第45話 料理を運ぶ道は、ただの通路ではない
客席が三十ともなれば、やはり動線には徹底した計算が必要になる。中央に構える厨房に、客席のL字。ふむ、どのように通路を設けるか……だが。
「……やっぱり、ここがネックだな」
図面を睨んだまま、腕を組む。
厨房から客席への最短動線を取りたい――それは当然の考えだ。だが、その“最短”が、必ずしも“最善”とは限らない。
厨房の中心に立つ自分の位置から、左手に盛り付け台、右手に鍋場。背後には洗い場。その配置は決まっている。問題はそこから客席への導線。料理を運び、食器を下げ、客と必要な会話を交わし、そしてまた厨房に戻る。この一連の流れが、“交差しない”ように設計しなければならない。
「ライル」
「はいっ!」
「今この図面を見て、“詰まりそう”って思う箇所、あるか?」
「うーん……この角、ですかね。ここの通路、幅が狭いし、食器持ったまま他の人とすれ違うと……ぶつかるかも」
「だよな」
そう、まさにその一点だった。
厨房から右回りで客席へ。L字の短辺から長辺へ抜け、また厨房へ戻る。理想としては一方向の回遊導線が最も効率的だが、それだと客席の一部が“片道通行”になる。料理を持って進むにはいいが、戻る時には不便だ。
加えて、通路の幅が狭い。現状の設計では、人ひとりがギリギリ通れるほど。それでは、同時に二人が動くことはできない。
「あと五十センチ、幅を取るか……いや、それじゃ座席数を削らねばならん。難しいな」
厨房から直接アクセスできる“横抜け”の通路をもう一本増やすか? だが、それは客席の“落ち着き”を壊す可能性がある。背中側を常に人が通る席なんて、誰も腰を落ち着けられない。
「こうなると……やはり厨房の位置そのものを、少しズラすか……?」
図面に手を走らせ、配置を少しずつずらしていく。
ほんの数ミリ単位で変わるだけで、導線の流れは大きく変わる。客の視線、椅子の引きしろ、盆の幅、座る動作――あらゆる所作が重なり合い、通路の“正解”を遠ざけていく。
「……まるで戦場だな」
思わず漏れた言葉に、ライルが笑った。
「動線設計って、そんなに難しいものなの?」
「難しいさ。料理は、材料と火の扱いでなんとかなるが、建物はそうもいかん。失敗すれば、客の“満足”そのものが奪われる」
「でも、客席三十って、親父ひとりで対応できるの?」
「できるように設計するんだよ」
もちろん、無理を承知でやる気はない。最終的には二人目、三人目の手伝いが必要になるかもしれない。それでも、設計段階では“ひとりで回せる”構造を作る。
それが、俺のやり方だ。
「この一杯を、どう届けるか」
目の前にあるのは、図面でしかない。だが俺の頭には、そこに人がいて、動いて、座って、食べて、笑っている姿が浮かんでいる。
料理を運ぶ道は、ただの通路ではない。
それは“時間”だ。料理が最も美味しくある時間を保ちつつ、客に届くその瞬間までの、わずかな数十秒の戦い。
その戦いに、俺は負けたくない。
「ライル、メジャー持ってきてくれ」
「うん!」
俺は立ち上がり、図面の中の世界を現実の土に引き写し始める。
線の上を歩くのは、俺だけじゃない。
料理を運ぶ手、笑う客、席に座る友人――すべてが、この導線の上にある。
うーむ。
悩ましいところだが、限られたスペースをできる限り最大限に活用したいのは事実。
最短で動ける場所と、極力無理のないゆとりある空間。
…となれば、やはりカウンターの位置や広さはかなり重要になるな。
テーブル席だけで三十人分を確保するとなれば、どうしても中央に集約した配置が基本になるだろう。だが、店というのは“数”だけで成立するものじゃない。人が動き、座り、手を伸ばし、器を持ち上げる……その一連の動作が“自然”に行える空間でなければ、いくら美味いものを出しても台無しだ。
「……さて、カウンターはどこに組むか」
厨房と客席の境目。ここが“曖昧”であることが、この店の味わいになると信じている。
完全に区切ってしまえば作業効率は上がるだろう。だが、それでは“食堂”ではなくなる。あくまで、料理人と客が互いの気配を感じられるような“距離”が必要だからだ。
「親父、いっそカウンターの奥行きを深めに取って、厨房との間に“対面式”の盛り付け台を作るのはどう?」
「……ふむ。なるほど、逆転の発想だな」
ライルの案に頷きながら、俺は図面を描き直す。
従来の“料理を作る→盛り付けて皿を運ぶ”という一方向の流れに対して、“その場で盛り付けて出す”という方式にすれば、客との距離はもっと縮まる。なにより、料理の香りや熱気が直接伝わる。無駄がない。
「ただし、その分、作業スペースが“見られる”ことになる」
「見られて困ることってある?」
「ない。ただ、すべての所作が“演出”になる」
包丁を入れる動作、鍋を振る手元、出汁を注ぐ一挙手一投足。すべてが“食堂の景色”になるわけだ。
……悪くない。むしろ、面白い。
「よし、カウンターは“八の字”に構える」
「八の字?」
「真正面ではなく、少し角度をつけて客席を包むように配置する。視線の集まりを分散させ、厨房全体が“舞台”のように見えるようにする」
「なるほどー……なんか、劇場みたいだね」
「料理は劇場と同じだよ。“一皿”を上演する、俺たちの舞台だ」
客席と厨房の境界線は、ひとつの“幕”に過ぎない。ならば、その幕を少し開き、料理という物語を直接届ける。それが、この灰庵亭の新たなかたちだ。
「ただし、八の字型にするとなると、入口の動線と干渉するな……」
カウンターの両端がちょうど入口と被る。となれば、出入りの導線を横にずらす必要がある。だが、そうなると待合スペースの位置も見直しだ。
「ああくそッ、また設計図が白紙だ……!」
図面を描きながら、頭を抱える。
誰がこんな複雑なレイアウトにしようと決めたんだ。……俺だ。俺なんだが。
「ゼン親父、ちょっとお茶淹れたから飲んでよ。落ち着こう」
「……ありがとな、ライル」
手渡された湯呑を持ち、縁側に腰を下ろす。
熱い茶の香りが、図面の上にふわりと広がった。わずかな苦味と、芯から染み渡るような温かさ。
「……空間ってのは、時間と同じだな」
「え?」
「詰め込めば詰め込むほど、失われるんだ。ゆとりってのは、“余白”の中にしか生まれない」
それは、かつて戦場で学んだことでもある。ぎりぎりまで緊張を張り詰めた部隊よりも、どこかに余裕がある部隊のほうが、結果として生き残る。
建築も同じだ。詰めすぎず、削りすぎず、ちょうどいい空間と距離感。客も店主も、同じように息ができるような構造を目指したい。
「……やっぱりもう一度、最初から書き直しだな」
「また!? 親父、今日で図面何枚目?」
「まだ七枚目だ。建物を立てるなら、図面は最低でも十は描け」
「いやー、ストイックだなあ……」
そう言いながら、ライルが新しい紙を広げてくれた。
まだ完成には程遠い。だが、こうして迷いながら線を引く時間も悪くはない。
なにしろ今、俺は“自分の場所”を、自分の手で作っているのだから。




