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第69話 フィオナ・ル・エステル



「なぁ、ゼン……覚えてるか?」


雑炊をすすっていたカイが、ふと手を止めて言った。


「帝国南砦。お前と初めて、真っ正面から肩並べた戦場のことだよ」


ゼンは鍋の火加減を確認しつつ、顔を上げた。


「……ああ、あの時か。お前が空挺で砦の上に突っ込んできた日だな」


「突っ込んだんじゃない。あれはちゃんと狙ってた」


「味方の陣営に“風圧で瓦礫ごと激突”は、狙ってたって言わない」


「うるさいな。お前が“この区画は安全”って言ったから信用したんだろーが」


「……お前が突っ込んできた時点で、もう安全じゃなかった」


火花が散るような軽口の応酬に、イグザスが苦笑した。


「そうだったな……あれは、地獄の三日間だった」


ゼンが湯気越しに目を細めた。


帝国南砦――イグニス大陸戦線の最前線に位置する、火山帯と鉱脈を挟んだ砦。かつて魔族と傭兵連合の挟撃を受け、孤立無援のまま四方から包囲された要塞である。


「あの時の空は、真っ赤に焼けてた。風が真横から吹くんじゃなく、下から巻き上がる感じでな」


ゼンが静かに語ると、カイも頷いた。


「竜骨雲ができてた。火山の熱と魔力が混じって、空そのものが呻いてた」


「敵の投下部隊が砦の外郭を制圧して、内部が完全に分断された。空からも地上からも攻撃されて、あれは……普通なら落ちてた砦だ」


「でも落ちなかったのは、お前がいたからだよ」


ゼンはそれには何も答えず、ただ鍋をかき回した。


あの戦場で、カイは空からの強襲を受け持ち、ゼンは地上からの侵入を防いだ。だが、互いに初対面だったはずのその夜、何の打ち合わせもなく、背中合わせに陣を組んでいたという。


「妙だったよな。合図もしてねえのに、動きが合っててさ」


「戦場で言葉は要らないときがある。感覚の噛み合いだ」


「お前、そういうとこだけ詩人だよな」


ゼンは肩をすくめ、椀を差し出したカイに雑炊のお代わりをよそう。


「でも、本当にギリギリだった」


「そうだな。私の空挺は主翼が片方焼け落ちて、ほぼ墜ちかけてた」


「俺も盾が割れていた。あの時の魔導弾は“属性ごとに変化する”奴でな……全部受けきれなかった」


「……そういやさ」


カイが、ふと箸を止めた。


「最後私が不時着したあと。敵が砦の屋上に上がってきて、もうだめだって思ったとき……お前、ひとりで現れたろ」


「……」


「まるで、…全部をひとりで背負い込んでるみたいでさ?」


ゼンは言葉を飲み込むように鍋の蓋を少し開け、湯気を逃がした。


「――あれが、最初だったよ。私が、誰かに“守られた”って思ったの」


「……守ったんじゃない。たまたまだ」


「たまたまが何回もあるかよ」


空はいつの間にか夕暮れに染まり、風も少し涼しくなってきていた。


「ありがとな、ゼン。あの夜死ななかったから、今こうして空を飛べてる」


ゼンは静かに微笑み、空の色を眺めた。


「あの夜の空とは、まるで違うな」


「なに、今のが気に入ってる?」


「そうだな。少なくともあの時よりは、…ずっといい色だ」


ゼンが空を見上げる。


風は、もうすっかり穏やかだった。



焚き火が、静かにぱちぱちと音を立てていた。


谷底に吹いていた風もようやく落ち着き、山の稜線から夜の帳がゆっくりと降りてくる。夕餉の残り香とほのかな湯気が空へと溶けていく中、三人はそれぞれの場所で、思い思いに時を過ごしていた。


