第73話 それが許される世界だったなら
あの夜のことを境に、俺たちは何かを“知ってしまった”。
信頼の先にあるもの――
それが、ただの仲間意識ではないということに。
だが、それを言葉にすることはなかった。
しなかったのではない。できなかったのだ。
俺もあいつも、それぞれに「踏み込むことの怖さ」を知っていた。
戦場で生きる者が、他人と心を通わせるということ。
ましてや、「信頼」以上の感情を抱いてしまうということ。
それはすなわち、戦場で剣を握ることそのものに影響を及ぼしかねない選択だった。
そして俺たちは、互いの覚悟がどれだけ深く、どれだけ痛みを抱えているかを、すでに知っていた。
それでも――
俺たちはいつの間にか、日常のすき間にある“温度”に気づき始めていた。
◇ ◇ ◇
北の補給拠点での休息日。
戦闘の合間に与えられた、たった二日間の休養。
大半の兵士が街に繰り出し、飲んだくれ、賭け、女に溺れる中で、
俺は砦の裏庭にぽつんと腰を下ろしていた。
そこに、フィオナがやってきた。
「こんな場所で、一人ですか?」
「お前こそ。騎士団の連中に誘われてたろ。花の咲く茶会とやらに」
「断りました。……私はああいう華やかな場に、馴染みませんから」
「……そうか」
しばしの沈黙。
だが、その沈黙が不思議と心地よかった。
「……手、怪我してます」
ふと、フィオナが俺の右手を見つめた。
見ると、剣の鍔でこすれてできた傷がうっすらと開いていた。
癒しの術を使えば済む程度の傷だ。だが彼女は、そっと小さな布を取り出した。
「じっとしてください」
そして、まるで壊れ物を扱うかのように指先を包み込む。
その感触に、胸の奥が妙にざわついた。
「器用だな。包帯の巻き方、貴族の嗜みか?」
「……いいえ。あなたの包帯の巻き方が雑だったから、覚えただけです」
そのとき、ふと彼女が目を逸らした。
そしてぽつりと、口を開いた。
「……ゼン隊長。あなたは、どうしてそんなに……他人に無頓着なんですか?」
「無頓着?」
「ええ。怪我をしても、疲れていても、何も言わない。誰にも甘えない。……誰にも近づかない」
言葉に、ほんのわずかな苛立ちが滲んでいた。
「……誰かに近づけば、その分だけ、失うものが増える」
俺はそう答えた。
「戦場に出れば、明日死ぬかもしれない。誰かと距離を詰めれば、その“喪失”の痛みも倍になる。だったら――最初から踏み込まない方が楽だ」
彼女は黙っていた。
だがその瞳はじっと、俺を見ていた。
「……そうですね。確かに、“楽”ではあります」
そう言って、彼女は小さく笑った。
「でも、私は知っています。“楽”なだけの人生に、幸せはありません」
その言葉が、妙に胸に残った。
◇ ◇ ◇
それからの彼女は、少しずつ変わった。
戦場では何も変わらない。完璧な副官、冷静な剣士。
だが、それ以外の時間――
小さな笑顔を見せるようになった。
時折俺の無精髭をからかい、食事の味付けに文句を言うようになった。
そして何気ない会話の中に、ふと“日常”を滲ませるようになった。
それは、俺が最も避けてきたものだった。
平穏な日々の匂い。
名もない幸福の感触。
――生きるための理由。
彼女は戦場にありながら、そういった“命のぬくもり”を持っていた。
ある夜、彼女が紅茶を淹れて持ってきたことがある。
「今日は戦場じゃありません。だから、剣を置いてください」
そう言って、彼女は俺の前にカップを置いた。
その夜は、雪が降る前のように空気が澄んでいて、風がぴたりと止んでいた。
遠征先の前線基地、仮設の詰所に戻ると、焚き火の隣に一人分のマグと、丁寧に覆われたポットが置かれていた。
「……おい、これは?」
「紅茶です。今朝、補給便で届いたばかりの葉。たまたまいい香りがしたので、使ってみました」
