第61話 空の果てで再び
◇
俺とカイは魔導炉施設の奥へと足を踏み入れていた。
配線の先を辿るように、岩壁を削って造られた細い通路を進む。
古びた鉄製の通気管が天井を這い、時折、水滴が足元に落ちてくる。気温は低く、空気には鉄と油の匂いが微かに混じっていた。
カイが無言で肩越しに目配せする。
警戒は解かず、だが、敵意は感じていない――そんな表情だった。
やがて通路の先に、淡い光が漏れる一角が現れた。
そこは、岩窟を広げたような円形の空間だった。
中心には一台の小型飛空挺の原型。だが、それは未完成のまま骨組みと化している。
半分だけ組み上げられた船体の脇に、幾つもの作業台と魔導制御盤が並んでいた。
壁面には膨大な魔導図面と手書きの数式が貼り付けられ、まるで“知の祭壇”のような異様な光景を形作っていた。
金属板を打ち付けたような床は、歩くたびに微かな反響を返してくる。足音は乾いていて、空洞に吸い込まれるようだった。
円形の空間は、どこか神殿のような静けさを湛えていた。だが、そこに祀られているのは神ではない。技術、理論、そして、狂気すれすれの執念――そんな“人の知”そのものだった。
部屋の中央に据えられた未完成の飛空挺は、まるで空を忘れた竜の骨格のように、静かに佇んでいた。フレームは軽量魔導合金。接合部には風力共鳴用のエネルギー節点が組み込まれており、既存の飛空挺の設計とは一線を画す構造だ。
船体の脇には、数段に分かれた作業台が積み上げられ、それぞれに魔導測定器、分解された推進管、結晶媒体のサンプルが無造作に置かれている。工具はすべて手入れされており、整然と“使われたままの状態”を保っていた。
壁一面には魔導図面が貼られている。紙の端は時間の経過で黄ばみ、端がめくれ上がっているが、そのひとつひとつにびっしりと手書きの数式が書き込まれていた。風の流速と魔力圧との干渉値、対流層における乱流吸収計算、空力浮遊理論に関する仮説メモ。あまりに膨大で、一瞬視線を泳がせるだけでも頭が痛くなるほどだった。
棚には古い設計資料と魔導論文が積み上げられ、魔法石の欠片や壊れかけの試作部品がガラス瓶に詰められている。ある棚の一角には、子供の落書きのような簡易スケッチがあり、「風に笑われない船」とだけ、かすれた文字で記されていた。
天井からは、魔力管を通すためのパイプが何本も垂れ下がっている。幾つかは断線して火花を散らし、空間の静寂に不規則な音を混ぜていた。だが、それさえもここでは自然の一部のように感じられる。
空気は冷たく、機械油と焦げた魔導石の匂いがわずかに鼻をつく。だが、それは嫌な臭いではなかった。どこか懐かしく、かつてゼンも戦場の最前線で嗅いだ、“命を繋ぐ現場の空気”そのものだった。
カイが肩越しに息を吐く。その視線の先には、半ば解体された古い飛行装備が並んでいた。帝国時代の識別マークが残っている。これは――捨てられたものではない。保存され、今なお何かの“可能性”としてここに置かれているのだ。
ゼンは無意識に歩を進めた。足元の床がわずかに軋む。何かが近づいている気配がする。何も言わなくても、空間そのものが“彼”の存在を指し示していた。
そして――
その中心に、彼はいた。
「……随分と、静かなところまで来たものだな」
声は、背後からだった。
振り返れば、そこには一人の男が立っていた。
白衣。灰色の巻きローブ。肩には簡素な魔導工具箱。
痩せてはいたが、背筋は伸びている。眼鏡の奥の瞳はかつてと変わらず冷静で、だがその奥に確かな熱を秘めていた。
イグザス・ベルネロ――
帝国が誇った“空の鬼才”は、確かにそこにいた。
「……生きていたか」
俺の声は、思いのほか穏やかだった。
「こちらの台詞だ、ゼン・アルヴァリード。お前ほどの人間が、こんな錆びれた場所に来るとは夢にも思わなかったよ」
彼はそう言って、少しだけ笑った。
不器用な笑みだった。無理に表情を作ったような、不慣れな人間の笑み。
だが、そこには確かな再会の喜びがあった。
「この谷に、まだ人が来るとは思っていなかった。
特に、お前のような過去を持つ人間がな」
「……俺も思わなかったさ。まさか、まだここで研究を続けてるとはな」
「飛空挺をいじることしか能がないんでな。それに……」
イグザスは、視線を飛空挺の骨組みに移す。
「この船は、“最後の実験機”だ。未完の飛行理論を完成させるための――俺にとっての、最終稿だ」
その言葉に、俺も無言で頷いた。
帝国が戦のために空を使おうとしたあの時代。
彼だけが、空を“誰のものでもない場所”として守ろうとしていた。
「……で。今日は何の用だ?」
イグザスは整然とした動きで机の上の水差しから湯を沸かし始めた。
会話より先に茶の準備をするあたり、昔とまるで変わらない。
俺はイグザスの言葉に一度だけ頷くと、そっとカイの方を振り返った。
目が合う。無言のまま、わずかに顎をしゃくる。
カイは眉をひとつ上げると、無言で前へ一歩出た。そして真っ直ぐにイグザスの前へ進み、背筋を伸ばしたまま、騎士のような礼を取った。
