだ。
飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉の視界の先に、セレスティアの尖塔群が霧の海からその姿を現す。
高空から見下ろすそれは、まるで魔導文明の誇りそのものだった。
陽光を反射する無数の塔。その間を縫うように走る、空中の飛行路。
魔力制御された光の帯が空を編み、都市全体が精緻な機械仕掛けのように見えた。
「……ああ、やっぱり。変わってないな」
観測窓に寄りかかりながら、俺は思わず独りごちた。
セレスティア――帝都。
かつての戦争、名誉、そして失ったものすべてが、まだこの街に残っている。
空から眺める都市の輪郭は独特だ。
中心には巨大な円形の王城がそびえ、その周囲を行政庁舎、魔導研究塔、軍部施設が取り巻く。
さらに外縁部には商人街と市民居住区がびっしりと広がり、低空域には飛空挺専用の離着陸塔が点在していた。
「よーし、機体情報リンク送信するぞー。魔導回線、開いておけよー!」
操縦席の前で、カイが軽く肩を回しながら声を張った。
俺は無言でうなずき、手元の飛空挺操作盤――〈ルミナ・ドレッド号〉専用に調整された魔導入力式の操縦符盤の起動符を押す。
符盤の表面に、薄青い光の帯が走った。
この魔導回線を通じて、〈ルミナ・ドレッド号〉の機体情報が帝国飛空挺航行管理局――通称「空宙局」の中枢ノードへと送信される。
現代の帝国領空では、旧来の“飛行証”と呼ばれる個人携行型の紙札や金属筒の運用は、すでに過去のものとなっていた。
代わって導入されたのが、「魔導識別登録制度」――通称「エアノード・プロトコル」だ。
この制度では、飛空挺そのものが持つ「固有魔導識別符」(いわば機体の魔法的指紋のようなもの)を、事前に帝国へ申請・登録しておくことで、帝都や大規模都市の空域を通過する際、自動的に識別・通行が許可される仕組みとなっている。
「登録情報リンク完了。現在位置、速度、浮上高度……識別照合済み。問題なし」
カイが符盤の上に手をかざすと、数秒後、〈ルミナ・ドレッド号〉の前方の空中に、小さな光の輪が三重に浮かび上がる。
これは“識別認証環”――帝国側から「この機体は登録済みである」との通過承認が下りた証だ。
「よっし、これで迎撃されずに済むなー。……さすがに帝都の上空で蒸発は御免だからな」
そう言いながらカイは笑うが、実際、笑い話では済まされない。
帝都セレスティアの上空には、複数の迎撃魔導塔が配置されており、未登録・未照合の飛空挺が接近した場合、自動的に警戒信号が走り、警告を無視すれば即座に高位魔導砲が発動する。
数年前には、正規ルートから逸れた海賊機が本当に「塵ひとつ残さず吹き飛ばされた」という事件があったらしい。
「しかし便利になったよなぁ、この識別制度。昔は符を肌身離さず持ってなきゃならなかったのに」
「便利ってより、監視が厳しくなっただけだろ」
俺は淡々と返す。
確かに、個人が機体を自由にカスタムし、空を旅する時代は変わりつつある。
機体の“魔導コア”とリンクした識別データには、操縦者の魔力特性、航行履歴、通過地点、さらには過去の整備記録までが自動記録されていく。
便利であると同時に、“逃げ場のない空”でもある。
「まあ、でもさ――この空は俺たちが守ったんだぜ? 帝都だって、今じゃ平和そのものだ」
カイがそう言って空を見上げる。
光を反射する塔群の屋根が眼下に広がり、かつて血で染まった街が、今は穏やかな風に揺れていた。
魔導識別環の外縁がゆっくりと収束し機体に同調するのを見届けながら、俺は小さく息を吐いた。
確かに今は、戦の代償として得られた平和の上を俺たちは飛んでいる。
だがそれが本当に“自由な空”かどうかは、まだ判断を保留しておきたかった。
「よっしゃ、離陸の準備OK。風向き変わるぞ、減速入れる!」
カイの合図とともに、〈ルミナ・ドレッド号〉の速度が徐々に落ちる。
魔導炉の光が一段階トーンを落とし、機体は滑空へと移行する。
視界の下方に見えてきたのは、帝都北西の外縁――“第六離着区”。
