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第137話 純然たる「最強」の持つ間合い



ゼンは茶をひと口啜った。

温度は少しだけ落ち、香りがやや丸くなっていた。

その些細な変化に、微かに息を吐く。


囲炉裏の火はゆるやかに薪を舐めるように燃えていた。

静けさは変わらず、しかし空気の密度が違っていた。


カシアンの言葉は明確だった。

だがその奥にある「本当に伝えたいもの」は――まだ姿を見せていなかった。


ゼンは湯気の奥、目の前に座す王子を見た。


その身のどこにも隙がなかった。

姿勢、指先、まばたきの間隔すらも、すべてが“意図された所作”だった。

語られる言葉は柔らかく、気品に満ちている。

だがそこには明確な警戒と、測定があった。


――あぁ、こいつは俺を“観ている”。

観察し、測っている。

まるで実験体を見る科学者のように。

けれどどこか――温かくすらある。


ゼンは杯を置き、身体をわずかに前へ傾けた。

言葉を選ぶのではなく、拾う。

カシアンがあえて曖昧にした部分に、まっすぐ指を差すように。


「……未然に防ぐ、と仰られましたね それはつまり……何を?」


火がぱちりと弾けた。

灰がふわりと浮き、空気の色が一瞬だけ揺れる。


カシアンのまなざしがわずかに動いた。

瞼の奥で、何かを計算するような静かな沈黙。


「“何を”と問われれば……それはあらゆる事象を含みます」


その返答は穏やかだった。だが即答ではなかった。

まるで“応じるかどうか”を、その場で天秤にかけた末に返された答えだった。


「国家の均衡。帝都の安定。

……そして、あなた自身がこのまま“存在し続けること”によって、起こりうる未来への……予防線」


その言葉には明らかに“含み”があった。

ゼンという存在に対する、理解しがたい力への無力さと、――それゆえの管理欲。


「……自覚はある」


ゼンは応えた。低く、しかし曇りなく。


「俺が“危険な存在”であることくらいは、ですが。

自分自身、この身に何が巣食ってるか、正直まだ掴みきれてない。

しかしそれでも……このまま平穏に暮らせないってことくらいは、わかっている」


外の冷気が、わずかに戸の隙間から入ってきた。

囲炉裏の炎がそれに応じて揺れ、湯気が斜めに伸びる。


「だが、だからと言って――」


ゼンの声に芯が入る。

茶を啜るような穏やかさは消え、代わりに、剣を構えぬまま踏み込むような静かな“構え”が生まれる。


「だからといって、俺に何を望むのです?」


カシアンの指が、杯の縁をそっと撫でた。

その手の動きには焦りも怒りもない。ただ、確かな“計算”が宿っていた。


「……望む、とは違います。私はただ、確認しに来たのです」


「何をだ?」


ゼンの問いは鋭い。

まるで刀の切っ先を、静かに相手の喉元へ向けたような問いだった。


カシアンの唇がわずかに動き、止まる。

その一瞬の躊躇いに、ゼンは“何か”を感じ取った。

この男が――言いたくない何かを抱えていることを。


「……あなたが、“どちら側に立っているか”を」


ようやく発せられた言葉は、静かに空気を凍らせた。


「封じたまま過ごすのか。

あるいは……その力を自らの意志で制御しようとするのか。

私は、その分水嶺を見極めに来ただけです」


ゼンは眉をわずかに寄せた。

それは怒りではない。

ただ、火にかざした手にふと火傷の痕が疼いたような――そういう、微かな感覚。


「……カシアン王子。あなたは最初からわかってて来たんですね。

俺の中に、まだ“奴”がいることも。

それを放置しておけば、何かが始まるってことも」


カシアンは頷きもしなかった。

ただ、静かに――その視線で、肯定を示した。


「なら、俺をどうするつもりだ。

監視するか? 殺すか? 封印するか?

