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第49話 風鏡山群



空は、どこまでも静かだった。


薄雲を滑るように進む飛空挺は、朝焼けから昼光へと移り変わる空の色を、その鋼の船体に映していた。

甲板に立てば風の音は驚くほど静かで、むしろ鼓膜を包むような圧のように感じられる。空を裂き進む船でありながら、その存在はあまりにも自然で、まるで“空の一部”であるかのように錯覚するほどだった。


眼下には幾筋もの尾根が連なる。


それらはまるで龍の背骨のように、大陸を東から西へ貫いていた。

高度2000を超えたあたりから木々の密度が減り、代わって灰色の岩肌が露わになってくる。

これが――風鏡山群ふうきょうさんぐん


大陸の北、その西側に横たわるこの山系は、古代より“風と霧の迷宮”と呼ばれ、地上からの踏破はほぼ不可能とされている。切り立った稜線、断崖の連続、そして魔力を帯びた複層気流。

かつて帝国軍がこの地域に飛行基地を設置しようとしたが、三度失敗し、計画は永久凍結となった。


しかし、だからこそ――そこに隠されたものは他のどこよりも“純粋”で“危険”で、“美しい”。


 

飛空挺の艦橋から、ゼンは前方の地形を見下ろしていた。

そして、遠くに見えた“それ”を、誰よりも早く言葉にした。


「あれが、第七渓谷か……」


山群の南側、まるで地表を抉ったようなV字の裂け目が、うねりながら広がっていた。

谷底は分厚い霧に覆われ、その霧は風に流されず、そこに“定着している”かのように微動だにしなかった。

その様子は、まるで“静止した風”――そんな矛盾した表現がぴたりと当てはまる異様な景観だった。


「信じられねぇな……。あの霧、動いてねぇぞ?」


操舵士が呟いた。


「霧じゃねぇ、風だよ。あそこだけ、風が“巻き込んで”る」


カイが、操縦桿から手を離さずに答えた。


「風鏡山群ってのは、地熱と魔力が噛み合ってる場所なんだ。魔力嵐が起こるのは、空中だけじゃない。地表からも吹き上げてくるんだよ。地の底でな」


ゼンは無言で頷く。


そして目を凝らした。


あの霧の底――その奥に、かつての技術局が設置した“研究拠点”がある。


地図に記されることのなかった場所。


魔導地脈の上に位置し、極限の飛行制御を実験するための空域――風鏡第七渓谷・試験場跡地。


〈ルミナ・ドレッド号〉が第七渓谷に接近するにつれ、風の質が変わっていく。


さきほどまで滑らかだった気流が、唐突に不規則な脈動を見せ始めた。

船体がほんのわずかに揺れ、翼に流れる魔力が時折“逆流”する。


「魔力干渉が始まってるな」


「わかってる」


カイが手早く補助翼を畳み、浮力制御を最低限に絞る。


高度を下げると同時に、渓谷の両壁が迫ってくる。


谷の幅はおよそ200メルト。飛空挺一隻が“滑り込める”ほどの幅だ。

だが、それを妨げるのは地形ではない。空そのものだった。


 

