第68話 静かな山の午後
飛行試験が終わった峡谷の上空は、すっかり青が戻っていた。
岩場に戻った〈シルヴァ=ヴァルザン〉は、わずかに熱を帯びた機体表面を光らせながら、地面に静かに横たわっていた。
そこに操縦席から飛び降りたカイが、ぐっと伸びをしながら両腕を振り回す。
「――っしゃぁああああ!! 最高ッ!!」
岩場に響き渡る叫びだった。
「これよ、これこれ……風の先端を突き抜ける感じ……身体が羽になるって、こういう感覚なんだよなァ」
叫びながら、彼女は何度も機体を振り返る。機首から尾翼まで、まるで我が子を見つめるように、ゆっくりと目を動かす。
「よくぞここまで……」
その背後、岩場の上から降りてきたイグザスがぼそりと呟いた。
彼の指は、無意識のうちに空間に“図面をなぞる”ように動いている。
「重心移動の遅延、ほぼゼロ。浮力制御板と補助推進の同期も、流体抵抗の差異に即時追従……」
呟きながら何度も顎に手を当て、何かを噛み締めるようにうなずく。
「シフトスレッドも正しく働いてた。脊髄反応式の同調機構も、カイとの同期率95%以上……あの魔力干渉域を通って、誤差が一桁ってのは……」
「なぁイグザス。もう少し“わかりやすい言葉”で褒めてくれねぇか?」
カイが笑いながら振り返る。
「褒めてる」
「だろうな」
イグザスは顔を上げると、初めて“笑った”。
無精ひげの奥から、少年のような表情がのぞく。
「お前の感覚と、この船の設計が……予測以上に噛み合ってた。言葉で説明できる次元をもう越えてる。あれは“空と生きてる”反応だ」
「おう、よく言った!」
カイは嬉しそうにどんと彼の肩を叩いた。
その頃、谷の入口近く。ゼンは簡易コンロに火を入れ、鉄鍋を静かに温めていた。
薪の香ばしい香りと、出汁の湯気。
谷の斜面を吹き抜ける風が、針葉樹の枝をかすかに揺らす。気温は昼よりもやや下がりはじめ、肌にあたる風にひんやりとした感触が混じり出していた。
ふと、近くに積まれていた食材袋に目をやる。中から顔を出したのは、風境山郡で採れる特有の野草――「風貫菜」だ。細長くねじれた葉を持ち、炙るとわずかに塩味を帯びる。標高の高い地域にのみ自生し、その繊細な香りと苦みは食欲をそそる前菜として重宝されていた。
「……風境の味だな」
ゼンは小さくつぶやき、手際よく風貫菜を刻んでいく。
隣の木箱からは、昨日のうちに岩陰で冷やしておいた「渓鱒」を取り出す。山岳の伏流水で育つこの魚は、身が締まりながらも脂がのっていて、焼いても煮ても崩れにくい。今回はあえて“塩煮”にし、骨から出る旨味と香味野菜で雑炊の出汁に変えるつもりだった。
もう一つ袋の底から現れたのは、地元で“風の根”と呼ばれる山芋の一種。断面が薄く青白く、すり下ろすと粘りが強く、空気を含ませることでまるで泡のような口当たりになる。
「……これは、“風苔芋”か」
風境山群の湿地帯でしか採れないこの芋は、地中深く、霧を吸うようにして育つ。皮は硬く、表面に苔のような産毛が生えており、知らない者が見ればただの石ころと見間違えるほどだ。
しかし削って加熱すると、中からとろみを帯びた粘質の白身が現れる。その粘りにはわずかに魔力耐性を整える効果があるとされ、長く山中にいる者にとっては重宝される食材だった。
ゼンはこの芋をすり下ろし、雑炊の仕上げに加えることで、風境の風味と身体への優しさを両立させる算段だった。
「地形は厳しいが、土地は恵まれている……そういうことか」
ゼンは湯を張った鍋に、鱒の中骨と風苔芋の皮をくべた。
煙が霧に混じり、風境山の空気とひとつになる。魔力の波を揺らすような風が谷を這い、樹々をざわつかせながら過ぎていく。
「気象の荒さに比べて、この山の食材は……どれも、なんでこう静かなんだろうな」
声にするわけでもなく、ゼンの脳裏に浮かぶのは、かつて戦場で口にした保存食との対比だった。あの頃は乾燥肉か保存麺、せいぜい固いパンと干し野菜の煮込みが限界。味付けは塩と油だけ。それに比べ、今この手元にある食材はどれも瑞々しく生きている。
――風鏡山群・第七渓谷。かつて魔導飛行の実験地だったこの地は、今では忘れられた谷でありながら、風と霧の守る“静謐”の宝庫でもある。特有の植物や小動物が穏やかに繁殖し、まるでこの地そのものが「風霊が紡いだ繭のような場所」と言わんばかりの優しさを持っていた。
ゼンが初めてこの渓谷に足を踏み入れた時も、いくつかの野草に助けられた覚えがある。毒性のある葉にまぎれて生えていた「癒露草」――煎じると微弱な治癒効果を持ち、発熱と疲労を和らげる。あの苦味の強い液体で、体力を取り戻した夜のことは今でも忘れられない。
そんな記憶がよぎる中、雑炊の鍋からふわりと出汁の香りが立ち上った。
「……よし」
ゼンは立ち上がり、渓鱒のほぐし身とすり下ろした風の根を加えた。粘りが汁に溶け出し、優しいとろみが生まれる。そこに、刻んだ風貫菜を最後に散らすと、湯気の中から、どこか懐かしいような香りが立ち上がった。
それは、空の上では決して味わえない、地に足ついた“生の匂い”だった。
カイとイグザスが戻ってきたのは、その香りが一層濃くなった頃だった――。
「おうゼン、すげぇ腹減ったぞ」
「お前の鍋の音は、百メルト離れても聴こえるんだな……」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ゼンは、ふっと目を細めた。
「今朝の山菜と、昨日の鱒だ。あと、山芋をすり下ろして雑炊にした。一汗かいた後にはちょうどいい」
「神か」
「料理人だ」
湯気の奥で笑いながら、ゼンは器を並べていく。
カイはそのうちのひとつを持ち上げ、ひと匙、口に運ぶ。
「……っあぁぁ……沁みるわ……」
「これはもう反則だろ……」
イグザスが、少しだけ目を閉じる。
風と空、過去と未来。すべてが混ざり合う、静かな山の午後。
誰もがほんの少し、言葉を忘れていた。
――それでも、心は語り続けていた。




