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第48話 二日だけの旅



昼下がりの光が、山の稜線をやわらかく照らしていた。

霧はすでに薄くなり、山肌の木々の緑が陽を受けてきらりと光る。


俺は湧き水で顔を洗い、灰庵亭の戸をゆっくりと閉めた。

いつもなら、昼のこの時間は仕込みの真っ最中だ。だが、今日ばかりは違う。


店の前には、見慣れぬ光景が広がっていた。

整然と並ぶ〈風喰い〉の団員たち。いつもは騒がしく、どこか抜けた連中が、このときばかりはまるで出陣を控える兵のように背筋を伸ばしていた。


「出発準備、整ったッス!」


ライルがそう言って一歩前に出る。

まだ幼さの残る顔に、ほんのわずかな緊張が浮かんでいた。

いつもの無邪気な笑顔ではなく、責任を背負う“大人の顔”をしている。


「無理はするな。仕込みはもう十分にしてある。水と薪に関してはカイの団員たちにも頼んである。困ったことがあったら、ベロックに伝言を頼め」


「わかってます」


その返事を聞いて、俺は一度だけ深く頷いた。


視線を上げると、霧が裂けた。


音もなく巨影が空に浮かぶ。


飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉。


霧の隙間から姿を現したそれは、まるで空に穿たれた鋼鉄の矢。全長約四十メルト。双胴式の船体に、四基の旋回式推進翼。船首には強化魔導障壁を展開する円環が浮かび、船尾には雷撃用の副砲が二門見える。


だが、何よりも目を惹くのは――その美しさだった。


金属の艶に風が滑り、船体に刻まれた紋様が薄く光る。魔導力を流す管が全身に血管のように張り巡らされ、その脈動が生きているかのように艦体を包み込んでいた。


「……“ルミナ・ドレッド号”」


思わず呟くと、傍らでカイが鼻を鳴らした。


「見惚れるなよ。コイツの魅力は"外ヅラ"だけじゃねーんだからさ?」


「いつ見ても、お前の船とは思えんほど洗練されてるな」


「はぁ!?それ褒めてんのかけなしてんのか、どっちだコラ」


「まあ褒めておいてやる。滅多に見ない美しさだ」


「……ふふん、だろ?」


まったく、この女はこういうところだけは抜け目がない。


 

乗船口は側面後方、魔導スロープが展開され、無音で足元まで伸びてきた。昇降板を踏むと、床の下からふわりとした浮遊感。重力制御がかかっている。無駄に凝った造りだが、たしかに揺れは抑えられている。


艦内に入ると、そこは淡く照らされた細長い通路。片側に格納庫、反対に乗員用の個室が並んでいた。金属製の内壁には細かい意匠が彫られ、魔導灯が温かみのある光を投げかけている。


「前方が操舵室、後方が補給庫。中腹に食堂と休憩室。あんたの部屋は二号室だ。今夜はそこで寝とけ」


「……ちゃんと船内案内できるんだな」


「馬鹿にすんな。団長だぞ」


案内されるままに操舵室へ入ると、視界が開けた。


半球型の展望窓が、すでに明るみ始めた空を映していた。窓の向こう、地平線の上に、薄紅色の雲が幾筋も流れている。


……この角度から見る空は、やはり広いな。


思えば、こうして“旅としての空”に身を任せるのは何年ぶりだろうか。


かつての飛空戦では、空はただの戦場だった。制空権、戦術陣形、魔導障壁のタイミング――生死をかけた選択の連続。それを踏まえても、今目の前にあるこの空は――静かで、広く、そして美しい。


「出発準備、完了しました!」


操舵士の号令と同時に、魔導炉が起動する。


船体全体が“ふっ”と脈打ち、エネルギーが流れ込む。回転翼が低く唸りを上げ、床下からわずかに浮遊感が増す。


「推進力、全翼展開!」


「浮力安定、魔力循環良好!」


カイが前方の操縦席に腰を下ろし、魔導プレートに手をかざす。


「しっかり捕まってろよ、ゼン。私の操縦は少々荒いからな!」


「織り込み済みだ。信頼してるさ。ほんの少しだけな」


「上等」


瞬間、甲高い“キィィン”という共鳴音とともに、〈ルミナ・ドレッド号〉が跳ねるように空を裂いた。


霧を突き抜け、雲を割り、大地が瞬く間に遠ざかる。


風が船体を切り裂き、振動が胸に響く。


真っ青な空が俺たちを包んでいた。


眼下には山並みと森と、斜面に連なる村の景色が遠ざかっていく。


灰庵亭のある山は、今ではもう見えない。だが、あの場所に残してきた生活の重みが、いま確かに背中にあった。


……二日だけの旅だ。


そう言い聞かせながら、俺は目を細めた。


――さあ、行こうか。


風鏡山群、第七渓谷。


“空の鬼才”にして、かつての命の救い手、イグザス・ベルネロ。


あいつが、まだ“飛び続けている”なら――


その理由を、この目で見てやろう。


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