風は、螺旋を描くように渓谷内を流れていた。


気流が激しくぶつかっては跳ね返り、幾重にも混じり合いながら層を成していく。


まるで“風の迷宮”。


高度を一メルト間違えただけで、推進力が真逆に引かれ船が横転する危険がある。


この空域で航行できる者などそうはいない。


ゼンは、そんな風を見ていた。


風と空を。


かつて、あの黒き飛空艇が夜空を割って飛んできた夜を。


あのときと同じ空気の匂いが、今、ここにある。


「カイ。お前、本当に……このまま入る気か?」


「当然だろ。ここでビビってちゃ、空賊なんざ名乗れねーだろ」


カイが笑った。


その笑顔は、ただの無謀な考えから溢れる反応ではない。己の腕と船に対する確信と誇り。


“飛べる”という、確かな意志だった。


「高度、1800に固定。進入ルート、東南からの渦流に沿って入る」


「舵、任せた」


「魔導炉、冷却準備。念のため、緊急遮断魔方陣を点火」


「了解」


空気は厚かった。


霧と風に喰われた谷間の隙間から、うねるような湿気が立ち上がる。

〈ルミナ・ドレッド号〉の船体は、その白い濁流に包まれ、まるで天空に浮かぶ幻影のように輪郭を曖昧にしていた。


飛空挺は静かに、しかし確実に降下を開始していた。


艦橋に立つカイは、操縦桿を握りながら腕を張り、指先で魔導回路の出力を細かく調整する。

推進翼、補助力場、重力制御板――それらすべてが、カイの命令に一瞬の遅れもなく反応し、船体を空の波に乗せる。


「高度、1200を下回る。視界、20メルト以下」


副操縦士の報告に、カイは小さく頷いた。


眼前には、厚い霧が壁のように立ち込めている。

だがその中に、わずかに光の差す気配――谷底の“開け地帯”の存在を告げるものが、かすかに感じ取れた。


風流速計が警告音を発し、針が不規則に跳ねる。

上昇気流と下降気流が交錯し、時折、旋回渦が発生していた。

鋼鉄の船体が、まるで巨大な獣に肩を押されたかのように一瞬だけ揺れる。


そのたびに艦内に響くのは、鉄板と骨組みがきしむ音。

だが、クルーたちの誰一人、表情を崩すことはなかった。


「補助出力を+8%、揺れ補正に余裕持たせろ」


カイの声は、低く落ち着いていた。

緊張の中に、信頼と経験からくる“余裕”がある。


魔導副管が銀光を帯び、船体の流路が脈動するように明滅を始める。

補助翼の先端が軽く折れ曲がり、周囲の乱流を吸収するための“柔構造”へと変形していく。

重力制御板が角度を変え、船体全体を滑るように谷へと導く。


霧を裂き、雲をくぐり、切り立った岩壁をかわしながら、〈ルミナ・ドレッド号〉は滑降する鳥のごとく着地点へ向かって沈んでいった。


 

やがて霧の奥に、ぽっかりと空いた“窓”のような地形が現れた。


風鏡山群・第七渓谷――その谷底にある開け地帯。

苔と湿地に覆われた小さな平地で、周囲は鋭く切り立つ岩壁に囲まれている。


そこは、ただの着地可能領域ではない。

“この空域で、唯一、安定した地面が存在する”という、奇跡のような土地だった。


「……前方真下、着地モードに移行」


カイが宣した瞬間、船体の魔導出力が一斉に切り替わる。


浮力制御装置が静かに駆動し、推進翼の力が絞られていく。

水平速度を限界まで減速させ、ほとんど静止に近い形での降下へ移行。


機体がわずかに傾くと同時に、脚部の格納脚が音もなく展開する。

四本の支脚は各々に独立した伸縮と磁力吸収機構を持ち、不整地への着地すら許容できる設計だ。


濃霧が船体下部に巻き付き、白濁が視界を覆う。


その中で足元の地面が、わずかに覗いた。


苔むした湿土。沈み込むような軟らかさと、石の冷たさが混じった地形。

それはまさに、忘れ去られた場所が持つ“沈黙の記憶”のようだった。


 ――接地。


音もなく、しかし確かに船体が地面を捉えた。


衝撃は極小。支脚の磁力ブレーキが反動を吸収し、艦内にほとんど揺れは伝わらない。

〈ルミナ・ドレッド号〉は、まるでこの谷を知っていたかのように完璧なバランスで“降りた”。


「着地確認。バランサー展開。水平安定、良好」


カイの声に、艦内の空気がすこしだけ緩む。


艦体外部に設置されたバランサーアームが展開され、左右の岩盤を掴むように固定された。

霧の中でも揺れずに止まるその姿は、まるで空の鳥が地に巣を作ったかのような安定感を持っていた。


魔導灯が淡い青色を放ち、白霧に溶けるように散っていく。

幻想的な光景の中で、飛空挺の鋼の輪郭だけが、くっきりと浮かび上がっていた。


 

――そして。


甲板扉が、静かに開いた。


重く湿った空気が、肌を包む。

足元の苔が沈み、土の匂いが鼻腔をくすぐる。


降り立った瞬間、風の音が変わった。

谷の気流が船体の着地に反応し、新たな流れを生んでいる。


スロープを降りてくるカイの足取りは軽やかながら、その視線は常に周囲を警戒していた。


二人が着地した瞬間、霧が微かに流れ、谷の地形が露わになっていく。


岩壁に刻まれた無数の亀裂。湿った根の絡まる断崖。苔に覆われた古い石柱。

かつての研究拠点――魔導飛行の極地を目指した技術者たちの遺構が、そこに眠っていた。


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