第53話 巨大な地下工房
俺たちはいったん装置の前を離れ、施設全体の構造を見直すことにした。
「……ここ、ただの魔導炉跡じゃないな」
カイの言葉に、俺も無言で頷く。
単なる炉心施設のはずが、内部には想定以上に複雑な区画が広がっていた。これはもはや“実験場”の規模を超えている。あるいは、研究者たちが後から改装・拡張した結果かもしれない。
最深部の炉室を中心として、放射状に広がる通路と階層構造。整備された通気ダクト、重ねられた配管網、そして独立した制御室の数々。すべてが明確な意図をもって配置されていた。
「多重構造か……。想像以上の“地下工房”だな。しかも相当な年月をかけてる」
周囲を確認するたびに、それが分かる。
岩盤を直接削って通した電送導管、照明魔石の補助板、隠し通路らしきスロットル機構。古い設計と新しい加工跡が混在しており、整備者の“孤独な継続性”がにじんでいた。
通路の一角には、錆びかけた案内板があった。掠れた帝国文字で「試験棟B」――つまり、ここは複数の試験区画を持つ実験複合施設だったのだ。
「こっちに作業用の中継室がある。ベンチと工具が並んでる。……まだ、使われてるな」
カイが扉の奥を覗き込み、呟く。
床には埃の少ない歩行痕。隅には携帯用のランプ、端にはメモの束と使用済みの魔力触媒。机の上には乾きかけたインクの瓶が転がっていた。
「やっぱり、いるよな。ここに“最近まで誰かがいた”のは間違いない」
そして、それは“イグザス・ベルネロ”という名前以外に考えられなかった。
この空間は、彼が生きている証そのものだ。
整頓された棚、用途別にまとめられた素材群、手作業で修繕された魔導配線――どれをとっても、その人物が“今もここで生きて、考え、手を動かしている”ことを示していた。
ふと、奥の壁面に取り付けられた設計ボードに目が留まった。
そこには膨大な数式と、空力計算、推進理論のフローチャートが書き込まれている。特筆すべきはその中央に描かれた一枚の設計草案だった。
「……これ、飛行器か?」
翼を持たない、流線型の胴体。前方に設けられた複層空力制御板。魔力圧縮噴射口と思しき構造。従来の飛空艇とは根本的に異なるフォルム――それは、“新しい空の道具”として構想されているものだった。
「おいゼン。これ……見覚えあるか?」
カイが指さしたのは、設計図の下に貼られたメモだ。
『第四流線構造案。安定飛行実験:未了。反転時の空力バースト補正要。データ統合は次回再試算』
文字は整然としていたが、ところどころに走り書きのような修正が入り、何度も推敲された痕跡があった。
そして、その下の一行――
『単独試験予定日:今月二十日。風鏡山・第五斜面滑空域』
「……試験予定日?」
俺は思わず息を呑んだ。
周囲を見回しながら、俺たちは奥の通路へと足を踏み入れた。
施設内は単なる魔導炉の延長ではなく――明らかに“誰かの意志”で改装され続けてきた形跡があった。床面の補強、配管の分岐、新旧が混在した制御盤の増設。そして何より、通路の構造そのものに明確な「流れ」があった。
意図的に空気が巡るよう、微細な傾斜と送風孔が設計されている。中央炉心から放射状に広がる通路は、あらゆる機能区画へと繋がっていた。まるでこの地下施設全体が一つの“機械生命体”であるかのように、有機的かつ論理的に組み立てられていた。
通路を進んだ先には円形の作業ホールが広がっていた。半地下構造のドーム状の部屋。天井には開閉式の通風口が設けられており、何本もの吊り下げ型照明が魔石の淡い光を放っている。
部屋の中央には、使用済みの実験機材と試験用の小型模型が積まれていた。
「……これ、飛行機器のモックアップか?」
カイが模型の一つを持ち上げる。軽量化された素材、精密なバランス設計、空力の流れを可視化するための魔素流線計。細部にいたるまで、ただの試作ではない。これは、実戦運用を見据えた「飛行器設計群」だ。
