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第136話 美味しい料理を作るための条件



ゼンは言葉なく立ち上がり、炉の脇へと歩を進めた。

その背に、カシアンは何も語らずついてゆかない。

ただ扉を閉め、静かにそこに佇んでいた。


急須を手に取るゼンの動きには、焦りも警戒もない。

だがその一挙手一投足は、どこか“儀式的”だった。

それはただの作法ではなかった。


 ――言葉を交わす前に、静かに相手を“迎える”ための作法。


棚から選んだのは、浅彫りの陶器の急須。

霧渓窯――この谷でしか採れぬ白灰土を用いた窯のものだ。

その質感はやや粗く、だが手にしっとりと馴染む独特の肌合いを持つ。

指先でそっと蓋を取り、湯を注ぐ前に一度器そのものを湯で温める。


温めた湯はすぐに捨てられ、次に取り出されたのは――


青焙霧露せいばいむろ》と呼ばれる茶葉だった。


谷の南斜面で採れた若葉を霧水に晒し、薪火で乾かし、さらに三度焙煎することで香りを凝縮させたもの。

この茶は、熱湯では香りを飛ばしてしまう。

必要なのは、適温――熱すぎず、ぬるすぎず。

温度は七十八度。ゼンの中では、その数字がすでに“手の感覚”で刻まれている。


量も、時間も、正確に。

霧水で湿らせてから焙じた茶葉は、抽出の過程でゆるやかに膨らみ、器の中でゆっくりと“目を覚ましていく”。

まるで霧そのものを湯に溶かし、香りに変えていくかのようだった。


湯気が立ち昇る。

焦げた樹皮のような香りと、淡い蜜香が交じり合い、室内に静かに広がってゆく。


――谷の朝を、茶に閉じ込める。

それがゼンの“おもてなし”だった。


陶器の小杯に湯を注ぐ音は、ごく静かだった。

それでもこの空間には、確かに“音”として響いた。


ゼンは湯の温度を再調整しながら、二杯分を丁寧に注ぎ分けた。

一杯は自らの前へ。もう一杯は、客席へ。


「どうぞ」


その一言とともに、ゼンは茶を運ぶ。

無造作にではない。かといって形式的でもない。

“必要な距離と敬意”だけを持った動作だった。


カシアンはそれを受け取る際、軽く一礼した。

王族として生まれ育った者に染み付く、ごく自然な所作。

首を深くは傾けない。だが目線をわずかに落とし、相手に無礼とならぬよう敬意を示す。


椅子に腰かける動きもまた、音を立てることなく静かだった。

無駄な揺れや体重移動の癖がまるでない。

それは“騒がぬことが品格である”という思想の具現だった。


小杯を手に取るとまず湯気を嗅ぎ、ほんのわずかに瞳を細める。


「……素晴らしい香りです」


そして、ひと口。


舌を滑らせるように茶を迎え入れ、喉奥へと静かに通す。

決して音を立てず、咀嚼せず、余韻を鼻腔へ流し込む。


数秒の沈黙ののち、カシアンはようやく言葉を発した。


「……これほど穏やかな朝に、触れたのは久しぶりです」


杯を置いた彼の仕草には、どこか“王子”ではなく“ただの人”としての柔らかさが滲んでいた。

それは帝都の玉座の間では決して見せぬ顔だっただろう。


ゼンは向かいに腰を下ろすでもなく、囲炉裏の脇に立ったまま彼を見ていた。


カシアンの視線が、再びゼンへと戻る。


そしてその眼差しの奥に――ほんのわずかな“素”が浮かぶ。


「……なぜ、このお店を開こうと思ったのです?」


問いは、予想外だった。

いや、“来る”とは思っていたが、“最初にそれを問う”とは思っていなかった。


なぜこの場所に?

なぜ灰庵亭を?

なぜ料理を、仕込みを、朝を?


