第67話 峡谷の出口
峡谷を抜けた風が、ようやく安らぎの表情を見せはじめた。
それは気圧の変化でも、風速の低下でもなく、ただ“空気の密度”が柔らかくなる感覚だった。
緊張に満ちた空域を抜けたことで、〈シルヴァ=ヴァルザン〉の船体からもわずかに“力み”が抜けていく。外殻の表層を流れていた微かな振動が、すっと消えた。カイは操縦輪にかけていた力を緩め、静かに目を細める。
前方、遠くの空が開けていた。
霧のベールが薄まり、山影の向こうから差し込んだ光が峡谷の岩肌をなぞるように滑っていく。陽光は金に近い淡い色で、冷たい空気の中に差し込むだけで、空全体がやさしい色に変わって見えた。
やがて、峡谷の出口が見えた。
光が差し込む。霧が晴れて、遠くの空が“薄金色”に透けていく。
朝の瑞々しい空気が広がる。
カイは操縦輪からそっと手を離した。
「……シルヴァ。あんたはもう、誰にも捕まえられねぇ」
かつては、掠奪のために。
戦場では、敵を斬り込むために。
風を破り、音を置き去りにして、血の中を翔けた。
でも――いまの彼女は違う。
空が“微笑む”速さで。風が“抱きしめる”姿勢で。
その空域をただ自由に、——ただ誇り高く、滑空していた。
一呼吸。
もう一度深く吸い込むと、肺の奥に冷たい朝の香りが満ちる。湿った岩、霧の粒、そして樹々の青い匂い。いずれも戦場では嗅ぐことのなかった“平和の匂い”だった。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉は、ゆるやかに風を滑りながら、標高を下げていく。急降下でもなければ、滑空でもない。風の層に、優しく体を預けるような動き。
この感覚は――
「……初めて、私が“こいつ”に乗ったときのことを思い出すな」
小さく呟く。
それは、かつてまだ“空賊”という名に誇りを持てなかった頃。無骨で、音がうるさくて、暴れ馬のように制御しにくかった初期の〈シルヴァ〉。それでも不思議と、機体に“意思”があるような気がして、何度も何度も話しかけていた。
「飛べ、シルヴァ……」
「頼む、落ちるな……!」
「お前は、もっとできるはずだろ……?」
その頃の“相棒”は、応えてくれていたかどうかは分からない。
当時の〈シルヴァ〉は、今とは似ても似つかない“ガラクタの寄せ集め”だった。
元は帝国軍の偵察艇のスクラップ。それをカイが拾って独学で組み直し、たまたま手に入れた竜骨推進炉を無理やりはめ込んだ代物だ。飛ぶには飛んだが、まるで剣のように風を裂き、怒号のようなエンジン音を撒き散らす、粗暴な空賊艇だった。
だが、カイにとっては唯一の“居場所”だった。
「……空の上だけが、私を裏切らなかった」
そう思った日があった。
傭兵として、竜人として、女として、何一つ守られる立場ではなかった彼女にとって、空はただ一つ平等な場所だった。速さと腕だけがモノを言う。過去も家も、名前さえも関係ない。風に嫌われなければ、誰でも“飛ぶ”ことはできた。
――だが、そのためには相棒が必要だった。
鉄と魔力の塊ではなく、命を預け合える“相棒”が。
夜な夜なエンジンを磨き、推進炉に話しかけ、操縦席の革に手を当てて祈った。
「頼む……今日も、飛んでくれ」
「今日こそ、ひとつ上の風を掴ませてくれ」
祈りに近い独白が、毎晩の儀式だった。
そのうち、奇妙な感覚が芽生えはじめた。
急な乱気流で舵を取られそうになった瞬間、機体がわずかに傾いて風を逃してくれた。峠の風穴を抜ける際、カイの思考より先に推進炉が出力を落としたこともあった。
“こいつ……もしかして私の声が、届いてる……?”
馬鹿げた幻想だったかもしれない。
けれど、そう信じた瞬間から、カイの中で〈シルヴァ〉はただの船ではなくなった。
夜の風の中で、相棒と二人で空を駆ける。その感覚こそが、彼女を“空の女”にしたのだった。
あの頃の無骨なフレームはもうない。外装も推進器も、炉心すら違う。
目の前に広がる空は、敵も味方もいない、ただの“青と金の舞台”。
雲のすき間から顔を出した太陽が、ゆっくりと水平線を昇る。
その光が船体に差し込み、銀の外殻をやわらかく染め上げた。
虹ではない。反射ではない。ただ、“光そのものを受け取っている”かのような、透けるような輝き。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉は空の静けさに同化しながら、まるで夢の中を漂っているようだった。
風も音も、意識さえも、すべてが同じ流れの中にある。
この空のなかで、“唯一無二の静寂”が彼女の心を包み込んでいた。
「どうだ、シルヴァ……生まれ変わった気分か?」
カイが操縦輪から手を離して、軽く撫でる。
銀白の船体が、わずかにきしむ。
だが、それは応答のようでもあった。
「お前もう、“ただの飛空挺”じゃねぇな。ちゃんとした“翼”になったんだ」
彼女の口調に、優しさと誇りが混ざっていた。
ゼンは、地上でその様子を見ながら静かに呟いた。
「……あの艇、彼女の“心の形”そのものだな」
「元々、飛空挺ってのはそういうもんだ」
イグザスが答える。
「鳥でも飛空挺でも、翼を持つもんはみんな同じだ。「飛ぶ」ってのは、“技術”と“気持ち”がぴったり噛み合った時だけに成立する“奇跡”なんだよ」
試運転は、想定を超える滑らかさだった。
気流の境界層を感知して、自動で翼角が微調整される。
同調コアが微弱な感情反応まで拾い、滑空パターンを自然に“導く”。
そのうえで、緊急時にはドラグニック・クライ――“魔力過給モード”にも即時切り替え可能という“攻守両立”のシステム構成。
「……化け物になったな、こいつ」
カイは、少しだけ笑う。
「でも、最高だ。やっぱ私の“相棒”だよ。何があっても、こいつとならどこへでも行ける」
地上で待つゼンは、遠く空の裂け目に一条の“銀の流線”を見た。
空はどこまでも静かだった。
だがその静けさは、“風が止んだ後の穏やかな空”ではない。
風がそこに“いていい”と言ってくれる空だった。
ゼンはその空を見つめながら――
カイと彼女の翼に、ほんの少しだけ嫉妬していた。




