第138話 どちら側につくにせよ
彼らの姿は、まるで“宗教的な儀式”のために作られたかのようだった。
全身を覆う黒の法衣のような装束。
それは単なる軍服ではなく、むしろ何かしらの「儀礼」を思わせる意匠だった。
袖口や裾には銀糸で精緻な文様が刺繍されている。
渦巻く双環の印、崩れた星々の象り、重なりあう七芒の影。
それらはどれも、帝国の中でも“神聖でありながら忌避される信仰”に関わる禁秘の象徴だった。
頭には兜ではなく、顔を覆う黒紗の面布。
その下の表情は見えない。
目元すらも、透けていない。
だが――気配はあった。
見ている。
聞いている。
命令を待っている。
すべてが沈黙の中にありながら、そこには確かに“意志”があった。
その気配に包囲されながらも、ゼンは眉ひとつ動かさなかった。
囲炉裏の前に座したまま背筋をただ真っすぐに保ち、手元の湯呑みから立ち昇る湯気をぼんやりと見つめている。火のぬくもりはまだ静かに足元を温めていた。だがそれは、いまこの空間に渦巻く異様な緊張を完全に打ち消すほどの安らぎではなかった。
窓の外には、もはや霧の気配さえない。
消えたのではない。
霧の帳が引かれると同時に、その隙間を縫うように立ち現れたのは――統率の取れた思考。
それは決して視認できるものではなく、匂いもなければ音もない。
けれど、いる。
確かに“そこに流れている”と感じさせる、鋭利で圧縮された存在の輪郭。
空気は張り詰めていた。
音なき包囲。霧を割って現れた影の兵たちは、まるで生ける祭具のようにそこに在った。
その静けさの中で、カシアンが口を開いた。
「……私が今、誰を目の前にしているか」
彼は穏やかに言った。
「理解していないわけではありませんよ」
その声色には一片の揺らぎもなかった。
決して相手を下に見ない。
だが、いたずらに持ち上げることもしない。
その言葉の端々から滲み出るのは、計算ではない――“知っている者”の語り方だった。
敬意。それも、形式的なものではない。
軍事的な格付けによる上下関係でもない。
もっと根深く、あるいはもっと透明な、目の前の存在を“理解した者”だけが示し得る純然たる敬意。
「あなたに“戦い”を挑むつもりなどありません」
カシアンは杯を手にしながら、再びそれを口元へと運んだ。
仕草はどこまでも静かで、指の動きひとつ乱れていない。
「私はただ、あなたに“知ってもらいたい”のです」
再び語られたその言葉は、控えめでありながらも“重さ”があった。
響きとしては優しい。だが、その奥にある“伝えようとする意志”が確かに感じられる。
それは圧ではない。脅しでもない。
だからこそ、逆に逃れようのない密度を帯びていた。
ゼンはそれを真正面から受け止めたわけではなかった。
むしろ少しだけ目を伏せ、火の粉のはぜる音に一呼吸の間を置く。
肩がわずかに落ちる。息が抜ける。
ただそれだけの動きに、彼の“答えたくなさ”がにじんでいた。
だが――逃げるような素振りではなかった。
言葉を返す代わりに、彼はその重みを丸ごと抱え込んだ。
それは問われ慣れた者の沈黙であり、言葉の重さを知る者の呼吸だった。
「……俺には関係ないことだ」
それだけを言って、立ち上がる。
動きに力みはない。
だがその背筋は、まるで誰にも触れさせない“意志の壁”のようでもあった。
「朝の仕込みがある。……邪魔をするな」
そうだけ言い残し、ゼンは踵を返す。
無言のまま厨房のほうへと歩き出す。
その背中に――カシアンはふっと目を細めた。
そして、静かに囁いた。
「……私は、光の国に生まれましたが」
「光の持つ力や導きを、今まで信じたことはありません」
ゼンの足が、一瞬だけ止まる。
カシアンの声音は、いつもと変わらぬ穏やかさを保ちながらも――
その内に宿る“冷えた刃”が、空気を裂いた。
