第47話 風が運ぶ返事
翌朝、湯気立つ炊きたての米を前に、俺は静かに茶碗を手に取っていた。
昨夜は珍しく深く眠れた。……騒がしい連中がテントで大人しく寝ていたのか、それとも焚き火の匂いが妙に落ち着いたせいか。
食堂の窓を開けると、霧がやや薄く、空気は澄んでいる。
この時期にしては朝の冷え込みがやさしい。
そう思ったのも束の間。
風が、ふっと吹いた。霧の中から、何かがゆっくりと滑るように近づいてくる。
「……来たか」
食堂の庇の下、ちょうど薪棚の隅に、小さな羽ばたきが見えた。
薄青の小型精霊――郵便精霊の“スリフ”だ。商人ベロックが使う帝都連絡網の支線に組み込まれている、小型使い魔。
くるくると旋回したあと、俺の手元にふわりと舞い降りる。左脚に括り付けられていたのは、薄い魔力紙の巻物だ。
「よく来たな。寒かったろ」
声をかけると、スリフは“ふしゅっ”と鳴いて、くちばしをカチカチと鳴らす。
……やけに機嫌がいい。
巻物を解くと、紙の内側には銀糸で組まれた簡易魔導紋と、細かく丁寧な文字。
差出人の名は――リネ=ヴァルスト。
「……主任になっているのか。ずいぶんと出世したものだ」
声に出した瞬間、少しだけ胸が熱くなった。
かつて帝国魔導技術局にいた才媛。若くして実験部門の魔力理論指導員に抜擢され、イグザスの右腕と呼ばれた女だ。
当時の俺は名前しか知らなかったが、一度だけ戦場で顔を合わせたことがある。魔力弾の偏差調整を一瞬でやってのけ、砲撃の着弾精度を三倍に引き上げたあの手際。忘れようがない。
巻物の文面は、やや堅い口調ながら、礼儀と敬意がにじむ筆致だった。
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《灰庵亭 店主 ゼン・アルヴァリード殿
突然のご連絡、驚かれたことと存じます。私、帝国元魔導技術局所属のリネ・ヴァルストと申します。あなた様の名は、かつて先輩方より幾度も伺っておりました。
お問い合わせの件につきまして、確たる情報が一つございます。
イグザス・ベルネロ氏は現在、“風鏡山群・第七渓谷”に設置された旧局外研究拠点に滞在中と見られます。詳細な所在は不明ですが、過去に彼が残した理論資料の追跡と照合の末、居住地の可能性が高いと判断されました。
なお、当拠点は魔導通信圏外であるため、直接の接触は不可能と見られます。
以上、ささやかながらお力になれれば幸いです。
敬具》
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「……第七渓谷、か」
懐かしい名だ。
あの山群は帝国の領域外、風と霧が支配する渓谷地帯で、地形も気象も安定しない。飛行術式のテスト場としては最高だが、人の住処としては最悪の環境だ。
だが逆に言えば……そういう場所でしか、あいつは“自由に空を語れなかった”のかもしれない。
そのとき、背後からカイの声が飛んできた。
「なーに、朝から黄昏れてんだ? 風情たっぷりじゃねーか」
「連絡が来た。イグザスの居場所はだいたい判明した」
「……おっ、マジか」
「風鏡山群、第七渓谷。多分、そこで何かやってる」
「山か……山なぁ……」
カイが腕を組み、すこし渋い顔をした。
「飛空艇で上空までは行けるかもしれねぇが、着地はたぶん無理だな。あそこは気流がえげつねぇって有名だし」
カイが腕を組み、眉間に皺を寄せて言った。元空賊の彼女が言うのだから間違いない。実際、俺も何度かあの山群の近くを飛んだことがあるが、気まぐれな風の流れと魔力の乱れが重なって、安定飛行どころかまともに方角も維持できなかった記憶がある。
「……それでも、お前がそこに行きたいって言うんなら、話は別だけどな?」
そう言ってカイがこちらを見る。
俺は、黙って首を振った。
「勘違いするな。俺は別に行きたいわけじゃない。ただお前の依頼に付き合ってるだけだ。そうだろ?」
「……あー、うん。まあ、そうなんだけどよ」
カイは視線を逸らし、鼻の頭をかきながら答えた。
「だから、礼も見返りも忘れるな。契約にはうるさいタチなんでな」
「ちっ、わかったよ。欲の深い隠居だな」
「隠居でも、欲はある」
そう返すと、カイはわざとらしくため息をついた。
「じゃあ決まりだな。ルミナ・ドレッド号、今日の昼前には出す。準備しとけ?」
「道中は静かに頼むぞ。叫び声で気流を乱されちゃ困る」
「誰が叫ぶかこの野郎」
……あくまで、これは“お願いされたから”だ。
昔の知人に会いたいわけじゃない。もちろん会って話したいこともあるが、これはあくまで"依頼のついで"だ。戦いも飛行も、もう俺の人生には必要ない。
でも。
“誰かの頼み”を断れない性分だけは――どうやら、変えられなかったらしい。