それは――


“戦いの果てに、何を選んだのか”を問うもので、その言葉はまるで温かな茶のように、しんと静かに空間に染み渡っていた。


問いかけに込められた音には、威圧も軽蔑も、あるいは探りの含意すらない。


ただ、淡々と。

率直に問われただけなのだと、ゼンは感じた。


けれどそれが“本当に聞きたいこと”なのかはわからない。

この男の声には、しばしば意図が滲まない。

言葉の芯を探ろうとするより、受け止めることが先なのだ――そう思わせるものがあった。


ゼンは一呼吸、間を置いた。

囲炉裏の火がぱち、と音を立てる。

湯気がわずかに揺れ、煙が天井へと滲む。


「……ただ、静かに暮らしたかっただけだ」


そう言って、ゼンは炉の前の座布団へ腰を下ろした。


「戦争のあと、いろんな話があった。

地位も、勲章も、屋敷も……望めばなんでも手に入った。

ただ……望まなかったんですよ、俺は」


言葉は平坦で、まるで日常の中の独白のようだった。


「騎士団を抜けてから、山に入った。この谷を見つけたのは偶然だった。最初は不思議でした。ここに来たとき、心が――やっと地面に降りたような気がして」


ゼンの視線は囲炉裏の火に向けられていた。

語っているというよりも、火と話しているかのように。


「店を始めたのも、最初は村のじいさん連中の世話焼きでした。

“お前の飯はうまい、食わせろ”って感じで。

それが少しずつ広がって、客が来るようになって……」


ここまで語って、ゼンは茶の湯気を見つめるように息をついた。


「人気が出たのは……正直、想定外だった」


そこで、カシアンが小さく笑った。

嘲りではない。どこか懐かしささえ帯びた声音だった。


「……父上からいつも聞いていましたよ」


ゼンが顔を上げると、カシアンの目が茶杯の中を覗き込みながら続ける。


「あなたのことを。

戦場での判断力、冷静さ、情を持ちすぎない生き様。

“ゼンは本来、将軍としてではなく、もっと別の器を持つ人間だったのかもしれない”と」


その声に含まれるのは、讃辞でも評価でもない。

それはまるで、古い知人への手紙のような温度だった。


「……だからこそ、どこか痛むのです。

帝国が、あなたのような人間を手放してしまったことに」


ゼンは特に反応を示さなかった。

そうした言葉を受け取るのは慣れているのだろう。

褒め言葉のような、惜しむような――そうした評価は、彼の中ではすでに過去の出来事だった。


「いかがです?」と、カシアンは再び杯を持ち直しながら言った。


「帝都で店を開く気はありませんか?

このお茶ひとつでこの店がどれほど優れているかは、味わわずともわかります。

資金提供など、いくらでもご用意できますよ」


その口調は冗談のようでいて、完全に冗談でもない。

かといって、本気で誘っている風でもない。

あくまでも“可能性”を投げているだけのような、探るでもなく押すでもない距離感。


ゼンはふっと鼻で笑った。

わずかに顎を引き、火の中の灰が動くのを見つめる。


「余生ですよ、これは。

余った命を、余ったように使ってるだけです。

……戦のあと、どこへ行くか考えた。

で、何がしたいかって考えたら――“朝に火を起こして、腹の減った誰かに飯を出して、日が暮れたら静かに寝る”

