第57話 魔脈を撃ち抜く
——第二閉環。
第一閉環が、魔力の“領域封鎖”による広域制圧だったのに対し、こちらは一点集中の“浸透型”戦術。
それはまるで、冷たく鋭い針のように、対象の魔脈に突き刺さり、内部から流れを“止める”ための構式だった。
ただし、それを打ち込むには、ゼン自身が敵の“至近”まで踏み込む必要がある。
敵との距離、およそ二十五メルト。
通常ならば“突撃するには遠く”、“術を放つには近い”絶妙な距離。
だが――ゼンの戦闘体系は、そもそも「射程」という概念が存在しない。
彼の術は、魔力という“流れ”そのものを感知し、その接点を“叩く”ことで成立する。
問題はその“叩ける位置”にまでどうやって接続を確保するか、ということだ。
「“断流構式・灰式:第二閉環”は、直撃が前提。物理的に触れる距離まで行く必要がある」
霧の向こうに見える統率個体の動きを見据えながら、静かに息を吸う。
——そこでほんのわずかに、フリューゲルの足元の“風”が変わった。
「……魔脈が動いたか」
魔力というのは、そもそも体内の魔脈という“循環経路”を通じて流れ、展開される。
それは肉体と精神を結ぶ“血管”であり、意思と能力の通り道だ。
この世界において、魔力保有者が力を行使するとは、すなわちその魔脈を“開放”することと同義である。
術式を構築する。
異能を発動する。
あるいは、単なる筋力を強化するだけでも。
全ては、魔脈の動きによって成立している。
そしてそれは、当然、魔獣にも通じる話だ。
特にフリューゲルのような“魔力増幅型”の魔獣は、その魔脈が極めて発達しており、単純な魔法だけでなく、跳躍、羽ばたき、視認妨害など、あらゆる行動が“魔脈”に依存している。
「そこに付け入る」
ゼンの足元に、淡く灰色の魔力波が広がった。
だがそれは、通常の術者が放つような“外向きの力”ではない。
逆だ。
それはあくまで、魔脈の“受信装置”として展開されたもの。
魔力を放つのではなく――受け取るための構式。
“ゼロ”の特異点にして、魔力回路の裏側。
ゼンの本領たる“オールノッキング”の根幹にある、受動干渉炉が、静かに作動を始めた。
「こっちが放たない以上、向こうも“待ち”を続けるつもりか……」
時間だけが過ぎていく。
一秒ごとに、空間の“重み”が増していくような圧迫感。
姿勢を低くしたままの統率個体の足元がさらに低く沈む。
空嚢核が脈動する振音。それが地面に触れるや否や、巨大な体躯を支える脚の筋繊維が膨張する。
空嚢核の圧縮解放による、超短距離の滑空。
瞬く間に霧の膜が動き、重力の波が円形状に跳ね上がる。
それは「飛ぶ」という形容に相応しいだろう。
溜め込んだ力の流れを下半身に集中させた跳躍は、地面から飛び出すだけの強い反発力を持ちながら、開いた距離を一気に縮めるだけの直線運動を支えている。
空気を切り裂くのではなく、“空間そのものを引き寄せる”ような異様な加速。
滑空軌道は一直線だが、それは決して無策の突撃ではない。
わずかに左右に振動するような揺れ――それが意味するのは、空中での視認妨害と、背後の残存個体による“動線誘導”。
(……後続がいるか)
ゼンの脳裏に、瞬時に戦術構図が浮かぶ。
統率個体が開いた正面ルートは“陽動”。
本命は、おそらく左右どちらかの角度から迫る“二撃目”。
空嚢共鳴音は今も低く響き続けており、その波長に反応する残存個体が、別角度から戦術補助に回っていることは明白だった。
「群れの動き、まだ残ってるな……」
カイの声が小さく届く。
ゼンは答えない。
