第51話 空を支配する者、空を夢見る者
あいつの語っていた夢は、いつも聡明だった。
“いつか誰もが、自由に飛び立てる空を作りたい”
その言葉を本当の意味で理解できる人間は少なかった。
あいつは帝国のために飛空挺を設計していたが、その根底にあったのは、ただ「自由に空を飛べる翼を手に入れたい」という純粋な想いだ。
多くの魔導理論を扱い、精密な構造式を語り、膨大な計算をこなす天才でありながら、飛空挺に向けた目の奥にあったのは子供のような憧れだった。
空への敬意。風への信頼。
それらを“力”ではなく“心"で制御したいと本気で願っていた、稀有な男だった。
――だが、帝国はそんな夢を望んではいなかった。
帝国にとっての“空”とは、常に支配の象徴だった。
見えざるものを制し、高みから下界を見下ろすための領域。
兵器を展開し、国を守り、敵を焼き払うための“力の舞台”。
空を自由に飛ぶなど愚か者の幻想だと、軍部の連中は言っていた。
俺が帝国騎士団にいた頃はとくにそうだった。
帝国として空を飛ぶ理由はただ一つ――勝つため。
より高く、より速く、より遠くに攻撃するため。
飛空挺も竜騎士も、すべては軍略の道具だった。
俺たち蒼竜騎士団も例外じゃなかった。
竜の背に乗り、竜騎士として空を駆けるその姿は「帝国の象徴」であり、恐怖の象徴でもあった。
“空を征す者は世界を征す”――それが帝国の公式なスローガンであり、だったのだ。
だが、イグザスは違った。
彼はいつも、そんな標語を鼻で笑っていた。
「征す、なんて言葉を空に使うな。空は支配されるもんじゃない」
その言葉に、周囲の技官たちは眉をひそめたものだ。
だが、俺だけはその言葉に頷いた。
あいつが言いたいことは、痛いほど分かったからだ。
俺たちは戦いの中で空を見ていた。
けれど、イグザスは空そのものを“感じていた”のだ。
彼が設計した艇は、どれも無駄がなかった。
構造は簡潔で、風の抵抗を極限まで減らし、機体がまるで“空に溶ける”ような設計だった。
帝国の重装艇のような力任せの推進ではなく、
空そのものを味方につけるような理論。
「風は敵じゃない。翼を運ぶためにそこにあるんだ」――そう、よく言っていた。
俺にはその言葉が少し詩的すぎて理解できなかったが、今ならわかる。
あいつにとっての空は、命令でも戦略でもない。
祈りにも似た“感覚”の領域だったんだ。
……だが、帝国はそうした思想を歓迎しなかった。
技術局の上層部は、イグザスの研究方針を「非効率」と切り捨てた。
より高火力の魔導砲、より強固な装甲、より高速な推進炉。
数字で測れる力こそが帝国の“価値”であり、理想だった。
彼は何度も会議で反論した。
「高度な理論を積み重ねたって、人の心が空を理解しなきゃ意味がない」と。
……あのときの沈黙は、今でも覚えている。
会議室に響いた彼の言葉の後、誰も口を開かなかった。
やがて上層の技官が言った。
「ベルネロ技師。あなたは“詩人”にでもなったつもりか?」
イグザスは、その皮肉に薄く笑って答えた。
「詩人は、空を見上げる者だ。
戦争屋は、空を見下ろす者だ。
……どちらが空を知っているか、あなたに分かりますか?」
その瞬間、俺は確信した。
あいつは、帝国という檻に長くはいられない。
あの戦の夜――魔導嵐に包まれた空の中で、俺たちを救ったときもそうだ。
常識外れの操作で、渦巻く風を“利用して”艇を浮かせた。
通常なら風の逆流で爆散してもおかしくない出力だったのに、彼は逆にその風を“翼”に変えて見せた。
「嵐の流れに逆らうな。任せろ、空はもう動いてる」
それは恐怖ではなく、確信の声だった。
その言葉通り、〈ノクティリカ〉は嵐を抜け、俺たちを生かした。
俺が今こうして茶をすすって生きていられるのは、あの男のおかげだ。
……だが、その後、彼は帝国を去った。
理由は簡単だ。
帝国が“空を兵器にする道”を選び、イグザスが“空を自由にする道”を選んだからだ。
それから数年後、帝国は新型の軍用飛空艇を大量に生産し始めた。
名前は“エル・フォルティア”。
その基礎理論は、イグザスが開発した浮遊制御式の魔導炉を改良したものだった。
……つまり、帝国は彼の理論を利用し、彼の理想を真逆にねじ曲げた。
イグザスは二度と戻らなかった。
研究資料をすべて自ら封印し、技術局の記録からも削除された。
残されたのは、彼を知るわずかな人間の記憶だけ。
「――空を支配することは、空を殺すことだ」
そう呟いた彼の横顔を、俺は今でも覚えている。
霧に包まれたこの谷の空を見上げるたびに、その声が蘇る。
風鏡山群。
ここは、彼が最後に選んだ空。
支配されず、記録にも残らず、ただ風と霧に包まれ、静かに呼吸し続ける空だ。
「ゼン、どうした? 顔が険しいぞ」
カイの声で我に返った。
彼女は岩壁の根元にしゃがみ込み、苔に覆われた鉄骨を指差していた。
そこには、かすかに刻印が残っていた。
“IXZ-BL-07”。イグザス・ベルネロ。第七試作機。
帝国の記号ではなく、彼自身の印だった。
「やっぱり……ここで、あいつは空を作ろうとしてたんだな」
霧が流れ、淡い陽光が降り注ぐ。
その光の中に、苔の緑と錆びた金属の赤が混じり合い、まるで血のように輝いて見えた。
俺は思う。
もし、帝国が“空を征服する”ことを望まなければ、
もし、イグザスが“自由に飛ぶ空”を実現できていたなら――
この世界は、もう少し穏やかに風を感じられたのかもしれない。
「……行こう。まだ、あいつの“空”の残り香があるはずだ」
俺はそう言い、霧の奥へと足を踏み出した。
――風が、微かに鳴った。
それはまるで、かつて空を夢見た男の笑い声のように優しく響いていた。




