第139話 氷刃
囲炉裏の火が低く、くぐもった音を立てて揺れていた。
薪がはぜるでもなく、ただ赤い芯だけが静かに脈打つように揺らめいている。
ゼンは厨房へ向かおうとした足を止め、そのまま背を向けて立っていた。
室内の空気が、わずかに張り詰める。
背後で椅子が引かれる音がした。
木と床が擦れる、ごく控えめな音。
――カシアンが立ち上がったのだ。
その所作には相変わらず無駄がなかった。
衣擦れの音すら、計算されたように小さい。
「――私は」
穏やかな声だった。
あまりに穏やかで、場の緊張と噛み合わないほどに。
「あなたを迎えに来たのですよ」
一拍、間を置いて。
「元・蒼竜騎士団隊長
――ゼン・アルヴァリード」
名が呼ばれた瞬間、空気がわずかに沈んだ。
音が消えたわけではない。
火の揺らぎも湯気の流れも、ほんの一瞬だけ速度を落としたように感じられる、――時間の軋み。
ゼンはゆっくりと振り返った。
表情は変わらない。
怒りも驚きも困惑もない。
ただそこにあったのは、相手の言葉を咀嚼し、噛み砕くための静かな視線。
「……意味がわからんな」
低く、乾いた声。
「迎えに来た?
俺はここで暮らしているだけだ。
招待状を出した覚えも、荷造りをした覚えもない」
その声音は冷ややかだった。
拒絶というより、事実確認に近い。
カシアンは首を傾げることも、表情を変えることもなく淡く微笑んだ。
相手の反応が想定内であることを示す、ごく薄い笑み。
「ええ。そのままの意味です」
彼は一歩、卓から離れる。
「あなたを、この場所から“連れて行く”という意味で。
……これでも私は、最大限の敬意を示しているつもりなのですが」
意味深な言い回し。
柔らかいが、逃げ道のない言葉。
ゼンは目を細めた。
理解できないわけではなかった。
むしろ、ずっと前から察していた。
――自分の中に残るもの。
――死の呪い。
――魔神族の霊素。
――封じきれていない“終焉の残滓”。
それが放置されるはずがないことも。
帝国という巨大な構造が、それを“危険因子”として見逃すはずがないことも。
カシアンの言葉の端々に滲む、
政治的圧力。
管理者の論理。
そして、冷ややかな攻撃性。
ゼンは、すべてを理解した上で――
静かに言った。
「……それでもだ」
ゼンの声は低く、どこまでも静かだった。
力強さを誇示するでもなく、相手を威圧するでもない。
だがそこには、一片の迷いも含まれていなかった。
長い時間をかけて沈殿し、磨かれ、すでに揺るがぬものとなった意思だけが淡々と響く。
「俺はどこにも行かない。
ここを離れるつもりはない」
囲炉裏の中で薪がぱちりと弾けた。
その乾いた音が、張り詰めた空気に小さな波紋を広げる。
火の粉が舞う赤橙の光。その明滅が梁を照らし、影をわずかに揺らした。
「ここで飯を作って、
畑を耕して、
来る客に茶を出す。
……それだけだ」
ゼンは視線を逸らさない。
カシアンを正面から捉えたまま、言葉を続ける。
「それ以上の役目を、俺はもう引き受けない」
それは拒絶だった。
だが感情に任せた拒絶ではない。
戦場をいくつも越え、生き残り、すべてを見尽くした者がようやく辿り着いた結論だった。
カシアンはその言葉を聞いて、やはり微笑んだ。
それは温度を持たない微笑だった。
共感でも哀惜でもなく、ましてや嘲笑でもない。
あらかじめ想定していた答えが、寸分違わず提示されたことを確認した者の――
“確認の笑み”。
「言ったでしょう?」
声はあくまで穏やかで、角がない。
だがその穏やかさこそが、決して覆らぬ前提を優しくも整然と内包していた。
「最初から、あなたに“選択肢はない”と」
カシアンは一歩、前へ出る。
その距離はわずかだったが、空気の密度が変わるには十分だった。
「すでに帝国は正式に、あなたを“捕縛対象”として指定しています」
淡々とした口調。
感情の起伏を排した、事務的な宣告。
「私は直々にここを訪れました。
元英雄であるあなたに、最大限の敬意を払うために」
その視線がふと、ゼンの背後へ流れる。
囲炉裏、調理台、磨き込まれた包丁、古びた梁。
人が暮らし、息をつき、日々を積み重ねてきた確かな空間。
「できれば、手荒な真似はしたくない」
沈黙が落ちる。
ゼンは短く息を吐いた。
それは諦めでもなく、嘆きでもない。
ただ言葉の裏にあるものを正確に理解した者の、穏やかな呼吸だった。
「……手荒な真似、か」
口元に、ほんのわずか笑みが浮かぶ。
それは嘲りではない。
怒りでもない。
どこか懐かしさを帯びた、遠い記憶に触れたような表情だった。
かつて幾度となく耳にした言葉。
秩序の名のもとに振るわれる、優しい顔をした暴力。
そして何事もなかったかのように。
ゼンは止めていた足を再び前へと動かした。
その所作は日常そのものだった。
厨房へ向かう、ただそれだけの動き。
――その瞬間。
「――話、聞いてんのかよ!!