「私が物心ついた頃から、王宮では“正しさ”が語られていました。
七神の秩序。調和。栄光。
すべては善であり、すべては救いであると」
彼は手元の茶杯を見つめ、指先で縁をなぞるようにゆっくり回す。
「ですが、私は幼いころからそれに違和感を抱いていました。
……なぜ、正しさの名のもとに、苦しんでいる者がいるのか。
なぜ、光の恩寵を受けているはずの国で、誰も彼もが“恐れていた”のか」
声に感情はない。だが、凍てついたような確信がある。
「光は、誰かを“選ぶ”のです。
導くために、選ばれた者だけを照らし、
それ以外の者は……光の外に追いやられる」
ゼンの背に、ゆっくりとその言葉が染み渡っていく。
「その選別は、静かです。
しかし確実で、誰にも抗えない」
カシアンはわずかに目を伏せた。
「だから私は、信じなかった。
光ではなく――“測ること”を選びました」
彼が背後に潜ませる兵たちはひと言も発せず、ただそこに立つ。
だがその空気はまるで“刃の鞘”を並べたように、ひしひしと重い。
ゼンは静かに振り返った。
その瞳は相変わらず濁りなく、燃え残った薪を見つめるような強さと透明さを湛えていた。
「光とは本来、何かを外に追いやるために存在しているわけではありません」
囲炉裏の火に照らされた彼の横顔は、ひどく静かだった。
声は低く、抑えられている。だがその奥にあるものは感情の昂ぶりではない。
それは長い時間をかけて堆積した記憶が、今ようやく言葉として掘り起こされるときに生じる“かすかな震え”だった。
彼の視線は火ではなく、さらにその向こう――
帝都の白石の街路でも神殿の天蓋でもない、
光が届かず、しかし確かに人が生きていた場所へと向けられていた。
「光は、進むべき道を照らすものです。迷った者に輪郭を与え、足元を確かめさせるためのものだ。
……少なくとも、そう教えられてきました」
一拍、間を置く。
囲炉裏の焔が、薪の割れ目をなぞるように小さく鳴った。
「けれど、この国の光は……いつの間にか選別を始めてしまった。
導きではなく、区別のために使われるようになった。
“正しき者”と“そうでない者”。
“選ばれし者”と、“選ばれなかった者”。
その境界線を引くために、あまりに容易く“光”が掲げられた」
そこには怒りも糾弾もない。
あるのは、理路を尽くして辿り着いた結論だけだった。
「ゼン。あなたも、見てきたはずです」
名を呼ばれた瞬間、言葉の矛先は鋭さを持たないまま逃げ場を失った。
それは責めではなく、確認だった。
「先帝セント=ルクレティア六世の治世。
帝都セレスティアが“永光の都”と呼ばれていた時代。
白い聖街が拡張され、光脈灯が夜を昼のように照らしていた裏側で、その光に一度も触れぬ街が確かに存在していました」
彼は具体的な名を挙げない。
影市。
地下孤児街。
記録から抹消された居住区。
それらは語られずとも、ゼンの記憶の底に正確な輪郭を持っていた。
「整備される聖街の陰で、延びていった影の路地。
聖水が配られる広場の裏で、乾いた喉を抱えた子どもたち。
あれが……“聖皇国”の実態です」
カシアンの声は静かだったが、そのどれもが確信に満ちていた。
「神の名のもとに秩序を掲げながら、この国は自らの足元を意図的に暗くし続けた。
光が強くなればなるほど、影は深くなる――
その単純な理を、彼らは理解していなかったのではない。
理解した上で、見ないことを選んだのです」
囲炉裏の熱が背中越しに伝わってくる。
ゼンは応えなかった。
振り返ることも、視線を合わせることもない。
ただ歩みを止めたままそこに立っていた。
「……あなたがこの山で“灰庵亭”を開いた理由が、
ただ平穏を求めた結果だとしても」
カシアンは言葉を選びながら続けた。
「私は、それだけでは片付けられないと思っています」
声音がわずかに強くなる。