「設計思想が一貫してるな。極限まで“推進効率”を追ってる。空を“支配”するというより、“適応”するための構造か……」
俺は思わず唸る。これは軍用設計ではない。征服のための道具ではなく、空との“共生”を目指す思想。
棚の一つには、埃をかぶったままのノートが置かれていた。開いてみると、中には走り書きの試算と、「風読みの調整式」「魔力抵抗の低減処理」「推力逆圧の偏向理論」といった見出しが並ぶ。
そして、その一番下に――
《空を飛ぶために必要なのは、力じゃない。“応答”だ》
その一文に、俺は言葉を失った。
応答。
空と機体の“会話”。
無理やり飛ぶのではなく、空の流れに寄り添い、調和し、滑るように進む術。
これは――かつて戦場で、彼が俺に言った言葉そのものだった。
「空を征するな。空と、在れ」
今、その意味が痛いほど分かる。
この場所で、彼は今も“空を飛ぶ”という答えを探し続けている。孤独に、静かに、だが確かに。
その思考の痕跡に触れたことで、俺はようやく理解した。
ここは、廃墟ではない。
研究所でもない。
これは、“彼自身の心の延長”――風と技術に向き合い続けた男の、もう一つの“翼”だった。
だからこそ、俺たちは進む。
この奥に、彼が“残しているはずの未来”がある。
カイも同じものを感じ取っていたのだろう。
「ゼン……この場所、ほんとにあいつの“巣”だな」
「……ああ。そうだな」
その言葉を残して、俺たちは再び歩き出した。
崩れた通路を越えた先は、ほとんど洞窟に近かった。
試験場の最奥、地下構造物の一部と思われる区画。
かつては魔導流体の循環を担っていた配管が天井から垂れ下がり、足元の床も不規則な段差と苔に覆われていた。
ゼンは足を止め、周囲の“風”を読む。
「……空気の流れが変わったな。どこかで開けた空間がある」
カイが小声で頷く。
「だな。音の反響が複雑だ。けっこう入り組んでるみたいだぞ」
「注意して進むぞ。ここには何かが“いる”」
視界の先には、明らかにこれまでの“施設”とは異なる空間が広がっていた。
そこは、まるで自然の地殻が口を開いたような巨大な空洞だった。
天井は高く、ところどころ崩れた岩盤が剥き出しになっており、人工的な支柱や補強材の存在はほとんど見られない。代わりに岩と岩の隙間から霧がゆっくりと流れ込み、青白い光を帯びて宙を漂っていた。
「……地下洞か?」
カイがぽつりと呟く。
だが、それにしては不自然だった。
この空洞には、どこか“異様な秩序”があった。自然にできた空間のはずが、まるで誰かが意図的に掘削し、調整したかのような幾何学的な広がりを見せている。地面は傾斜を描きながら緩やかに沈み込み、中心には大きな“竪穴”のような深みがあった。
そこから立ち上る冷気と霧が、空間全体を包み込んでいる。
「人工と自然の境界が……曖昧すぎるな」
俺は思わず呟く。
天井の裂け目からはわずかに地上の光が射し込み、濡れた岩肌に反射して微光を放っていた。だが、その光はどこか重々しく、空気を沈めるような静けさをも帯びていた。
そして何より、俺の足元に伝わる違和感。
“地面が、鳴っている”。
鼓動のように、規則的にわずかな振動がある。それはかつて魔導炉の稼働時に感じた“動力の脈動”に酷似していた。だが、あのときよりも遥かに原始的で、野性を含んだ律動だった。
「これ……どう見てもただの自然空洞じゃねぇな」
カイの声にも警戒がにじむ。
「たぶん……“自然の中に埋められた何か”だ」
俺たちはゆっくりと歩を進める。
空洞の壁面には、微かに削られたような痕跡が見えた。爪か、工具か、あるいは……もっと別の何か。
地面の一部には焦げ跡のような痕もあった。魔導噴射か、何かの高熱。過去にこの場所で“試験”が行われていた可能性は十分ある。
「ここも、イグザスの設計か?」
「いや……これはやつの手じゃない。少なくとも、彼の“整った思想”じゃない。もっと……原始的で、生々しい」
通路から続く足場の先には、急勾配の斜面があった。