だが、その全身の筋繊維は、すでに“全方向の干渉予測”に入っていた。
統率個体が持つのは、単なる知性ではない。
それはまるで群体構造の“AI”――高度な戦術中枢であり、なおかつ自らが最前線に立つ“制圧型司令塔”だ。
実際、空中で繰り出された爪撃は、ゼンの一点を正確に捉えつつ、着地後に“旋回滑空”へと移行する軌道を前提としていた。
もしゼンがこれを避ければ、その回避動作に合わせて背後から第二波の滑空個体が襲いかかる算段。
本来なら、完璧な連携だった。
「……来るぞ」
ゼンの視線が揺れることはない。
むしろ、敵の行動が“可視化されている”という確信があった。
統率個体は確かに頭がいい。
空中制御も、威圧感も、連携も、かつて帝国で相対してきたA級魔獣に引けを取らない。
しかし、それでも――
(読める。こいつの“回路”は、完璧すぎる)
どの行動にも、必ず“魔力の制御点”が存在する。
フリューゲルの戦術は、無駄を極限まで削ぎ落とした構造体のようなものだ。
だからこそ、その“中継点”――動作と動作のつなぎ目に、確実な“回路の継ぎ目”がある。
そこに「点」を叩き込めばいい。
その一瞬を、ゼンは“迎えに行った”。
空中から襲いかかる統率個体の滑空線に対し、あえて正面から踏み出す。
跳躍ではない。助走でもない。ただの一歩。だが、その一歩がすべての軸を変えた。
敵と自身の間に結ばれた間合いの中の“接点”が揺れる。
ゼンの身体が空間内の重力と拮抗するかのように、地面の“内側”へと吸い込まれていく。
【共鳴系雷式:雷連共振】。
雷霊素を用いて魔力の干渉層そのものに“位相の揺らぎ”を与え、周囲の魔力構造に対して“ごく微細なズレ”を継続的に与え続ける空間干渉術式。
敵がカイの術式領域内に侵入した瞬間、体内の魔力経路と、空間に作用する霊素の“周波数のズレ”が発生した。
それはまるで目の前の地面、——そこに立つゼンの姿が「一瞬だけ沈んだ」かのような感覚だった。
空間がわずかに揺れる。視界の解像度が乱れる。
そして、距離感・速度感・重心制御が、ほんの“数ミリ秒”単位で錯覚を起こす。
それが、今まさに統率個体の跳躍線上で起きた。
直線的に滑空するはずだった肉体の軌道が、わずかに斜めに逸れた。
——ほんの数センチ。
だがそのズレは、最初の攻撃を与えるための距離感に重大なエラーを生じさせた。
空中での急制動は不可能。
加速に乗ったまま体勢を変え、捻るように体を反転させた空中で、統率個体の爪が閃く。
動作の繋ぎ目で反転しながらの横薙ぎ。その軌道は半月を描き、切っ先の圧だけで眼前の空気を歪ませる。剥き出しの鋼鉄よりも硬い骨質の刃は、擦過しただけで人体を断つに足る――
その一撃は届かなかった。
ゼンの姿が霧の中でかすかに揺らぎ、そして“消えた”。
否、消えたのではない。“そのまま、そこにいた”のだ。
鋭尾牙フリューゲルの統率個体が、自らの爪が空を切ったことを感知した瞬間、脳内に錯覚めいた混乱が走る。
この距離、この速度、そしてこの精度で繰り出した一撃が、命中しないはずがない――
だが、確かに手応えはなかった。
それは、“感覚”を欺くための空間設計だった。
【雷連共振】――この術式が真に発揮するのは、単なる魔力妨害や術式強化ではない。
この共鳴系雷式の特異性は、「敵の魔力と空間に織りなす“周波数”に対して、わずか数Hz単位の微細な干渉波を断続的に送り続ける」という点にある。
敵が術式領域に侵入した瞬間、彼らの体内に存在する“魔脈の流れ”――それが霊素と空間の相互反応によって同調・増幅を受ける。