それは断定ではなく、彼に対する理解に近いものだった。
「あなたは戦場で何度も“秩序の崩れた光”を見てきた。
大義を語る指導者たちと、腐敗していく前線。
正義の名のもとに積み上がる死と、記録に残らぬ犠牲」
薪がはぜ、火の粉が舞う。
「それでもあなたは、戦い続けた。
奪うためではなく押し返すために。
斬るためではなく、守るために。
光を振りかざす者たちの中でただ一人、影を背負って」
カシアンはそこで一度、息を吐いた。
「私は……あなたとは違う選択をしました」
その言葉には、優劣はなかった。
「私は“影”を見ることを選んだ。
この国の表層ではなく、裏を。
誰が救われ、誰が切り捨てられているのか。
なぜ聖なる教えの名のもとに、
あれほど多くの子どもが、兵士が、騎士が、
ただ“使い潰されるだけの存在”になったのか」
その声は、もはや誰かを説得するためのものではなかった。
言葉を武器として磨き上げてきた者特有の鋭さは影を潜め、代わりに滲んでいたのは、長年胸の奥に澱のように溜め込んできたものをようやく外へと流し出す諦念だった。
それは主張ではなく告白に近い。あるいは、ずっと口にすることを許されなかった懺悔だったのかもしれない。
「民を守るはずの制度が……制度であるがゆえに、個を押し潰す。
正義を語る剣が、正義の名のもとにもっとも声の小さな者を斬る。
……その歪みを私はこれ以上“見て見ぬふり”はできなかったのです」
言葉は淡々としていたが、そこには長年、枢機院と聖皇院の狭間で積み重ねられてきた現実があった。
条約、婚姻、均衡、信仰――どれも「世界を守る」ために用意された装置でありながら、いつしか装置そのものが目的化し、人を数としてしか扱わなくなっていった歴史。その最前列に立たされ続けてきた者の声だった。
彼は一度、茶杯を静かに卓へ戻した。
器の底には霧茶がわずかに残っている。かつては香り高く、身体を温め、心を落ち着かせたはずのそれも、今ではすっかり冷えただの液体へと還ろうとしている。
――理想も、同じだった。
光を掲げ、秩序を説き、正義を語った国家がいつの間にか“形骸化した正しさ”だけを残して冷え切っていった。その縮図が、そこにあった。
「私は、この国を変えたいと考えています。
……否。変えねばならない、と確信しました。
光が、再び光として機能するために。
そのためには、一度――根幹から、見直さねばならない」
言葉の端々に、覚悟が滲む。
それは理想論ではなく、すでに後戻りのできない地点に立っている者の声音だった。
ゼンは静かに口を開いた。
「……俺に、それをどうしろと?」
振り返らない。
囲炉裏の火を背に淡々とした口調で投げられたその言葉には、拒絶とも諦めともつかぬ硬さがあった。
それはまるで古い傷に不用意に触れられたとき、反射的に身を引くような反応だった。
カシアンはすぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
薪がはぜる音だけが、灰庵亭という閉じた空間の輪郭を静かになぞる。
やがて、彼はようやく言葉を選ぶように口を開いた。
「……結論から申し上げます」
カシアンの声は、終始変わらず静謐だった。
だがその静けさの質がわずかに変わったことを、ゼンは見逃さなかった。
先ほどまでの声音は、整理された理性の延長に過ぎなかった。
しかし今のそれには硬く沈殿した何か――
避けがたい“重さ”が含まれている。
「あなたが、どちら側につくにせよ――」
そこで、わずかな間が置かれた。
意図的な沈黙。言葉の刃を研ぐための、短い呼吸。
「――選択の余地はありません」
その一言で、空気が沈んだ。
威圧ではない。
命令でもない。
ましてや感情に任せた高圧的な言辞でもなかった。
それはすでに決定されている結論を、ただ“事実”として提示するための声音だった。
