第140話 Shatterpoint(1)
ユノは一歩、踏み直した。
左足がわずかに内へ入る。
踵が床板を噛み、足裏全体で荷重を受け止める。
それに連動して右半身へと重心が移った。
左腕が――沈む。
肩甲骨が内側へ引き寄せられ、上腕骨が関節の中でわずかに滑る。
同時に左前腕から手首にかけて、冷気が“まとわりつく”ように凝集した。
氷。
いや、正確には――
氷になる直前の魔素の密集層。
空気中の水分が凍るより早く、
ユノ自身の魔力が“冷却という概念”を纏って腕部に貼り付いていく。
冷気は外から纏うものではない。内側――筋肉の収縮と血流の加速に呼応するように魔力が一斉に結晶化し、皮膚の直下で氷へと転じていく。
それは鎧ではなかった。
衝撃を受け止めるための防護ではなく、力を伝えるための“骨格”だ。
氷属性特有の現象だった。
温度を下げるのではない。
存在の振動数を下げ、周囲の霊素を同調させる。
左腕が、白く鈍く光る。
腰をわずかに落とした浅い沈み込み。――だが、深い。
背骨の下部――仙骨が後方へ引かれ、
腹斜筋が締まり、
肋骨の可動域が“殴るための形”に固定される。
そして。
右肘が、後ろへ折り畳まれた。
ひねる。
背中ごと。
肩関節だけではない。
胸椎、腰椎、骨盤。
全身を一本の螺旋にして、力を溜める。
魔力が――収束する。
氷結魔力は爆発的に放出される属性ではない。
圧縮だ。
凝縮だ。
質量ではなく、密度で殴る。
ゼンはその場から動かなかった。
視線も、構えも、変えない。
右腕を自然に前へ出す。
防御の形ではない。
受けるための“位置取り”。
――受け切る。
それが彼の選択だった。
ユノの右脚が、床を抉った。
踏み込みではない。
地面を押し潰す動作。
筋肉が耐えきれず低く軋む。
氷が応じるように微細な音を立て、圧縮された空気が白く濁る。
板材が鳴く前に、空気が先に軋んだ。
拳が――走る。
直線ではない。
わずかに下から、内側へ。
ユノの視線は、ゼンの胸元に固定されていた。
「――ッ!!」
空気が鳴る。
爆ぜるのではなく裂けるような音。
拳が来る。
それは分かっている。
灰式が、立ち上がるはずだった。
だが。
拳が触れるその直前。
ゼンの右腕に奇妙な“空白”が生じた。
(……?)
魔力の干渉点が、ない。
確かにそこにあったはずの“感触”が消失している。
抵抗も反発も、何もない。
氷拳の先端が腕をすり抜けた――そんな錯覚。
拳が触れる“はずの位置”に、魔力が噛み合わない。
灰式が――繋がらない。
衝撃はそのまま肉体に到達した。
ゼンの右腕が横へ弾き飛ばされる。
関節が壊れたわけではない。支点そのものを奪われた。
体幹が崩れる。
懐が、開いた。
距離ではない。奥行きそのものがこちらへ傾いた。
時が平面から垂直に折れ、瞬きの裏で“次”がすでに始まっている。
ユノの目が細くなる。
瞳孔が絞られ、視界の縁がゆるやかにぼやけていく。
中心だけが極端に濃く、鮮明になる。
ユノの目が細くなる。
(――入る)
考える前に、身体が動いた。
それは反射でも判断でもない。幾度も積み上げてきた訓練と実験が生んだ、“流れ”。
さらに一歩、踏み込む。
床板が悲鳴を上げ、霜が砕け散る。
右腕を畳む。
反撃に転じる暇は与えない。
ユノの身体は、もはや“動く”というより“繋がる”ように進んでいた。
体幹の中心――鳩尾の奥に潜む核が、全身の筋束を導く。
左の氷拳を振り抜いた直後、反動を殺すのではなくそのまま螺旋の軌道へと転換する。
捻じれた肩が素早く巻き戻る。
右の拳が、短く低い軌道で跳ね上がる。
狙いは顎ではない。胸骨の間、最も衝撃の抜けにくい部位。
氷の生成が追いつく。
右拳にも青白い薄膜のような結晶が瞬時に展開されていた。
魔力の暴走ではない。制御された負荷増幅。
剛力ではなく、正確な“伝導”のための補強。
(沈める)
肩、肘、拳。
三点が一直線に揃う。
右腕に氷はない。
だが魔力は、確かに集束していた。
皮膚の下で、圧縮された霊素が唸る。
――打つ。
捻る、というより――
圧縮する。
溜めた回転エネルギーを逃がさない。
そして。
解放。
拳がゼンの胸部へ叩き込まれた。
ドン――――ッ!!
音が遅れて追いつく。
衝撃波が室内を膨らませ、囲炉裏の火と湯気が同時に吹き飛んだ。
ゼンの身体が、後方へ持ち上がる。
踏ん張りはない。
受け流しもない。
純粋な衝突。
背中が、壁に当たる。
いや――
壁ごと、壊れた。
木材が砕け梁が裂け、外の冷気が一気に流れ込む。
ゼンの身体は建屋を突き破り、そのまま外へと投げ出された。
地面に叩きつけられる音。
土と霜が跳ね、空気が震える。
――静寂。
壊れた壁の向こうから、足音が響いた。
コツ。
コツ。
ユノが、瓦礫を踏み越えて歩いてくる。
「ハッ……!」
笑い混じりの息。
「隙だらけだぜ!
元・英雄さんよォ!!」
氷の霧が彼の周囲を漂う。
呼吸に合わせ、白い息が吐き出される。
外。
ゼンは地面に仰向けに倒れていた。
――だが、呼吸は乱れていない。
肩も落ちていない。
ゆっくりと身体を起こす。
土埃を払うこともなく、胸を押さえることもなく。
何事もなかったかのように。
ただ、視線がわずかに落ちる。
右腕。
胸部。
自分の内側。
(……灰式が、繋がらなかった)
違和感が、まだ残っている。
氷の魔力。
拳の軌道。
それだけではない。
――干渉点が、消えた。
魔力がぶつかる“前提”が崩された。
ゼンは、ゆっくりと息を吐いた。
(魔力の位相が……ずらされた?)
完全な零位ではない。
だが、限りなく近い。
ユノの拳には未完成な模倣核が生む歪みがあった。
干渉点そのものを“定義させない”乱れ。
ゼンは、そこで初めて理解する。
――ああ。
これは、力で殴られたわけじゃない。
条件を崩されたのだ。
視線を上げる。
ユノがにやりと笑っている。
霜が再び床を這い始める。
灰庵亭の残骸を挟み、二人の距離は十歩ほど。
静と動が、拮抗する。




