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第52話 帝国技術局 第七渓谷・試験炉基底区画



霧を抜けた先に、それは横たわっていた。


岩壁の懐に潜り込むように、複雑な構造体が入り組んでいる。

巨大なアーチフレーム、朽ちかけた昇降路、苔と湿気に蝕まれた鋼鉄の梁。

すべてが、風に溶けるように静かだった。


だが、確かにそこには“人の手”があった痕跡が残っている。

帝国式の鋲打ち鋼板。配管の形状。魔導圧送管の記号標示。

そして何より、足元の地面がわずかに隆起していた。

“それ”の存在を覆い隠すように、自然が積み重ねられた跡――


「……ここが、“炉跡”か」


俺は低く呟いた。


魔導炉。正式名称、“高密度魔素圧縮炉・第七型”。

帝国が、飛行技術の中枢に据えた最先端の心臓部。

それは単なるエネルギー供給装置ではなく、空を生み出す器官だった。


「圧縮配管の基部が……この勾配なら、地熱利用もしてるな。魔素冷却と熱交換、同時運用だったか」


かつての知識が、手と目を通して呼び覚まされていく。

記憶ではなく“経験”として、この構造は確かに俺の中に残っていた。


あの頃、技術局と共同作戦に入るたび、俺はこうした施設の防衛任務に駆り出された。

そのたびにイグザスのような技師たちが、命を賭けて“動力の鼓動”を守っていたのを知っている。


配管はほとんどが苔に覆われ、節々が剥離している。

だが、魔素供給ラインだけがわずかに“温もり”を残していた。


「ゼン、これ……」


カイが壁の亀裂に指を差す。

断裂した配管の奥、細く残った導管に沿ってかすかに青い光が脈打っていた。


生きている。


……いや、“まだ動いている”。


「魔導炉の中枢部……まだ、稼働してるのか……?」


この谷に残されたのはただの残骸ではなかった。


封印された研究の最後の“心臓”が、眠ることなく鼓動を続けていた。


崩れた通路を抜け、俺たちはゆっくりと内部へと進む。


入口は崩れかけた格子扉。帝国製の古いスライド式構造で、今は手動でこじ開けるしかない。

鉄の軋む音が響いた瞬間、内部に溜まっていた“熱気”が吹き出してきた。


「……あったかい」


思わずカイが声を漏らす。

谷底の霧と湿気にさらされた肌には、その熱が異様に感じられた。


それは自然の温もりではない。

明らかに、“装置の発する人工的な息”だった。


内部は三層構造。

第一階層には補助炉と魔導制御室、第二階層には魔素変換区画、そして、最下層が本命――


主炉、つまり“魔導炉の核心”。


階段はすでに崩れ、昇降機の軌道も動いていなかったが、壁に沿って作業員用のスロープが辛うじて残っていた。


一歩、また一歩。

暗闇の中、足音だけが響く。


誰もいないはずの廃墟。

けれどその静けさが、逆に“何か”を感じさせる。



壁に沿って進むスロープの先――そこに広がっていたのは、かつて人の手で造られた“機構”とは思えない、静謐な空間だった。


天井は高く、まるで洞窟の内部のように自然石と人工鋼が曲線を描いて張り巡らされていた。中央には直径十メルト以上の円形基盤。そこに、複数の基礎架台と補助管制柱が配置されている。


床は緻密な六角プレートで覆われ、その継ぎ目からは細く魔力の残滓が流れていた。

しかし、それは単なる装飾ではない。全体が魔導炉の“制御陣”であり、ここに立つ者は炉の心臓と直接“繋がる”構造になっていた。


壁の一角には、かつての作業員用の記録台が残っていた。ガラスの割れたパネル、手書きの備品表、色褪せた安全基準マニュアル。そこには確かに“日常”があった形跡が刻まれている。


崩れた階段の影には、古い工具箱が転がっていた。中には帝国技術局時代に支給されていた統一規格のスパナや、魔素導測器の残骸がいくつも入っている。


特に目を引いたのは、壁面の一部が大きくせり出した格納区画だった。


内部には鉄製のパネル棚と複数の試験筐体が並んでおり、その大半は分解されたままの状態で保管されていた。

一つひとつにメモが貼られている。すべて手書きで、整然とした技術者の文字。内容は符号解析、空力応答、加熱効率、回路再配置……いずれも現役の研究者でなければ書けない最新の技術ログだった。


