第141話 Shatterpoint(2)
――“無効化”という言葉は、そもそも存在しない。
谷を渡る冷気が砕けた壁の隙間を抜けていく。
霜が音もなく溶け、土に染み、また凍る。
ゼンは立ったまま動かなかった。
呼吸は安定している。
心拍も乱れていない。
だが――
意識は完全に戦場から切り離されていた。
彼は、考えていた。
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ゼン・アルヴァリードは薄々感じ取っていた。
この場に満ちている、ノイズのような違和感。
耳に聞こえるものではない。
肌に触れるものでもない。
もっと根源的な――
場の歪み。
先ほど灰式が“発動しなかった”ように見えた現象。
だが、それは誤解だ。
正確には、
灰式は無効化されていない。
そもそも――
《灰式》という能力体系において、
“無効化”という状態は定義されていない。
灰式は、技ではない。
術でもない。
属性ですらない。
それは――
魔力というエネルギーが、この世界で成立するための最下層構造に関与する。
魔力を「元素」だとするなら、
灰式が触れているのはその「元素」が存在するための場だ。
元素の前。
属性の前。
概念の前。
あらゆる魔導現象が“エネルギーとして振る舞うための前提条件”。
そこにアクセスできる以上、
本来、灰式は条件を選ばない。
火であろうと。
雷であろうと。
神性であろうと。
魔神族の霊素であろうと。
接触できない魔力など、存在しない。
それが、ゼンの能力体系の基本原則であり“理解”だった。
――だから。
灰式が働かなかった、という解釈は誤りだ。
正しくは、
照合できなかった。
それだけだ。
魔力とはエネルギーである。
それはこの世界で確立された、最も基本的な法則だ。
どれほど神秘的に見えようとも、
どれほど宗教的な装飾を纏おうとも、
魔力は必ず、
・流れる
・蓄積される
・変換される
・失われず、形を変える
――保存される。
エネルギー保存則。
それは魔導文明期に至ってなお、誰一人として覆せなかった“世界の最低条件”。
ゼンの灰式もその例外ではない。
彼はエネルギーを消しているわけではない。
相手の魔力を“無”にしているわけでもない。
ゼンは――
通しているだけだ。
敵の攻撃。
衝撃。
熱。
振動。
魔導波。
それらを一度自分という存在に“通過”させ、形を変え、別の経路へ流す。
ゼン自身がエネルギーの中継点になる。
だからこそ――
彼には必ず“接触点”が必要だった。
魔力を通すための経路。
魔導回路であれ、霊素であれ、物理衝突であれ。
ゼンは万能ではない。
どれほど零位に近い存在であろうと、空間そのものを断ち切ることはできない。
ケーブルなしに電流を流せないように、接触のないエネルギー干渉は存在しない。
だから灰式は、「受けたものを消す力」ではない。
境界に立つ力だ。
ゼンはあらゆる事象の“間”に立ち、エネルギーが通過する際の節点となる。
それが《オールノッキング》の本質。
――では、なぜ。
なぜユノの拳は通ったのか。
ゼンはそこに答えを見つけつつあった。
ユノの魔力。
氷属性。
だが問題は、属性ではない。
流れだ。
あの瞬間、ユノの魔力は“ゼンを経由しなかった”。
干渉点が、なかった。
いや――
正確には。
干渉点が構築できなかった。
魔力同士が接触するためには、互いの波形が最低限“同期”していなければならない。
周波数。
位相。
振幅。
完全に一致する必要はない。
だが、接触するための共通項は必要だ。
ゼンは相手の魔力と自分を“場”として接続し、ネットワーク化することで干渉を成立させる。
ユノの魔力には歪みがあった。
人工的に組まれた、零位模倣核。
不完全な位相。
常に揺らぎ、定まらない基準点。
ゼンがアクセスしようとした瞬間、その“接続先”がずれていた。
まるで差し込もうとしたプラグの形状が、微妙に違っていたかのように。
だから――
繋がらなかった。
無効化ではない。
遮断でもない。
照合失敗。
それが、あの違和感の正体だった。
ゼンはゆっくりと顔を上げた。
視線の先で、ユノが不敵に笑っている。
――そしてその奥で別の“視線”が動いていることに、ゼンは気づいていた。
この場にはユノだけではない。
魔力の流れが、意図的に調整されている。
誰かが――
場をいじっている。
干渉点の構築をわずかに狂わせるような精密な操作。
(……なるほど)
ゼンはようやく理解した。
これは偶然ではない。
ユノ単体の力でもない。