その下――深い霧に沈む空間が、ぼんやりと光っていた。
「……下に、何かがあるな」
カイも同時に気づいたようで、背中の武器に軽く手を置く。
「空気の流れも違う。下から、何かが“登ってきてる”感じがする」
俺たちは互いに頷き、斜面をゆっくりと降りていった。
足元の岩は濡れて滑りやすく、ところどころに露出した鉱石が魔力を微かに帯びて光っている。地下にこんな“自然の魔導鉱脈”が走っているとは、この山の深さと複雑さを改めて思い知らされる。
やがて、斜面を降りきった俺たちは、その空間の“中央”に立っていた。
俺たちが立ったその場所は、霧と岩に満ちた静寂の深淵だった。
空洞の中心に向かって、幾重にも同心円状に削られたような段差が広がっており、まるで“誰かが降りてくるのを迎えるため”の構造のようにも見えた。人工的な形状ではあるが、石材や補強具の類は見当たらず、すべて自然石が彫られて形作られていた。
「……これ、本当に自然のままか?」
ゼンの呟きに、カイも同じ違和感を感じ取っていたようだ。
「いや、ありえねぇ。こんなに整った段差、自然にはできねぇ。誰かがやってる……けど、なんでだ?」
段差の途中には、苔に覆われた石柱のようなものがぽつぽつと突き出していた。そこには摩耗しきった古代文字のような刻印が掘られており、ゼンが魔力感知の術式で確認すると、反応は微弱ながら“生きている”魔素の残滓が微かに確認できた。
「これは……封印系の文様だな。古いが、しっかりと残っている」
「封印? ってことは、何かを閉じ込めた場所か?」
カイの問いに、ゼンは曖昧に首を振る。
「いや、封印……というより、制御だ。動力か……それとも、“存在”そのものを」
中央部の“竪穴”のような空間は、底が見えなかった。霧と岩の影に沈み、まるで“覗き込んだ者を呑み込む”ような気配を放っている。ゼンは目を細め、さらに数歩だけ近づいていった。
その瞬間だった。
「……空気の層が変わった」
ゼンの声は、低く押し殺されていた。
空気の層が変わる。――それは、“何かがそこにいる”ということだ。通常の空気の流れでは説明できない、“存在によって歪められた圧”が、この谷底に渦巻いていた。
「カイ。念のため、結界準備しておけ。小型でいい。五秒維持できれば十分だ」
「……了解」
カイは真顔で頷き、背中の魔導バックパックから小型の魔導結界装置を取り出し、腰に固定した。
視線を上げた先――岩壁に沿って、巨大な鋼鉄のアーチが崩れかけて露出していた。明らかに帝国時代の建造物であり、その中心部には扉のような枠組みが残されていた。
ゼンが近づき、手をかざすと、扉の縁に刻まれた認証術式が、ほんのわずかに光を放った。
「まだ、生きてるのか……」
そして――
その“扉”の下部、わずかに開いた隙間から、微かに魔力の風が流れ出していた。
「この向こうに……何かがある」
ゼンの声に、カイは無言で頷いた。
扉は重く、手動で動かせる代物ではなかったが、隙間から風が漏れている以上、どこかに空間の連続があるということだ。ゼンはその場に膝をつき、隙間に指を差し込みながら魔力を流し込む。
パキィン――という小さな音と共に、扉が震えた。
そのとき、遠くで“金属が擦れるような音”が響いた。
……いや、金属だけではない。
“何か”が這うような、低く湿った音も混じっていた。
「……今の、聞こえたか?」
「……ああ。いたな、何かが」
ゼンは立ち上がり、扉の前に向き直る。
「ここから先、何が出てきても不思議じゃない。カイ、全方位に意識を張ってくれ」
「了解。展開半径10メルト。感知系統、最大値で張る」
カイは即座に行動に移り、魔導銃の側面に装備された補助センサーを起動。淡く光る魔力球が周囲に展開し、周辺の“異常値”をリアルタイムでフィードバックし始めた。
そして――その時だった。
どこかで“空気が逆流する”音がした。
「……来るぞ」
ゼンの足がぴたりと止まり、鋭く空間を睨みつける。