フィオナが静かに応じた。制服の上に薄い外套を羽織って、彼女は俺の正面に腰を下ろした。頬に冷気の赤みが残っていて、それが妙に“生活感”を宿していた。
“剣を置いてください”
そう言って彼女が差し出したカップは、ほんのりと湯気を立てていて、淹れたての香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「……お前、いつから紅茶なんて淹れるようになった」
「隊長の食生活があまりに質素だったので、仕方なく。栄養よりも、“落ち着く味”が必要なときもあります」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。
その仕草に、不思議と胸が温かくなるのを感じた。
手袋を外し、カップを持つ。指先からじんわりと伝わる熱は、ただの飲み物のそれ以上の意味を持っていた。
口に含むと、柔らかな渋みと甘さが口の中に広がった。味そのものよりも、“誰かが自分のために用意した”という、その事実が心を打った。
「……うまい」
俺がぽつりと呟くと、フィオナは少し驚いたように目を丸くして、すぐに視線を逸らした。
「……そう思ってくれたなら、良かったです」
それは、彼女が素の声で初めて漏らしたような、柔らかな音だった。
夜風に混じって、焚き火が小さく揺れる。
「お前、本当は戦場よりも、こういう夜の方が似合うんじゃないか」
思わず、そんなことを言った。
彼女は何も言わなかった。ただ、焚き火の光に照らされた横顔が、わずかに俯いた。
「……もし、それが許される世界だったなら」
かすかにそう呟いたその声は、あまりに静かで、あまりに切なかった。
“戦場にいなければならない自分”
“戦いから逃れられない使命”
それをすべて飲み込んだ上で、それでも今、彼女は俺の前に紅茶を淹れてくれた。
「フィオナ、お前は――」
言いかけて、やめた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
ありがとう、で済むことじゃない。
好きだ、なんて言葉は、戦場では重すぎる。
ただ、あの一杯の紅茶と、この時間が、
俺にとってはどんな勲章よりも価値があると、そう思った。
“それ以上”は、まだ言葉にしてはならない。
そう、感じていた。
◇ ◇ ◇
あの夜、紅茶の湯気が消えていくのを眺めながら、俺たちはしばらく何も言わなかった。
宿舎の窓の外では、雪が降り始めていた。
カーテンの隙間から差し込むわずかな月明かりが、室内の静けさを深めていく。
「……もう、こんな時間か」
俺が呟くと、フィオナは小さく頷いた。
「明日も前線の補給任務ですね」
「まあな。夜明け前には出る」
「……冷え込みますよ」
彼女はそう言って、自分の外套を外し、俺の膝の上にそっと掛けた。
「……おい、それはお前が――」
「私は魔導で防寒できます。あなたは、無理をするでしょう?」
その笑顔に、何も言い返せなかった。
彼女は自分の席に戻らず、ベッドの端に腰を下ろした。
暖房魔導具のほのかな光が頬を照らし、長いまつげの影が壁に伸びていた。
「……ゼン隊長」
「なんだ」
「どうして、そんなに黙っていられるんですか」
「……?」
「誰にだって不安はあるものです。だけどあなたは、それを一切表には出さない。…どうして、そんなに平常心でいられるのですか?」
「気にしてないわけじゃない。ただ、気にしてたら、何も守れないだろう」
その言葉を聞いた彼女は、しばらく何かを考えるように俯き、
そして小さく微笑んだ。
「……あなたって、本当にずるい人ですね」
「そうか?」
「ええ。そうじゃなかったら、きっと私は、あなたのことをこんなに――」
彼女は途中で言葉を切った。
息を吸い込んで、少しだけ首を振る。
その仕草が、どうしようもなく愛しかった。
俺は立ち上がろうとして――やめた。
灯りに照らされた彼女の横顔を、ただ見ていた。