自分の能力を“知っている者”が、その前提を崩しに来ている。
――その手口はあまりにも理論的だった。
ゼンは静かに息を吐いた。
「……面倒な連中だ」
それは愚痴でも、苛立ちでもない。
ただ状況を正確に把握した者の、率直な感想だった。
霜が再び空気を満たす。
――秩序は、力よりも先に“順序”を奪う。
――場は、すでに組まれている。
重力が鳴いた。
音ではない。
振動でもない。
空気そのものが、わずかに張り替えられる感触。
ゼンはそれを“踏み込む前”に感じ取った。
ユノが再び構えを取る。
左腕に纏った氷は先ほどよりも厚い。
その結晶は均質ではなく、表面に微細な歪みを孕んでいる。
力は増している。
制御は落ちている。
擬似零位核がゼンを“基準点”として誤認し、出力を上げ続けている証左だった。
「どうしたよ、さっきより元気ねぇな?」
軽やかな口調を翳しながら、足運びは明らかに変わっていた。
踏み込みの間隔が広がり、重心移動に一拍の“保険”が挟まれている。
本能が、理解し始めている。
――真正面からは通らない。
だからユノは、角度を変えた。
右足を斜め前へ。
左肩をわずかに落とし、軸足を捻る。
氷属性特有の――
回転慣性を最大化する打撃姿勢。
床に残った霜が、彼の動線をなぞるように白く伸びていく。
――その瞬間。
空気が、沈んだ。
見えない。
音もない。
だが、確かにそこに――
“圧”が落ちた。
ユノの動きが、ほんのわずか狂う。
筋力が落ちたわけではない。
関節角度も、踏み込みも正確だ。
ただ――
反応だけが、遅れた。
時間が伸びたのではない。
身体が鈍ったのでもない。
“次の選択肢”が、遅れて届いた。
ゼンはその理由を即座に理解した。
(……場を、区切られた)
灰式ではない。
ユノの力でもない。
これは――
戦術結界。
魔力の流れを断つのではなく、干渉の“順序”そのものを制御する構造。
エネルギーは確かに存在している。
存在しているが、“直線的”には接続されない。
ゼンとユノの間に、透明な“段差”が生まれていた。
それは「壁」ではない。
遮断膜でもない。
防御障壁でもない。
“場”の定義を書き換える、極めて高度な空間操作。
魔力は流れている。
物理法則も成立している。
しかし――ゼンが立つ位置とユノが踏み込む位置が、同一の座標として扱われていない。
同じ空間にいるはずなのに、エネルギーの計算式が別々に処理されている。
(……順序制御型、か)
ゼンは内心で舌打ちした。
これは厄介だ。
灰式はエネルギーとエネルギーが接触する瞬間に成立する。
ただこの場では――
その“瞬間”が、意図的にずらされている。
ユノの攻撃はゼンに届く。
だがゼンの灰式が“反応する前”に、結果だけが確定してしまう。
つまり――
殴られたあとで、干渉点が生成される。
それでは通せない。
灰式は“事後処理”をしない。
常に、接触と同時でなければならない。
「……っ!」
ユノは気づいていない。
自分の動きが、誰かの“設計図”の上で踊らされていることを。
彼は勢いのままに踏み込む。
霜を砕き、氷の装甲を鳴らしながら距離を詰める。
拳が振るわれる。
今度は直線ではない。
回転。
遠心力。
質量と魔力を一点に集約した横薙ぎ。
空間が、歪む。
だが――
ゼンは、避けなかった。
避けられないのではない。
避ける必要がないと判断した。
彼は一歩だけ前に出た。
踏み込みは浅い。
重心は低く、安定している。
本来ならここで灰式が成立する。
ユノの魔力。
氷属性のエネルギー。
それを“通す”準備は完全だった。
――拳が触れる、その刹那。
接触が起きなかった。
いや、起きている。
物理的には確かに“当たって”いる。
だが――
魔力の位相がそこにない。
拳はゼンの身体を打つ。
しかし、魔力は“別の順序”で到達する。
結果だけが、先に来る。
衝撃。
――ズンッ。
それは音ではなかった。
衝撃でもない。
質量が順序を踏み外して落ちてきた。
ゼンの胸郭が内側から押し潰されるように歪む。
肺に満ちていた空気が行き場を失い、喉奥で短く裂けた。
床が鳴った。
正確には――
場が鳴いた。
衝撃に続いて、遅れて“冷気”が侵入する。
氷属性の魔力が殴打の軌跡をなぞるように時間差で浸透し、
筋繊維の隙間、骨膜の境界、内臓の表層を一気に冷却した。
衝撃。
冷却。
固定。
三段階。
結果を先に決め、原因を後からなぞる――
完璧に設計された事後干渉型の打撃だった。
ゼンの身体が、半拍遅れて宙を切る。
踏みしめていた地面が突然、意味を失う。
重心が抜け、視界が一瞬だけ傾いた。
――ドォンッ!!
