第70話 白花の記憶、蒼のまなざし
焚き火の灯りが、揺れていた。
ぱちり――夜の静寂に紛れるように、乾いた薪がひとつ、静かに弾ける。小さな火花が宙を舞い、そして、何事もなかったように消えていく。
ゼンは誰もいなくなった焚き火の前に、ひとり座っていた。
イグザスは既に休息に入り、仮設の帳の中で資料を抱いたまま眠りに落ちている。カイも焚き火から離れた谷の縁で星空を仰ぎながら、帰ってくる気配はない。
だから今この炎のそばにあるのは、ゼンの鼓動と薪の燃える音だけだった。
胸元にそっと手を差し入れる。指先に、柔らかい布と冷たい金具の感触が触れた。
――白花の髪飾り。
かつての戦場で拾い、今も手放せずにいるもの。何年経っても色も形も変わらずにある。だが変わらないそれとは対照的に、自分の心だけが少しずつ削れていくような気がしていた。
「……フィオナ」
その名を呼ぶ声は焚き火の灯にかき消され、夜の帳の中に静かに溶けていった。
彼女の名をこうして口にするのは、何度目になるだろう。
戦火の中、幾度も死線を越え、共に生き延び、そして失いかけた日々――もう思い出すことはないと、手放しかけていた記憶。それが、先ほどのイグザスの一言で再び心の奥で脈打ち始めた。
ゼンは目を閉じた。
瞼の裏に広がる静寂の闇。その闇の奥で、遠い日の白い光がふっと灯る。
◇ ◇ ◇
帝国南部、山岳の要衝に築かれたヴェルニエ要塞。
それは、帝国軍の中でも特に過酷な訓練を課す精鋭の砦だった。石畳の回廊、重厚な石壁、空気に染みついた鉄と魔力の匂い――そこに届いた一通の報せが、ある朝の空気をわずかに変えた。
「……エステル家の、ご令嬢……ですか」
報告書を読み上げた将官に、ゼン・アルヴァリードは低く反応した。紙面に記されたその名前に、わずかに眉をひそめる。
帝国五大貴族のひとつ、エステル家。
その名を聞いた瞬間、ゼンの中で何かがぴんと張り詰めた。
――エステル家。帝国でも最古の血統を持つ五大貴族のひとつ。その名を冠する者は、常に帝国の象徴であり続けなければならない宿命を背負っている。
歴史を遡れば、建国王の時代から軍制の中枢に関与してきた家系。代々最も優れた軍略家と剣士を輩出してきたことで知られ、「戦場に咲く白き炎」とも称された一族だ。
かの家門の者が配属されるというだけで、周囲の空気が微かにざわついた。だがゼンは、噂や格式といった“帝都的価値観”に対して、昔から冷淡だった。
彼女の名は知っていた。知らぬはずがなかった。
――フィオナ・ル・エステル。
帝都魔導院と帝国軍事学院を、前代未聞の成績で同時首席卒業。魔法、剣術、戦術、礼法、どの分野でも逸話が残され、「帝都の氷花」「白銀の叡智」などと称されていた少女。
帝国上層部が“次世代の象徴”として送り出した逸材だった。
だが、ゼンはその肩書きに何の期待もしていなかった。
戦場では家名は命を救わない。才能も実績も、過去の勲章も、砲弾の前では無意味だ。彼が見たいのは、そういった虚飾の奥にある“生き延びようとする意志”だけだった。
報告書に添えられていた彼女の顔写真。整いすぎた美貌に、彼は小さく吐息を漏らした。
「戦場に出る者にとって、肩書きなど何の役にも立ちません。それに、俺の指導は貴族であっても容赦はしない。……それでも構わないのですか?」
将官は無言で頷いた。
だが、その沈黙には確かな重みがあった。言葉を継ぐことなく報告書を机に戻すと、彼は短く、ひとことだけ付け加えた。
「――本人の、強い希望だ」
それがすべてだった。
名門エステル家の嫡子でありながら、帝都でも名高い美貌と頭脳を持ち、誰もが“帝国の未来”と讃えた才女。その彼女が、よりにもよって前線中の前線、最も過酷な訓練拠点として知られるヴェルニエ要塞への配属を“直訴”してきたという。
しかも、貴族としての特権を使うどころか、「特別扱いは一切不要」とまで添えて。
ゼンは無意識に眉を寄せた。貴族であれば、安全な後方勤務か、名誉的な軍務に就くのが常だ。戦場は“育ちの良い者”には似つかわしくない。だが彼女は、あえてそれを望んできた。
なぜか。
疑念はあったが、すぐに霧散した。理由がどうあれ、目の前に現れた者を見極めるのが彼の役目だったからだ。
ゼンは小さく息を吐き、報告書を閉じた。
(……俺は歓迎しない。だが、来るなら容赦はしない。それだけのことだ)
それは、誓いにも似た独白だった。
◇ ◇ ◇
翌朝、霧が漂う訓練場に彼女は現れた。
夜明け前、まだ陽も顔を出していない灰色の時刻。朝露に濡れた土の上、フィオナは静かに立っていた。
白銀の髪は整えられ、深紺の制服は一分の乱れもなく、立ち姿ひとつ取っても完璧だった。
まるで彫刻のように整いすぎていて、逆に生々しさを欠いているようにも見える。
だが――彼女の“目”だけは、違っていた。
凍てつくような蒼の双眸。名家の生まれでも、称賛の対象でもない、ひとりの戦士としての覚悟がそこにはあった。
「アルヴァリード教官ですね。フィオナ・ル・エステルと申します。本日より、指導のほどよろしくお願いいたします」
敬礼の角度、姿勢、発声――すべてが完璧だった。
だが、その完璧さが却って、ゼンには違和感として映った。
「……そうか。だが、先に言っておく。この部隊に爵位も、家名も関係ない。俺はお前を“貴族の娘”としては見ない。教師でもない。俺が教えるのは、戦場で生き延びる術だけだ」
その言葉に、彼女の瞳が一瞬だけ揺れた。
驚きでも、反発でもない。
ほんのかすかに――微笑みのような感情が、そこに滲んだ。
「承知しました。それが……私の望んでいた扱いです」
灰と蒼が、初めて交差した朝。
それは、終わりを知るよりも前に始まっていた、静かで強い、ひとつの絆の始まりだった。