(……研究は、止まっていない)


まるで昨日までここで誰かが作業していたかのように、部材の並びは整理され、埃の積もり方も浅い。棚の奥には、使い古された制御タブレットが無造作に置かれていた。

画面には「最終操作:七日前」の文字。


そして、何よりも――


天井の一部に、魔力を通した換気管が静かに稼働していた。


動作音はなく、ただ微かに、空気の流れだけが“今もここに生がある”ことを伝えていた。


「……生きてるな、この場所」


思わず口をついた言葉に、カイが小さく頷く。


「ここは……生きてる。止まった“廃墟”なんかじゃない」


その言葉に、俺も静かに同意した。


この地下は、イグザスの意志で維持されている。

無人のようで無人ではない。

風も、熱も、魔力も、すべてが彼の思考と連動しているような気がしていた。


ここに残されたものは、単なる過去ではない。

それは、現在進行形で“空の未来”を作ろうとしている、孤独な職人の遺志そのものだった。



崩れかけた階段を避け、俺たちは施設の外縁に沿って残された作業員用のスロープを進んだ。幅は人ひとり分ほどで、右側は断崖、左側にはかろうじて残る手摺代わりの鋼管。足元のグレーチングは腐食し、時折“パキ”という不穏な音を立てる。万が一落ちれば、下は十数メルトの暗黒――下層の魔導炉基盤が見え隠れしている場所だった。


「気をつけろ。ここは恐らく昔の点検ルートだな」


スロープは施設の外壁を時計回りに沿いながら、緩やかな傾斜を描いている。壁には一定間隔で魔導照明の残骸が設置されていたが、いまや点くものは一つもない。代わりに、微かに漂う魔力の粒子が足元に幻想的な青光を灯していた。


ところどころ外壁が崩落している箇所があり、強化魔法を用いて飛び越えなければ進めない場所もある。カイが背中の竜翼で一度に飛び越え、ロープを張って俺を補助する。こうして人が通れる状態に保つための“対処”がなされている痕跡――それは、明らかに“最近のもの”だった。


「誰かが、ここを通ってる……間違いない」


途中、左手の壁面に嵌め込まれた古い管制盤の残骸が現れた。ボタンの半数は欠けていたが、緊急時用の動力切替盤が開けられた痕がある。指の跡、魔力操作の焼け痕。おそらく、最下層の制御が一部手動運用に切り替えられていたのだろう。


さらに進むと、壁面に古い作業台が備え付けられている小部屋に入った。扉は既に落ち、床には魔導ケーブルが散乱している。棚には保存食の包装が三つ。水筒、乾いたタオル、そして小さな椅子。明らかにここで“休憩”をとっていた誰かがいた。


「生活痕……」


それはかつての施設職員ではなく、“今の利用者”のものだった。足跡は一人分。小さな革靴の痕が土埃に残っている。


「イグザス……か?」


その先、スロープは最後の曲がり角を迎え、わずかに空気の流れが変化する。熱気と魔力が僅かに濃く、重くなっていく――その奥、下方に広がる主炉へと至る“最終通路”が姿を現した。


そこにはかつての防衛用シャッターがあり、今は開放されていた。周囲の壁には“炉心注意”の警告文が薄く残り、非常灯のベースだけが虚しくぶら下がっている。


シャッターをくぐると、長さ30メルトほどの鉄製の階段が傾斜を描いて下へと続いていた。手摺は欠け、天井は低く、床はわずかに湿気を含んで滑りやすい。だが、その最下段――黒鉄の扉がはっきりと存在していた。