背中から地面に叩きつけられる直前、ゼンは反射的に背筋を締め、受け身を取る。
防御姿勢としては完全ではない。
衝撃の一部が逃げ切らず、肩甲骨の内側で鈍い割裂音が生じた。
霜が舞う。
土と氷片が宙を裂き、白い粉塵となって散った。
「っは――!」
ユノが短く息を吐く。
その声には、わずかな昂揚が混じっていた。
「今の、避けなかったよな?」
踏み込む。
間合いを詰める。
動作は止まらない。
次は――下段。
右脚を軸に左脚を振り抜く。
足首から脛にかけて氷を纏わせ、刃状に結晶化した氷脚掃射。
床を擦る音はない。
氷が接触する前に表層の霜が瞬時に昇華し、摩擦そのものが消えている。
――速い。
ゼンの意識はすでに“痛み”の座標から外れていた。
(……やはり、順序だ)
片膝をついたまま視線を上げる。
ユノの動きは直線的だ。
愚直なまでに垂直な選択と動作を保ちながら、その軌道には不自然なほどの滑らかさがある。
力任せではない。
偶然でもない。
誰かが摩擦係数を書き換えている。
氷属性の魔力を媒介に、接地と離脱の“間”だけを最適化する。
術式ではない。
魔法陣でもない。
場そのものへのパラメータ調整。
ゼンの脳裏に、冷えた像が浮かぶ。
感情を排し、
力ではなく配置を操り、
戦場を「問題」として解く者。
(……ラグナ)
名はまだ口にしない。
迫る氷脚を見据えながら、ゼンはあえて動作を遅らせた。
左肩を引き、体幹をわずかに捻る。
完全な回避ではない。
最小限の偏位。
氷脚が、脇腹を掠める。
――ギィンッ。
金属ではなく、
空間そのものが鳴いた。
肋骨の表層が瞬間的に凍結し、直後に解凍される。
急激な温度差が筋肉に短い悲鳴を走らせた。
――折れてはいない。
その瞬間、ゼンの内側に感情に近いものが生じた。
苛立ちではない。
怒りでもない。
――感心。
(ここまで“灰式の前提”を潰してくるとはな)
地面に手をつき、体を起こす。
動作はあえてゆっくりだ。
――そしてその“遅さ”を、ユノは読み違えた。
「まだ立てんのかよ!」
深く踏み込む。
今度は、連撃。
左拳――フェイント。
右肘――氷晶を纏わせた近接打撃。
続けて、掌底。
すべてが一続き。
途切れのない一筆書きの運動連鎖。
ゼンは避けない。
代わりに――
呼吸を変えた。
肺の奥まで空気を入れ、吐く。
その瞬間、彼の“立ち位置”がわずかに変わる。
足裏。
接地面。
体重配分。
物理的には同じ場所だ。
だが――
場としての座標が半拍ずれた。
ユノの肘がゼンの肩口を打つ。
――ドンッ。
衝撃。
だが、今度は。
冷気が来ない。
ゼンの意識が鋭く研ぎ澄まされる。
(……見えた)
ほんの一瞬。
敵の魔力陣形が組んだ順序制御のその綻び。
すべてを制御するには、必ず基準点が要る。
その基準は――
ユノ自身。
未完成の擬似零位核。
揺らぎ続ける位相。
そこだけは完全に固定できていない。
ゼンは理解した。
灰式は、場全体には通せない。
それでも――
一点なら、通せる。
彼はユノの拳ではなく、その奥。
魔力が生まれる源点を見る。
拳が迫る。
ゼンは動かない。
ただ――
繋ぐ準備をした。