カイは空を仰ぎ、イグザスは厚みのある資料の束を膝に置いて読み返し、ゼンは、焚き火にかけた鉄鍋の中身をぼんやりと見つめていた。


戦場で命を預け合った者たちが、今はただ、静かに湯気立つ鍋を囲んでいる。


まるで奇跡のような光景だった。


そしてそれは同時に、どこか儚く、幻のような時間でもあった。


「……いい音だな」


イグザスが、ぽつりと呟いた。


「何がだ?」


ゼンが火に薪をくべながら問い返す。イグザスは、口元を緩めて答えた。


「鍋の音もそうだが……こうして、なんでもない時間を過ごしていると、心が洗われるようでな」


「お前らしい感想だな」


カイが、苦笑まじりに言った。


「でも、わかる気がする。焚き火の音ってさ……なんだろう、自分の心音が聞こえるような気がしてくるんだよ。“ああ、自分は今、生きてるんだな”って、実感する」


その言葉に、ゼンはほんの少しだけ目を伏せた。


イグザスはそれ以上は何も言わず姿勢を崩すと、手を組んで火を見つめ続ける。


燃える炎の揺らめきと、立ちのぼる香ばしい湯気。それだけが、沈黙の代わりにこの場を満たしていた。


やがて、イグザスが口を開く。


「……なあ、昔話の続きをしてもいいか?」


「別に止めはしねぇさ」


カイが火ばさみを弄びながら返すと、イグザスは静かに頷いた。


「帝国にいた頃……奇妙な集まりが多かっただろう。俺は技術局代表として、何度も評議会に呼び出されていた。だが、ああいう政治の場は、どうにも苦手でな」


「そうだな」


ゼンが小さく笑う。


「まともな神経じゃやってられない場所だった」


「だがな、そんな場にも、記憶に残ってる奴は何人かいた。数少ない“まともな人間”だったと思う」


そう言って、イグザスはゆっくりと息を吐いた。


「その中に、一人いたよな。いつも黒い制服を着て、口数は少ないが……目に、芯があった」


その瞬間、カイの表情がわずかに変わった。先ほどまでの柔らかな笑みが消え、何かを押し殺すような色がその瞳に宿る。


イグザスはそれに気づかず、懐かしそうに続けた。


「……たしか、名前は“フィオナ・ル・エステル”。お前と同じ“蒼竜”だったな、ゼン」


火ばさみの動きが止まる。


焚き火の音だけが、谷底に取り残されたように響いた。


「……ああ」


ゼンの声は、焚き火の奥に過去を見ているような、遠い響きだった。


「確かに、そうだな」


「うちの空挺部隊とは接点が薄かったが、それでも印象には残っていた。あの静かな佇まいと、剣士としての気配……あれは、生半可な修練じゃ身につかないものだった」


「……そうだな」


ゼンは、それ以上は語らなかった。


「フィオナ、か……」


カイが、ぽつりと呟く。その声にはどこか硬さがあった。彼女がこんなふうに声を落とすのは珍しい。


「知ってたのか?」


イグザスが少し驚いたように聞くと、カイは焚き火を見つめたまま答えた。


「……まあな。“古い友人”ってやつさ。ゼンと同じように」


「俺は彼女と、ちゃんと話したことはなかった。でもな、ある日目にした戦地報告書に、彼女の記述があった。“戦場における最前判断の天才”――そう書かれてた」


「……」


「“蒼竜”と聞けば、真っ先にゼンの名が浮かぶ。それは今も昔も変わらない。だが、あの頃の報告書には、必ずそのすぐ近くに彼女の名があった」


その言葉にゼンは何も返さず、ただ焚き火に薪を一本、そっとくべた。


ぱち、ぱち……。


新しい火の粉が、闇へと舞い上がっていく。


「……もしかしたら彼女は、お前と同じくらい、“帝国”の重さを背負っていたのかもしれない」


イグザスが呟くように言うと、今度はカイが静かに立ち上がった。


焚き火に背を向け、谷の縁へと歩き出す。


夜の空は晴れて、星が瞬いていた。


「……夜が冷えてきたな」


その一言だけを残して、カイは静かに焚き火から離れていく。


ゼンもイグザスも、その背中を呼び止めることはなかった。


焚き火はまだ、静かに燃え続けていた。


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