扉の中央には、魔力認証用の旧式エンブレムが埋め込まれている。

そしてその下には、小さな金属板がかろうじて貼られていた。


《帝国技術局 第七渓谷・試験炉基底区画》


「ここが、最深層だ」


俺は扉に手をかける。鍵はなかった。ただ、重たい。

無理やり押し開けると、内部からほのかに熱を帯びた空気が流れ出した。



そこにあったのは、魔導炉の中枢“コア”。


直径6メルト超。半球状の晶質装置が、黒曜石のように鈍く光を反射している。

表面には流紋のような魔導回路が走り、中心部に向かって淡く青白い光が脈打っていた。


それはまるで、巨大な心臓が“静かに呼吸”しているようだった。


「……これが、“まだ動いてる”ってやつか」


カイが呟く。


中枢の基部には、今も残された操作端末がいくつかあった。

多くは機能停止しているが、一台だけ――微かに魔力を帯びたまま生きていた。


コア基部から少し離れた位置に、それはあった。

灰色の筐体に覆われた帝国製の制御端末。かつて帝都の研究棟で見たものとほぼ同型だが、表面には古びた補強痕や再配線の跡があり、何度も手を加えられてきた痕跡があった。


魔力供給ラインはすでに中央からは切り離されている。だが、端末の背後――壁面の岩肌を削って這わせたような魔力導線が一本、岩陰に沿ってどこかへと伸びていた。

それは明らかに、“後から誰かが設置した”ものだ。


「……誰かが、今もこれを維持してる?」


思わず口に出た言葉に、カイが険しい顔をする。


「残党か? あるいは別の研究者が隠れて……」


「いや。これは、完全に“個人作業”の跡だ。工房規模の加工痕がない」


端末の横には小さな補助魔力炉と、簡易転写台。

それに、魔導記録紙の束と、工具の類が丁寧に布で覆われていた。


まるで――今さっきまで誰かがここで作業していたかのように、すべてが整っている。


埃は少なく、足元の床も乾いていた。

谷全体が湿気に満ちているこの環境で、ここだけが“生きている空間”として維持されていることはすぐに分かった。


「……イグザスだ」


そうとしか思えなかった。


帝国が去ってから幾星霜――

誰も足を踏み入れぬこの風鏡第七渓谷の最奥で、彼は今も生き、自らの意思で研究を続けている。


地上の組織から離れ、帝国の技術局からも自由となり、誰にも知られず、誰にも縛られず。


ただ、“飛行”という理想のために。


俺はゆっくりと端末に手をかざした。

装置の上面に埋め込まれた触媒水晶が淡く反応し、内部で魔力が走る音が微かに鳴る。


〈起動プロトコル解除〉

〈補助魔導炉・稼働中〉

〈記録セクター 21件〉


表示されたのは、簡素な操作インターフェースだった。帝国時代のものよりも、遥かに軽量かつ独立性が高い――つまり、イグザス自身が設計し直したものだ。


「……見ろ、これ。記録が続いてる。ログが直近まで残ってる」


指先で操作を進めるたび、日付の記録が浮かび上がる。


最新のログ――“今月十七日”。


ほんの数日前だ。


彼はこの谷に“いる”。そして、つい数日前まで、ここで確かに活動していた。


「まるで、空の心臓を一人で管理してるみたいだな……」


カイがそう呟いた。


言葉の通りだった。

この魔導炉は、もはや帝国のものではない。

誰の命令でもない。誰の制御下でもない。

ただ、イグザスという一人の技術者の手で、“保たれている”のだ。


目的はおそらく、再研究――あるいは、“未完の理論”の追求。

空に自由を与える技術、その先にある“限界なき飛行”の到達点。

この魔導炉は、彼の思索と試行錯誤の“生きた研究台”となっていた。


端末の奥、記録の一つを再生してみると、淡い光の中に映像が浮かんだ。

だが、それは会話でも講義でもない。

小さな作業机の上で、何かを組み立てている指先の映像だった。


魔導触媒。空力板。制御回路。

それらを黙々と組み上げていく手――

汚れて、ひび割れ、だが確かな意志を持った、技術者の手だった。


映像の端には、手書きのメモが貼られている。


『第四流線構造、飛行中の層流干渉抑制に成功。反転試験必要』


「……こいつ、まだ飛ぶ気でいるのか」


それは感嘆とも呆れともつかない、そんなため息だった。


俺は思わず苦笑する。


(あいかわらずだな、イグザス……)


お前は誰の命令も受けずに、たった一人で“空の在り方”を問い続けていた。

それはおそらく、世界の誰よりも“空に恋していた”者の姿だった。


核心部は今も稼働し、僅かな魔力で炉を保温し、記録と共に思考を回し続けている。

まるでその装置全体が、イグザスという一人の人間の延長であるかのようだった。


――この谷には、“まだ”彼がいる。


俺たちの旅は、確かにその核心に近づいていた。


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