そこは、かつて軍専用の飛空艇格納・離着陸場の名残を色濃く残している場所だった。
高架ランプと複数の滑走路が網目のように配置され、その一角には古い格納庫が魔導補修施設として機能している。滑走路側には誘導灯が埋め込まれ、夜間でも青白い光が帯状に延びている。サイドには大型整備プラットフォームがあり、飛空艇の翼や推進機が常に点検・整備されているのが外からでも見える。
地面からは誘導符が浮遊しており、機体の識別・降下経路・重量分布などのデータがリアルタイムに航行管理局へ送信されている。離着区を取囲む遮蔽網フェンスには、古代の鎖と錆びた魔導ルーンが残されており、「戦時の名残」が今も風に揺れていた。
第六離着区の北側には市域の端として住宅街が控え、飛空艇発着の音と住民の生活音が交じり合う。低空域を飛行する機体の影が屋根に落ち、住民はそれを見上げて軽く会釈する。住居棟の屋根には魔導衛星反射パネルが設置され、昼間の太陽光を収集し、夜間には路灯や魔導ポンプの動力に充てられている。
その一方、工房街も見える。煙を上げる鍛冶炉、流線型の魔導部品を組み立てる作業員、地表スキャナーで飛空艇登録を行う小規模屋台、さらには飛空艇操縦士向けの軽飲食店が路地裏に軒を連ねている。色とりどりの天幕が連なった市場風の屋台もあり、魔導部品や整備補助具、飛空艇仕様の奇抜なパーツを扱う商人が客を呼び込んでいる。
機体の尾翼を切る風音、滑走路の排気音、整備員の掛け声が複雑に重なり合い、まるでこの第六離着区自体が“生きた船”のように振動していた。雲の切れ間から差した太陽光が滑走路横の魔導水路に反射し、青緑の閃光を散らしていた。飛空艇が滑って降りてくるその瞬間、人々の視線が一斉にそちらへと流れ、着地と同時に歓声か小さな拍手が自然と起こる。
だが、そういう喧騒の中にも静けさがある。機体整備の手順、飛び立つ準備、パイロットの表情――そのすべてが「日常」になっている。戦場だった頃の緊張感とは明確に異なり、“飛び、着く”という行為そのものが、技術と信頼によって裏支えられたルーティンとなっているのだ。
俺たちはその離着区へゆっくりと降下していき、滑走路上に誘導符の光が導くように機体を揃えていった。誘導灯の淡い光が機体の金属感を浮かび上がらせ、機体前部の魔導炉の低音の鼓動が機体全体から伝わる。
「……懐かしいな、ここ」
「“英雄帰還す”って看板でも立てとく?」
「やめろ」
冗談を交わしながら、飛空挺はゆっくりと高度を下げていく。
都市の輪郭が次第に鮮明になり、人々の営みが細部まで見えてくる。
色とりどりの天幕がひしめく市場、魔導水路を行き交う小型艇、煙を上げる工房街。
騒がしさと生活の匂いが、空からでも伝わってくるようだった。
まるで、この街が“生きている”ように感じた。
呼吸し、脈打ち、今日も変わらず日常を回している。
……俺だけが、そこから置いていかれたような気がして、少しだけ胸がざわついた。
やがて誘導灯が灯り、誘導符が機体に方向信号を送ってくる。
〈ルミナ・ドレッド号〉はその指示に従い、緩やかに旋回しながら高度を調整する。
「じゃ、着陸体勢入るよー。ちゃんと座ってな、親父」
「わかってる」
機体が傾き、吸い込まれるように誘導光の帯に沿って降下していく。
推力板が回転し、風を裂く音が変調しはじめる。
着陸直前、俺はもう一度だけ、視線を空へ向けた。
――やっぱり、この街は“綺麗すぎる”。
磨かれすぎていて、息が詰まりそうになる。
だけど今日はいい。
今日は、ただの“買い出し”だ。
深く、ゆっくりと呼吸をして、気持ちを切り替える。
そして。
〈ルミナ・ドレッド号〉が、帝都セレスティア・第六離着区に静かに降り立った。
かつての英雄――“蒼竜の灰”ゼン・アルヴァリードは、再びこの街へ足を踏み入れる。
だが今、その肩にあるのは剣ではなく――フライパンと、仕入れ用のリュックサック。
今現在の肩書きは“灰庵亭の店主”。
ただそれだけだった。
さて、食材を探しに行こう。
灰と風の香りを纏いながら。




