第62話 空を編むもの
イグザスの男の作る茶は、昔から不思議な味がした。
ほんの少し苦味がありながら、どこか甘露のような余韻を残す。
香草か、干した薬草か。素材は不明だったが、疲れた身体がじわじわと緩んでいく感覚は、今も変わらない。
地下の研究室――いや、飛空挺の胎内とも呼べるこの場所で、イグザスは黙々と作業を始めていた。
薄いスクロールの束を広げ、魔導理論式を幾つも書き連ねていく。
その筆致は迷いがなく、まるで何かを“追いかけている”のではなく、“すでに見えているもの”を写し取っているようだった。
「……で、その船体が“最後の実験機”ってわけか?」
俺は半ば呆れたように問いかける。
「ああ。名はまだない。機体コードは“Ex-XIV”。元帝国技術局コードの延長だが……今となってはただの癖みたいなものだ」
イグザスは手を止めず、設計図の上にある機構を指先でなぞった。
そこに描かれていたのは、既存の飛空挺とは明らかに異なる構造だった。
船体の全貌は、飛空挺というより“巨大な羽虫”のような印象を受けた。
機体の全長はおそらく十メルト超。だがその外形は、従来の船型ではなく、有機的な曲線を主体にした“繭”のようなフォルムをしていた。丸みを帯びた船体の両側には、板状の偏向翼が複数層にわたって重なり、まるで風を抱きしめるために設計されたような形状だった。
船体表面には無数の微細な鱗片状プレートが重ね貼りされており、それらは見る角度によって虹色に輝いた。魔導鉄ではあり得ない反射特性だった。おそらく“風の乱流”を受け流すため、表面層の一枚一枚が独立して揺らぎを吸収するよう設計されているのだろう。
その中心、いわば“心臓部”には、わずかに脈動するような光を放つ円環状の核炉が埋め込まれていた。金属というより、半透明の鉱石か。結晶構造が生き物のように呼吸している。それがイグザスの言う“炉心結晶”だと、すぐにわかった。
船体の上部には小さな操縦ユニットが突出していたが、戦艦のような主砲も、副武装もなかった。武装を排し、ただ“飛ぶため”だけに存在している機体――それがEx-XIVだった。
魔導推進ノズルのような構造はなく、代わりに船体の至る所に“空間重ね式エアインテーク”が散りばめられていた。これにより空気中の流体圧を検出・取り込み、それを偏向翼の可動によって“空気の流れごと変形”させる。
機体全体が“風を読む眼”であり、“空と握手する手”であり、“空に問う耳”でもあった。
構造材は帝国軍が誇った魔導合金ではなく、軽量で可変性の高い素材を独自合成したものらしい。あらゆるパーツが“軽さ”と“柔軟さ”を第一義に設計されており、剛性ではなく“共鳴”を前提にした工学思想が見て取れた。
それはもはや、飛空挺ではなかった。
“空と生きる器”――そう呼ぶほうが正確だろう。
そしてその形状と構造は、明確に“誰かを運ぶ”ためではなく、“空そのものを抱きしめる”ために存在していた。
「見ての通り、これは既存の“推進式”ではない。
魔導炉を中核に据えつつも、推力ではなく“圧縮浮力制御”で空を掴む。
気流と大気密度、地磁気と魔力の相互作用を利用して、機体そのものが“空中に定在する”ように設計している」
「……浮いてるだけで進むってのは無理だろ。どうやって進行方向を?」
「外装に組み込む“多重気流偏向板”でな。
空気の流れを折り曲げることで、“圧”をずらして機体を押し出す。
羽ばたかずに進む鳥のようなものだよ。無駄がない。音もない。痕跡も残さない」
俺は唸った。
魔導炉による直接推進は確かに強力だが、発熱と騒音、そして膨大な魔力消費が難点だった。
イグザスの理論はそれを徹底的に排除し、あくまで“空気そのものを道具として使う”という思想に徹している。
「外殻は?」
「帝国時代の飛行艇は魔導鉄を多用していたが、今回は“複合軽合金+耐圧結界フィールド”だ。
外殻は極限まで軽量化しつつ、フィールド全体に魔導炉からの“流動結界”を展開する。
これで機体の“質量そのもの”を一時的に低下させることが可能になる」
「……まさか、“浮力をかけた上で、質量を削る”のか?」
「その通り」
あきれた。だが、イグザスならやりかねない。
いや、やるからこそ今もここに生きて研究を続けているのだ。
「最大の目標は、魔導炉そのものの熱変換効率だ。
帝国の技術は“出力を上げる”ことに集中しすぎた。だが、俺の狙いは“損失を減らす”ことにある」
彼は棚から一枚の結晶基板を取り出した。
「見ろ。これは炉心結晶の一部なんだが……」
表面には幾何学的な紋様が、極小単位で刻まれている。
それはまるで魔法陣を顕微鏡で覗いたかのような精密さだった。
「これは“魔力伝導の損失をナノ単位で最適化”した転写陣列。
要は、同じ魔力量で二倍の効率を出すためのフィルターだ。
この構造を炉心全体に組み込めば、魔導飛行の持続時間は現行の三倍になる」
「どこでそんな材料を……」
「拾った」
即答だった。
「……冗談だ。だが、半分本当さ。廃棄された帝国の補給基地の残骸から、使えそうなものを拾い集めてな。
あとは自分で削り出して、組み上げた」
思えば、イグザスはいつもそういう男だった。
派閥にも属さず、金にも縁がなく、組織からはいつも冷遇されていた。
それでも、目の前の理論と理想だけを信じて、ただ一歩ずつ積み上げてきた。
「この機体が完成すれば、世界は変わる。
……いや、別にそんな大それたことじゃなくてもいい。
たった一人でも、この空を“恐れずに”飛べるようになれば、それでいいんだ」
彼の声には派手な野望も、高揚もなかった。
ただ、空を想う者の“静かな信念”があった。
「ゼン。お前は……飛ぶのが怖いか?」
「……さぁな。ただ、広い空の向こうに“まだ見たことのない味”があるなら……それは乗ってみる価値がある」
イグザスはふっと笑った。
「……まるで一端の料理人のような口ぶりだな。見た目は変わってないように見えても、すっかり変わっちまったようだな、お前は」
「…ほっとけ」
この機体――“Ex-XIV”。
それは、かつて帝国が積み上げた飛行の歴史とは異なる、新たな空への扉だった。
そして、イグザスは今もその鍵をここで削り出している。
ある意味安心ができた、…と言うべきだろうか。
まあ、飛空挺を触っていない彼を想像することのほうが、難しい気もするが。