しかし、そこに“ズレ”を与えるのが、雷霊素特有の振動ノイズだ。
このノイズは「術者本人」には作用せず、外部から進入した魔力構造体にのみ作用するように設計されている。
この仕組みにより、術式の中心であるゼンは完全な“ノイズ無害領域”を保ちつつ、術域内に入った敵のみが“認知の錯誤”を引き起こすのだ。
たとえば、敵の体内で魔力が跳躍に使われようとした瞬間、それに共鳴する霊素波がわずかに“遅延”する。
これにより、神経反射と筋力動作の連動が微妙に狂う。
加えて、重心制御に用いられる“空間座標認識”も揺さぶられ、意図した座標への攻撃動作に誤差が生じる。
その結果、ゼンの位置が“ずれたように見える”のではなく――
ゼン“以外”のすべてが微妙に揺れ動くように見えるという、極限の違和感が生じるのだ。
この違和感こそが、“重力に潜む擬似幻影”。
対象の攻撃が命中するタイミングだけをずらすことで、“動かずに避ける”という戦術が成立する。
しかも、ゼンの立ち位置は空間の対流そのものと“重ね合わせ”られている。
風の軸。霧の厚み。魔力流の濃度。雷霊素の分布。
それら全てが、“ゼンの位置”を中心に収束するよう構成されており、敵から見たゼンの位置情報は常に“波打つように曖昧”に映る。
それはまるで“観測できるのに捉えられない”という、幻覚に似た物理現象。
ゼンの肉体は確かにそこにある。
だが、敵の視覚・感覚・魔力座標情報は、常にその軸からわずかに外れるように誘導されている。
そしてその“内側”に踏み込んだゼンは、瞬時に敵の死角に回り込んだ。
「……そこだ」
ゼンは視界の外、ほんのわずかに斜め上――
あらゆる重力線、風流、反射、滑空支援の角度を逆算した“一点”。
そこは、統率個体が自らの機動を最も制御しにくくなる“重心転移の過渡点”だった。
魔獣はその一瞬、思考と体幹の同期にほんのわずかな“遅れ”を見せる。
ゼンの踏み込みは、そのわずか0.3秒の“空白”にすべてを懸けていた。
空中で再度滑空に転じようとしたフリューゲルの身体が、再び回転軌道に入る前に――
ゼンは、腕を伸ばした。
その指先は、ちょうど統率個体の肩口――翼の基部と、跳躍の反射神経が交差する“魔脈の接点”に届いた。
そして、
「断流構式・灰式——第二閉環、穿通点接触」
淡々と、そう告げたその瞬間。
《ノック》が走る。
まるで心臓を内側から叩かれたかのような“内爆”。
対象の体内に張り巡らされた魔力経路の“交差点”――そこに、微細な“詰まり”が発生する。
魔力が流れず、神経信号が遮断され、筋繊維が反応を止める。
統率個体の身体が、空中で停止した。
滑空の加速度が突如として失われ、重力に押し戻される。
ガクン、と空中で体勢を崩したフリューゲルの巨体は、制御不能のまま落下に転じた。
風を切る軌道は直線から急角度で沈み、霧を裂いて地面へと叩きつけられる。
――ドンッ!
岩盤が砕け、湿った地表が爆ぜるように弾けた。
だが、その衝撃が響くよりも早く、ゼンはすでに近くにいた別の個体へと視線を移していた。
「次……」
視認すらできぬ死角に迫っていた残存個体が、統率個体の落下と同時に滑空軌道へと移行していた。
この群れの思考は、まさに“一つ”。
統率個体の陥落は、そのまま全体行動の再構築へと移行し、次なる手を“すでに打っている”。
視線を切らずに、ゼンは片足を滑らせる。
接地面の摩擦を最小に保ち、腰の位置をわずかに落とす――“対接近対応”の重心制御。
霧の向こう、カイの雷霊素が微かに帯電音を立てた。