霧と湿気に満ちた谷底の遺構――その空気が、微かに変わったのを彼は感じ取っていた。
「……来るぞ」
その一言に、カイが背中の魔導銃へ手を伸ばす。
音はなかった。
いや、“あまりにも自然すぎて”、気配として認識されなかった。
次の瞬間、通路上の梁から――“それ”は落ちてきた。
ギィ……ギイイイ……
粘りつくような、しかし乾いた音。
暗闇の中で青白く光る四肢が床を滑り、跳ねる。
それは――まるで風の刃のように鋭利な、異形の猿獣だった。
「……〈鋭尾牙フリューゲル〉か……!」
ゼンが静かに、しかし確信を持って名を口にする。
風鏡山系の中でも希少な魔獣種。分類は“獣型”だが、跳躍力と集団行動によって“飛行型”に近い戦術的機動力を発揮する。
討伐レベルは21。帝国基準で言えば“小規模集落の緊急封鎖対象”に該当する、極めて危険な存在だ。
「複数の足音……群れだね」
カイが即座に周囲をスキャンする。
――右、左、背後、上方。
霧と岩陰の中、同じような個体が続々と姿を現す。
体長は2メルト弱。青灰色の体毛に包まれ、腹部には魔素の鼓動を宿した“空嚢核”が脈打っている。
「……やっかいなやつらが、巣にしてたもんだ」
ゼンの目が鋭くなる。
〈鋭尾牙フリューゲル〉――
魔素を蓄積する“副肺”とでも言うべき空嚢を持ち、圧縮した空気を瞬時に噴出して跳躍する。
その運動性能は“飛行”に匹敵し、戦闘では高所からの一撃離脱、連携突進、攪乱による視界妨害を得意とする。
さらに――この魔獣の最大の特徴は“音”だ。
彼らは常に低周波を用いた超音波コミュニケーションを行っており、群れの個体同士で連携を取り合って行動する。
人間の可聴域ではほとんど聞き取れないため、「気づいた時には囲まれている」ことが多い。
ゼンは岩壁に背を当てながら、囁くように言った。
「注意しろ、こいつらは“音で座標を共有している”。下手に動くと囲まれるぞ」
「うわぁ……戦術型か……。しかも集団で動くってことは、きっと統率個体もいるね」
カイが手元の魔導スキャナを展開し、魔力反応を確認する。
「……魔力の同期波形、一体だけ違う。あれだ、上の梁の一番奥」
「見えてる。あいつが指揮してる」
統率個体――おそらくは“狩猟隊長”に相当する個体だろう。
目が金属のように鈍く輝き、他の個体よりも空嚢核が大型化している。
「……あれを落とせば、群れの統率は崩れる」
ゼンの声は冷静だったが、その目には戦士としての殺気が灯っていた。
フリューゲルの一体が動く。跳躍。岩面を蹴って、別の通路へ移動。
それに連動するように、他の個体が絶妙なタイミングで配置を変える。
まるで見えない指揮官の指示に従う軍隊のように、無音のまま包囲が狭まっていく。
「ゼン、動いたらまずいぞ。今、視界に入ってない個体があと三……いや、五体はいる」
「分かってる。先に狙うべきは“音”の拠点だ。あの空嚢核……」
彼の手が、剣の柄に添えられる。
「破裂させれば、“座標通信”が破綻する」
「やる気満々じゃん……!」
息を呑む緊張。
霧の中で、十数体の魔獣が静かに構えを取る。
空気がピンと張り詰めている。
だが、ゼンはまだ動かない。
相手が群れであり統率されている以上――最初の一撃で戦局を決定づけなければ、勝機は消える。
だからこそ彼は今、空間を読む。
空気の圧力、流れ、湿度、音の反響――
すべてが“立体的な情報”として、ゼンの感覚に流れ込んでいた。
その「距離」が、彼に告げていた。
――狙え。左上、梁の影。跳躍まで、あと3秒。
「……カイ、今から5秒後、俺が“空間を断つ”。その瞬間を狙って前方に魔導弾を展開しろ」
「了解。出力範囲は?」
「拡散型だ」
「オーケー。任せとけ!」
カイが魔導回路を起動する。
ゼンの剣が、ゆっくりと鞘から滑り出す。
霧の奥、風の鳴る音が――鋭くなる。
〈鋭尾牙フリューゲル〉の群れが、跳躍の体勢を取り始めた。
ゼンは静かに目を閉じる。
――空間を断つ、その一閃のために。




