第33話 静寂の中の一閃
咆哮――それは、鼓膜を焼くような重低音だった。
谷全体がその声に共鳴し、土と灰が舞い上がる。
黒爪グラウベルクは、巨体に似合わぬ加速力で地を蹴った。
まるで岩をも穿つ巨大な塊。
体長三メルト(約4.5m)を誇る魔獣が目にも留まらぬ速さで飛びかかるその様は、ただの“突進”というにはあまりに洗練されていた。
四肢の筋肉はまるで圧縮された鋼。
瞬間的に収縮し、爆発的な力で弾かれるように地を滑る。
前足の鉤爪が石を裂き、地面をえぐり、空気を削り取る。
その全てが、一撃で相手を粉砕する“殺意”に満ちていた。
だが、その軌道上にいた黒衣の男――ゼン・アルヴァリードは、ただ一歩、横に身体をずらしただけだった。
土煙を撒き散らして通り過ぎる魔獣を、彼は表情一つ変えずに見送る。
その瞳には、恐怖も焦りもない。
あるのは――「分析」だけだ。
爆発するように走り出したグラウベルクの全身を、ゼンの視界は精密な解剖図のように切り分けていた。
踏み込みの軌道、肩甲骨の可動範囲、重心の位置、筋肉の収縮速度――
それらすべてが、彼の中ではすでに“数値化されたパターン”として組み込まれていた。
「――後脚の左。癖があるな」
突進のたびに、グラウベルクの左後脚がわずかに遅れる。
それは一瞬、ほんの0.2秒にも満たない遅延――だがゼンにとっては、"グラウベルクの持つ習性”として正確に読み取れるだけの「情報」に可視化されていた。
理由は、筋繊維の一部に軽微な拘縮があるからだろう。
あるいは、過去の戦いで深く裂傷を負い、その組織が硬化しているか。
いずれにせよ、魔獣自身も気づいていないレベルの“軌道の乱れ”が、ゼンの観察力には確かな“攻略の入口”として映っていた。
「――戻るぞ、今度は真正面からだ」
そう呟いた直後、グラウベルクが回頭する。
砂塵を巻き上げながらふたたび地を踏み鳴らし、突撃の構えを取る。
視界の端で、浮いた小石が弾けるように宙を跳ねた。
空気の密度すら変えるその突進は、ただの“移動”ではない。
その強靭な脚力から繰り出される直線運動は、たった一歩で戦局を変えられるだけの機動力と"柔軟性"を兼ね揃えていた。
前脚の爪が地を裂き、火花を散らす。
牙を剥き、眼孔は血のように紅く染まる。
距離は縮まる。十歩、五歩、三歩――
だがゼンの視線は、グラウベルクの“全身”を見てはいなかった。
彼の眼差しは、獣の一部――そう、“左後脚の関節”に焦点を絞っていた。
獣が動くたびに筋線維が振動する。
そのリズム、その緩急、その微細な揺れ――
ゼンの視線は、まるで高速で動く機械の部品を“目で”分解するかのように、その一つ一つの動きから未来を読み解いていた。
「来るぞ。……今だ」
足場の傾斜、風向き、踏みしめる角度まで計算して静かに身を捌く。
その動きには無駄がない。焦りもない。
体を傾ける角度すら“次の一歩”のための布石に過ぎない。
“見る”――ただそれだけの動作でさえ、ゼンにとっては戦術行為の一環だった。
視界に入った情報は瞬間的に脳内で整理され、無意識の領域にすら届く速度で筋肉へと指令が下る。
無駄な動きは一つもない。何かを「考える」前に、彼の身体はすでに「次の選択」を終えていた。
それは、“呼吸”に似ていた。
自分が酸素を取り込むことをいちいち意識しないのと同じように――
ゼンにとって“戦う”とは、“生きる”ことと寸分違わぬ自然の行為なのだ。
迫る咆哮、振動する地面。
グラウベルクの猛進が、爆風のように視界を塗り潰す。
それでもゼンの表情には、微塵の動揺もなかった。
「……今だ」
その声と共に、ゼンの姿が消えた。
厳密には“動いた”のだが、それは人の目では追えない速度。
流れるような体幹の移動、滑るような足運び――
ゼンは、グラウベルクの懐に入り込んでいた。
刃を握る手に、一切の“殺意”はない。
あるのは“確信”だけ。
狙うはただ一ヶ所――左後脚、関節の隙間。
筋肉と骨格の重なりが、わずかに開く瞬間。
【スパッ】
音は――ほとんど、しなかった。
あまりに速すぎる一閃だった。
だが次の瞬間、グラウベルクの動きが一瞬で止まる。
重心が崩れ、左脚が沈み、地面に膝をつく。
それが、魔獣の“絶対的な機動力”を奪う致命の一撃だった。
「ッグアアアアアア!!」
呻き声とともに、グラウベルクが暴れる。
だが、動きはもはやさっきまでの脅威ではない。
関節が“切られた”のではない。
“麻痺させられた”のだ。
ゼンは、神経伝達を狙って刃の角度を調整していた。
骨にも腱にも致命傷を与えず、“動けなくする”という一点のみに特化した動き。
それは狩人の技でも、兵士の剣術でもない。
――料理人の所作だった。
「次は、カイ。仕上げを頼む」
「へいへい、下処理はバッチリってか!」
頭上から飛び降りる竜人の影。
その手には、二本の剣。
戦場に再び、熱が入った。