口にするよりも、伝わるものがあると感じた。
戦場で生きてきた俺たちは、言葉よりも“沈黙”で理解することを覚えてしまっていたからだ。
彼女も、それをわかっていたのだろう。
視線を上げたとき静かに、——まっすぐに俺を見た。
「……少し、ここにいてもいいですか」
「構わん」
それだけの会話だった。
けれど、彼女はまるでその言葉を待っていたかのように、そっと俺の隣に身を寄せた。
距離は、わずか数センチ。
肩が触れるか触れないかのその間に、妙な緊張と安らぎが同時に生まれた。
彼女の髪から、ほのかに香草の匂いがした。
手袋越しの手が、微かに温かい。
俺の呼吸と、彼女の呼吸が、ゆっくりと重なっていく。
「……ゼン」
初めて、彼女が“隊長”ではなく名前で呼んだ。
「ん?」
「もう少しだけ、このままでいてもいいですか」
声が小さく、震えていた。
俺はただ、頷いた。
それだけで、十分だった。
彼女の手が、そっと俺の手に触れた。
氷のように冷たく、けれど、その奥にある温度は確かに“生きている人間”のものだった。
手を握り返す。
その瞬間、言葉も理屈もいらなかった。
ただ、戦場の真ん中で生きている二人が、ようやく“人間として”触れ合った気がした。
しばらくして、彼女は小さく囁いた。
「……生きていて、よかった」
俺は答えられなかった。
ただその手を離さないように、強く握り続けた。
時間が過ぎていく。
窓の外では雪が降り積もっていたが、室内は静かで温かかった。
その夜、俺は初めて剣も鎧も置いた。
ただ誰かを守るためではなく、“誰かと生きる”という時間を選んだ。
そして気づいた。
――これが、“生きている”ということなんだと。
◇ ◇ ◇
だが日々が穏やかになるほど、逆に恐ろしくなる。
この関係が壊れる瞬間が、いつか必ず来るとわかっていたからだ。
ある晩、焚き火の前で彼女がふいに言った。
「私、死ぬのが怖くなくなりました」
「……それは騎士としては褒められることかもしれんが」
「違うんです。私は“死ぬこと”じゃなく、“あなたを残して死ぬこと”が怖いんです」
言葉が、胸に刺さった。
俺は返事ができなかった。
彼女がどれだけ俺にとって“大きな存在”になっていたのかを、あらためて突きつけられた気がした。
彼女のいない戦場。
彼女のいない日々。
――考えたくもなかった。
だが、気づいてしまった時点で、もう逃げ道はない。
その晩、俺は眠れなかった。
焚き火の火が消え、静寂が戻ったあとも、
彼女の言葉が胸の中で何度も何度も響いていた。
「あなたを残して、死にたくない」
その言葉の裏にあったもの。
それは、ただの戦友への忠誠じゃない。
彼女は、俺を“好き”なんだ。
そう、気づいた。
同時に――
俺もまた、彼女を“好きになっていた”んだ。
ただの副官じゃない。
ただの教え子でもない。
この命を、すべて賭けても守りたい相手。
だから俺は、もう一度だけ剣を握ろうと思った。
守るために。
“あいつの未来”を、戦場の向こうに繋げるために――。
◇ ◇ ◇
焚き火の前で、俺はまた一つ薪をくべる。
フィオナの名を呼んだあの日から、もうどれほどの時が流れただろうか。
今ここにいるのは、戦場を離れた元・騎士団長。
山奥の食堂で、ただ静かに暮らしたいだけの隠居男。
だが、心のどこかで――
あの頃の声が、足音が、背中のぬくもりが、まだ消えていない。
「……今でも、あの目が浮かぶんだよ、フィオナ」
誰に語るでもなく、ただひとり夜の静けさにそう呟いた。
ぱち、ぱち、と焚き火の音だけが返ってきた。
それでも、構わなかった。
この時間が、何よりの贅沢だった。
あの頃、守れなかったものがある。
だから今は、せめて――
誰かが穏やかに飯を食える場所を、守りたい。
それだけでいい。
そう思った。
そう、思っていた――はずだった。