抗う余地を与えない冷えた誠実さ。
否定も肯定も不要とする、完成された断定。
「封じたまま山で暮らすという選択も、
力を制御し、帝国に関わるという選択も――」
カシアンは視線を逸らさない。
王族特有の、相手の反応を測らない目。
「どちらを選んでも、あなたは“観測対象”であり続けます」
その言葉は刃物ではなかった。
むしろ、透明な檻に近い。
「あなたはもう、世界の「外」には出られない。
それが……終焉戦役の“代価”です」
ゼンは黙ってそれを聞いていた。
怒りも、反発も、驚きもない。
ただ胸の奥で、ひとつの感覚がゆっくりと形を取っていく。
――ああ、やはりそうか。
予感は、ずっと前からあった。
世界を救った代償が何もないはずがないことなど、
彼自身がいちばんよく理解していた。
カシアンの言葉は整いすぎている。
論理に綻びはなく、事実の積み上げにも嘘はない。
だがその端々に、奇妙な“澄みすぎた感触”があった。
あまりにも感情の揺らぎが排除されている。
王子としての言葉。
帝国の構造を熟知する者としての分析。
そして、彼自身の内側にあるはずの想い。
それらは確かに並べられている。
だがどれも等距離で、どれも“表層”だ。
ゼンは直感的に理解していた。
――この男の奥底には、言葉では言い表せないほど深い闇がある。
――彼の語ることは嘘ではない。だが、本心ではない。
測る者。
管理する者。
均衡を理由に、切り捨てることを選べる者。
それが、カシアン・ルクレティアという存在だった。
「……そうか」
ゼンは短く息を吐いた。
感情を殺した声ではない。
むしろ、諦念に近い静けさ。
選択の余地はない。
その言葉が、ゆっくりと室内に染み出していく。
そして――
その滲みが、黒く、重く、冷たい“気配”へと変わった、
まさにその瞬間だった。
――ドンッ!!
鈍い衝撃音が、空気を叩き割った。
灰庵亭の扉が、内側へと勢いよく蹴り倒される。
木材が悲鳴を上げ、蝶番が歪み、霧を切り裂くような破壊音が谷へと反響した。
冷気が一気に流れ込み、囲炉裏の火が大きく揺らぐ。
火の粉が舞い、影が壁を這った。
「っはぁ〜……」
場違いなほど間延びした声。
コキッ。
コキコキッ。
首を鳴らしながら、ひとりの少年が踏み込んでくる。
青白い短髪。
鋭く細められた蒼の瞳。
口元には不良めいた、軽薄とも取れる笑み。
年若い――
だがその佇まいには、明らかに“場数”の匂いがあった。
「いやぁ〜……さっぶ。
山ってマジで冷えんな。
氷属性の俺でもキツいわ」
そう言って少年は無造作に肩を回す。
その瞬間、空気が変わった。
物理的にではない。
魔力の“密度”が、明確に変質した。
室内に満ちる圧。
肌の上を滑る、見えない冷気。
ゼンの目がわずかに細まる。
――人造魔導兵。
しかも未完成。
試作段階の核を抱えた、不安定な存在。
零位性に引き寄せられるよう設計された、粗悪で危うい“模倣品”。
「……011号」
カシアンが、名ではなくコードで呼んだ。
少年は振り向き、にっと笑う。
「はいはい。Prototype-011。
でもさ、名前あるんだけど?
ユノって言うんだよ、王子サマ」
軽口。
だがその背後で、強大な魔力が蠢いている。
床に薄く霜が広がり、空気中の水分が軋む音を立てる。
氷が――
“音”として鳴いていた。
ユノ・グレイア。
その視線がゼンを捉えた瞬間。
埋め込まれた擬似零位核が、はっきりと反応を示した。
「……あ」
ユノが、目を瞬いた。
「なにこれ。あんた……すげぇな」
声色が、わずかに変わる。
「近くにいるだけで頭の奥がキンってする」
笑みは消えない。
その奥で、生々しくも繊細な“捕食者の色”が滲み始めていた。
未完成の模倣品が、本物の“零位”を前にして本能的に震えている。
カシアンはその様子を静かに見据えたまま、小さく微笑んだ。