「初めまして。私はカイ=ルーミナ。空賊団〈風喰い〉の船長であり飛行士だ。今日は、依頼があってかここにきた」
イグザスはその名に眉を潜める。だが、それは敵意ではなかった。思案と観察、そして、いつもの癖――ゼンが知っている、情報を頭の中で整理するときの仕草だ。
「ルーミナ……空賊か。時代は変わったな。で、依頼というのは?」
「私の飛空挺についてだ。個人所有の小型艇で、昔からの相棒なんだが…」
「……ほう?」
イグザスはぼそりと呟きつつ、視線を斜めに逸らした。思考を巡らせているのが、表情のわずかな筋肉の動きで分かる。
「現在の運用だと気流干渉の乱れが顕著で、特に高層飛行中の推進安定性に課題がある。魔導管の伝導比も時代遅れで、現在の空域制御には適さない。だからこそ、改修をお願いしたいんだ」
カイは一歩も引かず、真摯に言葉を重ねた。
「私は、もっと“空と対話できる機体”が欲しい。空を操るんじゃない。空に寄り添い、空に許される機体を」
イグザスの指先が、湯の入った急須の縁で止まった。
「……ほう。ずいぶんと、俺の好みに近い話をするじゃないか」
「…引き受けてくれるのか?」
「推薦者がゼン・アルヴァリードなら、それなりの覚悟はあると見ていい。だが、ひとつ確認する」
イグザスはカイを真っ直ぐ見据えた。その目には、かつて帝国技術局の幹部会ですら沈黙させた“問いの圧”が宿っていた。
「なぜ、空賊なんかを?」
沈黙が落ちた。
カイはほんの一瞬だけ戸惑ったように目を伏せたが、すぐに顔を上げ、凛とした声で答えた。
「生きていると感じられるからた。風を切り、雲を割り、空の曲線を描くことで――私は“ここにいる”と思える」
イグザスは、湯の温度を測るように湯呑みを片手で回しながら、もう片方の手で眼鏡の位置を直す。そして無言のまま、じっとカイの表情を観察していた。
その目には技術者としての鋭さと、飛行士としての本質を見極めようとする探究の眼差しがあった。
「――なるほど」
ぽつりと、そう呟いた。
だがそれは返答ではなく、己の中で何かの判断が下された合図だった。イグザスは視線を少しだけ逸らし、背後にそびえる未完成の飛空挺を振り返る。
「“空に許される機体”か……。ずいぶんと詩的なことを言う」
その口調に皮肉はなかった。むしろ、どこか懐かしむような響きが混じっていた。
「空は本来、誰の味方でもない。ただ、そこに在るだけだ。なのに人間は空を制御しようとし、ねじ伏せようとする。空の風に逆らって飛ぼうとする――それが、かつての帝国の空だった」
彼の言葉は淡々としているが、その奥にある感情は静かに波打っていた。
「だがな、俺はずっと思っていた。“もし空が感情を持っていたら、人間に何を思うのか”と」
イグザスはカイの目を真っ直ぐに見つめた。その視線は鋭くもあり、同時に深い共感を宿していた。
「カイ、と言ったか?お前の飛空挺に対する感情には、少なからず空を“信じようとする”意思がある。それは、飛行士として一番大事なことだ。風を信じ、揚力を信じ、空の静寂を信じる――その先にある飛行を、俺も追い続けてきた」
カイは真剣な面持ちで、ただ頷いた。
その時、イグザスはふっと肩の力を抜くようにため息をつき、持っていた湯呑みをゆっくりと机の上に置いた。
「……ひとまず、詳しい仕様を見せてもらおう。話はそれからだ」
一瞬、カイの目が見開かれる。だが、すぐに表情を引き締め、真っ直ぐに頭を下げた。
「感謝する。私の船は――私そのものだ。どうか頼む」
イグザスは黙って頷き、再び眼鏡を直すと静かに立ち上がった。
ゼンは一歩引いて、カイとイグザスが向かい合う姿を見守った。
確かに、彼らは初対面だ。
だが、その間にはすでに“空を知る者同士”の共鳴が生まれていた。
火花ではない。静かな共振。
それは言葉よりも深く、技術よりも信頼を伴う絆だった。
俺は安堵の息を吐き、再び湯飲みに手を伸ばした。
これでいい。話は繋がった。
あとは――茶の香りに身を委ねるだけだ。
「……変わったな」
「当然だ。俺はもう帝国の技術士じゃない。誰かのために働く義務はない。
だが……」
イグザスは、湯を注ぎながら口元だけで言った。
「“面白い空”なら、話は別だ」
その瞬間、彼の瞳の奥にあった“熱”が一層色濃くなった。
「どのみちお前がわざわざここまで訪れたんだ。昔のよしみだからと言うわけでもないが、
そこに新しい飛行があるなら――俺は、手を貸そう」
「……変わらんな、やっぱり」
「そう言うお前もな。風の噂で聞いたぞ。確か食堂を開いてるんだって?」
「……なんでお前まで知ってるんだよ」
「ハハハ。ここにいても、案外外の情報は流れてくるもんだ。昔とは大きく環境が変わったが、こう見えてもまだ一応は“帝国の技師”なのでな」
「…そうか」
俺たちは、静かに茶をすすった。
谷底の静寂に包まれながら、旧友との再会を一口の湯に込めて。
その沈黙は十年分の対話のように、心地よく染み渡っていった。