ただそれだけで、十分でした」


その言葉に、カシアンは何も返さなかった。

ただ目を伏せ、湯気の中に何かを見ているような静けさを湛えていた。



「……余生、ですか」


カシアンはそう静かに呟き、茶杯の縁を細い指でそっとなぞった。

手元の動きにいささかの淀みもない。

目線、呼吸、背筋の角度まで――すべてが“整っていた”。


だが、その“整いすぎた”所作こそが、不気味な違和感を際立たせる。


彼の視線は微動だにせず茶の水面に落ち、その口元はわずかに笑っているように見えるのに、空気は微かに緊張を帯びていた。


「……ところで、ゼン」


唐突に、だが不自然ではない間でカシアンは口を開いた。

茶杯を持ち上げるでもなく、囲炉裏の火を見るでもなく、彼の視線は宙に固定されたまま――まるで、目の前に“見えない調理台”でも置いているかのようだった。


「料理をなさるあなたに、ひとつ伺いたい。

“美味しい料理を作るために、必要な条件とは何だと思います?”」


その問いはあまりに穏やかで、あまりに場違いだった。

だがゼンはすぐには答えなかった。

囲炉裏の火がぱちりと鳴り、灰が静かに沈む。その音だけが短い沈黙を埋めた。


カシアンは続ける。


「時間。手間。素材。設備。技術。

火加減、湿度、季節、作る者の体調……挙げればきりがない。

どれか一つ欠けても、“完成”とは言い難いでしょう」


そう言いながら、彼は茶杯をわずかに傾けた。

水面が揺れ、淡い光を反射して小さな波紋を描く。


「このお茶も同じです。

適切な温度、適切な時間、適切な葉。

少しでも条件を誤れば、香りは死に、味は濁る」


ゼンはようやく口を開いた。


「……条件、か。

俺にとっちゃ、腹を空かせた奴がいて、火があって、鍋があって、

あとは“作る気”がありゃ十分だと思ってる」


カシアンは否定しなかった。

むしろ、わずかに満足そうな気配すらあった。


「ええ。実にあなたらしい答えです。

では、なぜそう思うのです?」


「……腹が減ってる時に食う飯は、大抵うまい。

理屈より、状況だ。

それに、うまいかどうかは食った奴が決める。作る側が決めるもんじゃない」


ゼンは囲炉裏に薪を一本足しながら、続けた。


「だから聞きたい。

なんで、そんなことを俺に聞く?」


カシアンはその問いを待っていたかのように、静かに息を吸った。


「人は皆、幸福を求めて旅をしています」


その声は低く、柔らかかった。


「安寧の地。安全な時間。確かな秩序。

何が正しく、何が間違っているのか。

人はそれを探し続け、より“良い状態”へと進もうとする」


茶の水面が、再びわずかに揺れる。


「けれど――その旅路の中で、

“誰が、何を、どこで失っているか”を考える者は、驚くほど少ない」


ゼンは黙って聞いていた。


「美味しい料理がある、ということは、

必ずどこかで“材料が消費された”ということです。

火を焚けば薪は燃え尽きる。

時間をかければ、他の時間は失われる。

手間を注げば、その分だけ別の誰かの手が止まる」


カシアンは茶杯を静かに卓に置いた。


「均衡とは、そういうものです。

あらゆる価値は、天秤の上に置かれている。

そして天秤に乗るものは、必ず一つではない」


彼の視線が、初めてゼンを正面から捉えた。


「では、問います。

“人類の勝利”という名の料理は――

いったい、何を犠牲にして出来上がったのでしょうか?」


囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。

ゼンは答えなかった。

答えられなかったのではない。

答える必要がないほど、その問いが重すぎたからだ。


「人は、自分が口にしたものの“値段”を忘れがちです。

満腹になった瞬間、支払われた代価は記憶の外へ追いやられる」


カシアンの声は、あくまで静かだった。


「ですが、世界は忘れません。

均衡が崩れれば、必ずどこかで“揺り戻し”が起こる。

それは料理で言えば、焦げや、苦味や、

あるいは――食べた後に訪れる、遅すぎる腹痛のようなものです」


一瞬、ゼンの口元が歪んだ。

それが笑みだったのか苦渋だったのかは、判別がつかない。


「……回りくどいな」


「ええ。ですが、直截すぎる言葉は、時に人を思考停止させる」


カシアンはそう言って、再び茶を口にした。


「……人は、“勝った”と誇っています。

魔神族との戦いにおいて。

あの忌まわしい戦役の果てに、“人類が世界を守った”と」


声は、優しかった。

まるで宮殿の回廊に響くチェンバロの調べのような、穏やかな音色。

しかし、その言葉には明らかな質量があった。

芯がある。重さがある。聞く者の中に沈んでいく、確かな“圧”を持っていた。


「けれど……その勝利は、何を犠牲に得たものだったのでしょう」


ゼンはその言葉を、静かに飲み込んだ。


語るべきものがあるのは、わかっていた。

話したところで変わらないとも思っていた。

それでも、彼の目の前にいる男が「言葉を引き出そうとしている」ことは、わかった。


カシアンは目を伏せ、湯気に沈む茶の香をゆっくりと吸い込む。


「……滅びた、とは誰も明言していませんよね。

魔神族は、“終焉戦役で殲滅された”とは語られていない。

“その力を封じた”とだけ、伝えられている。

それは――あなたが、よく知っているはずです」


淡々と、だが逃げ道を与えない声音だった。

ゼンは目を閉じ、囲炉裏の熱に指先を翳した。

その指先には、数年前から残る黒い痕がある。

まるで焼け焦げたかのように。


「……ああ。知ってる。知りすぎるほどにな」


しばしの沈黙ののち、ゼンは答えた。


「奴の魂は、今も俺の体の中にある。

“消した”わけじゃない。ただ封じてるだけだ。

どこかの時点で、どうにかしなきゃならないとは思ってる。

……だが、それがいつになるかは、俺にもわからん」


それは、事実だった。

ゼンの胸の奥、肉体と精神の狭間に囁くように潜む“声”――

終焉戦役の最後、全てを終わらせる代償として己の身に受け入れた、かの魔神族の“魂核”。


彼はそれを戦の後、誰にも話さなかった。

だが王族であるカシアンがそれを知っていたとしても、驚きはなかった。

先日リシェルと話したあの一件もそうだ。

知られるべきところには知られ、包み隠すことはできなくなる。

深く埋めたものほど、世界のどこかで必ず影を落とすのと同じ原理だ。


「……あなた自身が、どこまでその危険を理解しているのか、私は疑問に思います」


カシアンはそう言って、再び茶を口に運んだ。

だがその言葉には、非難や責め立てる響きはなかった。

ただ、冷静な認識と分析――まるで帝国の安全保障を語るかのような、乾いた論理があった。


「その魂核が再活性化すれば、あなたという存在そのものが崩壊しかねない。

いや、それだけではない。

あなたが無意識のうちに“あちら側”へ接続してしまえば――

“封じたはずのもの”が、再びこの世界と接触する危険すらある」


ゼンのまなざしが、わずかに鋭さを帯びる。

だがカシアンは構わず、なおも続けた。


「私は、妹を守るために来たのではありません。

……この世界の構造が崩れることを、未然に防ぐために来たのです」


――空気が変わった。


茶の香、火のぬくもり、湯気の柔らかさ。

そのすべてを上書きするような、“現実”の匂いがあった。

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