それとも……」


ゼンの声は静かだった。

だがその瞳には、“戦場”での強い光と意思が宿っていた。


カシアンはその光を正面から受け止めながら――あくまでも静かに、こう返した。


「……できれば、共に考えてほしいのです。

この“余生”に、もうひとつ――“選択肢”を加えていただければと」


風が外の木々を揺らした。

谷の霧が、窓の外にゆっくりと流れていく。


空気を揺らす火の音だけが、穏やかにこの空間を満たしていく。



その時カシアンが、ふっと笑った。



その唇の端にわずかな余裕が滲み、すぐに元の静謐へと戻る。


そして、手にしていた杯を――コト、と静かに卓へ置いた。


わずかな音。

だが、それは確かに“合図”だった。


瞬間。


灰庵亭の外に広がっていた霧が、空気ごと震えたように感じられた。

森の奥、岩陰、屋根の上。

先ほどまで何の気配もなかった周囲に――突如として“生の気配”が立ち上がる。


それは、精密に調律された弦が一斉に震えたかのような、見事なまでの連携と呼吸。

静寂を破ることなく、しかし確かに空間を“制圧”するような、圧倒的な“気”の波。


殺気。


否、それは殺意すらも洗練された、

“国家の影”による――無音の包囲網。


ゼンのまなざしが、わずかに動いた。

扉の向こう。窓の外。屋根裏。

感覚が、己の周囲に浮かび上がる“存在”の数と位置を即座に把握していた。


数十。

それも、ただの兵ではない。

それぞれが完璧な呼吸制御と、魔力の干渉を抑え込んだ隠密行動の熟練者。


――なるほど。


ゼンはその場でわずかに顎を引き、感心すらしたような表情を見せた。


これが噂に聞く、帝国直属の影の精鋭――

《神聖魔導兵団》か。


確かに、これほどの気配をすべて遮断し、なおかつあの合図ひとつで連動できる部隊など、そうそう存在するものではない。


さすがは“影を持つ王子”の手駒。

だが――


「……力ずくで、俺を黙らせるつもりか?」


ゼンの声は、あくまで穏やかだった。

杯を持つ手すらも微動だにしない。

囲炉裏の火を背に、ただ静かにその目をカシアンに向けていた。


挑発でもなく、怒りでもない。

ただ、淡々と――現実を指差すように。


「いいだろう。それでも構わん。

“戦い”を選ぶというのなら、そうすればいい」


霧の外からわずかに草を踏む音がした。

緊張が、張り詰めていく。


だが、ゼンの所作は変わらない。


「だが、問おう」


火のはぜる音の隙間に、彼の声が落ちる。


「その選択肢に――勝機はあるのか?」


それは、静かなる“断罪”だった。

脅しでも誇示でもない。

ただ、事実を確認しているだけの声音。


――そして、それが何よりも重かった。


この男は、戦いを恐れていない。

いや、それどころか、まるで“結果”すらも計算に入れている。

それはこれまで多くの場で“力を振るってきた者”だけが持つ、冷徹なるまでの“絶対”だった。


この場面に立ち会っていたとすれば、誰しもが思っただろう。


――これがゼン・アルヴァリード。

かつて世界を救った、あの男の在り方そのものだと。


常に冷静。

状況を瞬時に把握し、己の立場も、相手の意図も、環境すらも見誤らない。


そのうえで無益な戦いは避ける。

だが、必要とあらば――“躊躇なく引き金を引ける男”。


その強さは剣の速さでも、魔力の大きさでもない。


「迷いがない」こと。

ただそれだけ。


戦場では、それが何よりも恐ろしい。

そして最も尊敬される“指揮官の資質”だった。



“その選択肢に――勝機はあるのか?”



その問いは、ただの確認だった。

ゼンにとって、戦うという行為に特別な意味はない。

怒りや憎しみと結びつくものでもなく、誇りや義務に依拠するものでもない。


戦うべき時に、戦うだけ。

ただそれだけの話だ。


彼が剣を抜くということは、つまりそういうことだった。


感情の高ぶりに身を任せる者でもなく、勢いに任せて力を振るう者でもない。

彼が動くとき、そこには“決断”がない。

いや、正確には“決断という手続き”が存在しないのだ。


すでに全てが“終わっている”かのような在り方。

状況を把握し、選択肢を分析し、結果を予測し……

――そんな手順を経る前に、ゼンは“正しい地点”に立っている。


その動作は、まるで自然現象のようだった。

風が吹けば木の葉が揺れるように、

火を灯せば煙が上がるように、

ゼン・アルヴァリードという男は、状況に最適化された“動き”を最初から備えている。


それは、まさに“現象”。


人の意思を超えた、構造的な“動きの必然”。


彼が本気になれば、帝国の全軍をもってしても抑え込めるかどうか分からない――

そう囁かれるのも、誇張ではなかった。

終焉戦役の最終盤。

“最後の城門”と呼ばれた戦場にて、彼はただ一人で七つの門を守り抜いた。

一晩で二千の兵を退け、その名を聞いただけで敵兵が退却を始めたという逸話すら残る。


だが、ゼンは自身の力に慢心もしなければ誇示もしない。

それは“持ってしまったもの”でしかなく、今ではただ――人を斬らずに済むなら、その方がいいと考えているだけだ。


だからこそ恐ろしい。

“躊躇なく斬れる者”が、“可能な限り斬らないことを選ぶ”時、それが意味するのはただ一つ。



――“彼が斬ると決めた時点で、すべてが終わっている”ということ。



風に触れた葉が揺れるように。

湯気の立つ鍋の蓋を、音を立てずにそっと閉じるように。

ゼンの視線の運び、呼吸の間合い、言葉遣いのひとつひとつが、透き通った清流のように一片の澱みもなく澄んでいた。


迷いがない。


どれだけ多くの者が、戦場でそれを手に入れようと望んだことか。

どれだけの英雄たちが、そこに届かずに散っていったことか。


迷いがない者は強い。

だが“迷いを捨てる”のではなく、“最初から存在しない”という領域に達した者は、もはや強さという領域や次元では正確に語れない。


彼の中には判断も、逡巡も、選択もない。

ただ――最適な“動き”が存在しているだけ。


この場で剣を抜けば、どうなるか。


ゼンにとって、それは“言葉の問いかけ”ですらなかった。

それはまるで、降るべき場所に雨が落ちるような、

地形に沿って流れ落ちる水のような、

自然に抗うことのできない“必然”の一節だった。


カシアンがどう出るか。

それは、ゼンにとってどうでもよいことだったのかもしれない。


彼の本質は戦うことではない。

守ることでもない。

ただ、“正しい形で日常が在り続ける”こと。


そこに脅威があるなら、

それを排除するだけ。


理屈ではなく思想でもなく、

ただ――“そう在るべきだから”。



ゼンの視線が、外を一瞥する。


「相手をしてやっても構わないが、店は荒らさないでくれよ」


わずか数秒の静寂。


次の瞬間、

灰庵亭の周囲に、黒衣の者たちが姿を現した。


屋根の上、木々の影、裏口の物陰。

誰一人として気配を荒立てることなく、まるで“そこにいたことを認めただけ”のように、彼らは淡々とその身を晒した。


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