おっさん!!!」
背後から声が弾ける。
同時に、温度が落ちた。
それは「冷えた」というよりも、暖かさが削り取られたと表現するほうが近い。
さきほどまで肌の表面を撫でていた囲炉裏の残熱が、薄い皮膜ごと剥がれ落ちる。
代わりに冷え切った層が床下からせり上がり、足首を絡め取るように這い回った。
足裏から、脛、膝へ。
空気が、重くなる。
身体を包むというより、下から侵食するように広がっていく鋭い冷気。
霊素濃度が急激に上昇し、魔力の流れがひとつの方向へ収束していく。
視覚ではまだ何も変わっていない。
光も、色も、揺らぎもない。
だが耳の内側が先に理解した。
この空間の“条件”が変わった、――と。
床を蹴る音が鳴る。
乾いた衝撃が板材を震わせ、その振動が柱を伝いながら天井へと走る。
足首、膝、股関節。
三つの関節がほぼ同時に伸展し、溜められていた推進力が一直線に解放された。
ユノの身体が、前方へ射出される。
跳躍ではない。
踏み込みだ。
低く、鋭く、地面を押し潰すような加速。
その一歩が放つ衝撃の中で、霜が散った。
空気中に含まれていた水分が一斉に凝結する。
目に見えない粒子が白い結晶へと変わり、微細な破片となって宙を舞う。
それは攻撃の副産物であり、氷属性特有の兆候だった。
未完成の零位模倣核が、
ゼンという“基準点”を感知した瞬間――
――キィン、と。
音ではない。
耳を通さず、頭蓋の内側を直接叩くような鋭く不快な振動。
擬似的に組まれた位相が本物の零位へと強く引き寄せられる。
その差異に耐えきれず、模倣核が悲鳴を上げている。
抑制構文が追いつかない。
制御用の魔導回路が過剰な情報量で詰まり、行き場を失った魔力が表層へ噴き出した。
――氷刃が、生成される。
冷却された魔素が瞬時に結晶化し、刃状へと固定される。
結晶構造は異常なほど均一。
分子の並びに乱れがなく、刃の縁は理論上の最薄を維持している。
それは質量よりも概念としての「鋭さ」を帯びた武器だった。
光を反射し、白い線となって空間を走る。
切り裂かれたのは物体ではない。
空気そのものだ。
圧縮された前方の空間が弾け、遅れて低い破裂音が響く。
音は、常に一拍遅れる。
それだけこの斬撃が速く冷たいことを証明していた。
だが――
ゼンは振り向かない。
視線も、変えない。
彼が行った動作はただひとつ。
足を置く位置を、数センチずらしただけだった。
重心が静かに移動する。
踵から母趾球へ。
体重が滑らかに流れ、床との接点が再構築される。
骨盤がわずかに回旋し、肩のラインがそれに遅れなく追従する。
それだけ。
攻撃を「避けた」のではない。
攻撃が通過する空間から、自分の質量を外しただけだ。
ユノの氷刃はゼンが“いたはずの位置”を正確に切り裂く。
そこには何もない。
冷気だけが残響のように漂い、白い霧となって床へ沈んでいく。
刃は“当たるべきもの”を失ったまま慣性に従い、振り抜かれて床板に霜を刻む。
パキ、と短い音がして、
板材の表面に細かな亀裂が走った。
ユノの身体がわずかに前へ流れる。
踏み込みが強すぎた。
加速に対して、回収が追いついていない。
重心が前に出すぎている。
ほんの一瞬――
だが、戦場では致命的になり得る隙。
その瞬間、ゼンが口を開いた。
「……若いな」
低い声。
音量は小さい。
だが、不思議とよく通る。
叱責でも嘲笑でもない。
評価ですらない。
ただ現象を観測した者の、淡々とした結論だった。
囲炉裏の火が、大きく揺れる。
空気が動いたわけではない。
この場に集まった“意志”の総量が変化したのだ。
薪がはぜ、火の粉が舞い上がる。
灰庵亭の中で――
湯気と霜と、静寂と緊張が幾層にも重なり合う。
誰もが無意識のうちに理解していた。
これは乱闘ではない。
脅しでも、示威でもない。
ここから先は、“戦場の呼吸でしか踏み込めない領域だ”ということを。
ゼン・アルヴァリードの背中は、相変わらず穏やかで変わらない。
だがその立ち方はいつの間にか――
確かに、
戦う者のそれになっていた。




