第135話 招かざる客
霧はまだ谷を離れず、空は淡い墨色に滲んでいた。
夜が完全に明けきらない時間帯――だが、ここガルヴァの山郷では、その“明けきらなさ”こそが一日の始まりを告げる合図だった。
朝と夜のあわいに漂う霧は光をやわらかく包み込み、境界線を曖昧にする。
時間という感覚すら霧に溶け、谷の空気はどこか遠い夢の中のような静謐を湛えている。
「灰庵亭」の炉端間では、その静寂を破るようにひとつ火が灯された。
ゼンは無言のまま膝をつき、霧樹の薪に火を入れる。湿り気を帯びた木材は、芯に火が届くまでしばし堪え、それから静かに――だが確実に炎を噛み始めた。
薪がぱち、と小さな音を立てる。火が吐き出すわずかな熱に空気が応じて揺れ、囲炉裏の上では、前夜から水に浸されていた黒麦が銅鍋の中で波打ち始める。
霧の湿気と火の温もりが混ざり合い、独特のぬくもりが室内を満たしていく。
天井へと立ち昇る煙は灰筒と呼ばれる魔導煙抜きに吸い込まれ、魔力で編まれた結界膜へと導かれる。
熱は部屋に残し、煙だけを外へと逃がす。魔法と建築と生活の知恵が融合した、灰庵亭特有の呼吸のような構造だ。
ここでは、火も、煙も、湿気も、霧も――すべてが静かに流れていた。
まるでこの小さな庵そのものが、ひとつの生命体のように朝を吸い込み、吐き出している。
包丁の音が、静寂に淡く染み込んでゆく。
ゼンの手元では昨晩仕留めた山鹿の背肉が、見事な手捌きで薄片へと裂かれていた。繊維に沿って刃が滑るたびに肉の断面が美しく現れ、微かに赤みを帯びた脂が光を返す。
筋を避け、無駄なく、しかし美しく整える。その所作に迷いも、力みもない。
彼の仕込みは料理というよりも、ほとんど儀式に近い。
味だけでなく、香り、音、湯気――五感すべてを整えるための静かな祈りのようでもあった。
香草の葉を一枚ずつ霧水で洗い、霜茸を湯通しして、ほんのりと土の香りを残す。
この谷でしか育たない作物は、そのまま使えば野趣が勝ちすぎる。だがひと手間をかければ、雑味の奥から澄んだ滋味が顔を出す。
「……あとは、あいつらが持って帰る分次第だな」
囲炉裏の火を見つめたまま、ゼンが小さく呟いた。
クレアとフェルミナには今朝のうちに谷の下層へ降り、霧根茸と岩根豆を採ってくるよう頼んでいた。
ふたりの脚なら昼を迎えるまでには戻ってくるはずだ。
ゼンは立ち上がり、囲炉裏の脇に据えた味噌甕の蓋を開けた。
ふっと立ち上る濃厚な発酵の香。
深い焦げ茶色に染まった熟成味噌が、その姿を現す。
昨年この谷で採れた豆、ガルヴァ川の湧水、そしてこの霧の中に息づく天然酵母――
何ひとつとして“外”から持ち込まれていないものばかりだ。
この土地だけのもの。この空気とこの水と、この静けさの中でしか熟さない味。
窓の外では、水車の軋む音がかすかに聞こえた。
谷を流れる川の上で霧が白く踊り、風は凪いでいる。
山の朝――いや、“谷の朝”は、こうして始まる。
霧が濃くなるとき、谷は過去を映す――そんな言い伝えがこの地には残されていた。
ゼンはその言葉を知っていた。だが、それを信じたことはなかった。
霧は霧だ。水と空気と魔力が混じり合った、ただの現象に過ぎない。
――そう思っていた。今朝までは。
だが、今朝の霧は、いつもより少し……湿っぽかった。
ただ濃いだけではない。肌にまとわりつく水気が妙に重たい。
谷を包む空気に、何かが“潜んでいる”ような気配があった。
ゼンは視線を炉の炎に戻す。
揺れる火の奥に、ふと遠い記憶がよぎった――
過去、ある戦場で感じたあの“空白”。
何も起きていないのに、何かが確実に始まっているという理屈では説明できない違和感。
あの時も、朝だった。
そしてあの時も――霧が、こうして立ち込めていた。
コツン。
硬い音がした。
風に揺れる枝でも、窓に打ち付けた何かでもない。はっきりと、扉の外から、何かが板を叩いた音だった。
ゼンは手を止める。朝の六つ刻(午前七時前)。食堂の扉はまだ閉ざされ、客席には誰の気配もない。
“開いている”と知らせる結界灯も、まだ消したままだ。
にもかかわらず――
キィ……
扉が内側に向かって、静かに開いた。
霧が流れ込む。冷気が炉端をかすめる。
ゼンは無言のまま、包丁を横に置いた。
入ってきたのは旅人ではなかった。村人でもない。風貌も衣も、この谷の湿り気と合わぬほどに乾いていた。
白灰の霧の中から現れた影は、一歩一歩、音を立てずに足を運ぶ。
――気配が薄い。だが、殺気ではない。
気配そのものが“造られている”感触。
ゼンはその気配を、かつて戦場で幾度も感じたことがある。
“役目を果たすために動いている者”の歩みだった。
そしてその者が口を開いたのは――
「……まだ、開店前のようですね」
乾いた声。男か女かすぐには判別できぬ、よく通る中性的な響きだった。
扉の向こうから姿を現したその男を、ゼンはしばし無言で見つめていた。
見覚えがない……そう言い切れるほど記憶が薄いわけではない。むしろ逆だった。
顔の輪郭、目の奥に潜む静かな火、姿勢の整い方。
そのすべてが、かつて王都で何度か対面した“あの少年”と繋がっていた。
だが今、目の前に立つその人物は少年の面影だけを残し、全く別の存在としてそこにいた。
(……カシアン、王子)
そう名を口に出しかけた時、ゼンはようやく“現実”を追いかけた。
ルミナス帝国・第六王子――
カシアン・ルクレティア。
最後に見たのは、五年前。
ゼンが帝都の中枢政庁会議室で開かれた辺境騎士団の再配置案を巡る政務調整に呼ばれ、形式上の業務報告をするために王宮に足を運んだ際のことだった。
あの時のカシアンはまだ十代半ばで顔に幼さが残り、無理に大人びた言葉を使おうとする年頃だった。
だが今、その姿はどうだろう。
王族としての装いを身に纏いながらも、それに頼ることなく威圧を放つ。
年齢は二十を少し過ぎた頃か。だが、その眼差しには年輪のような「思考の積層」があった。
「お久しぶりです、カシアン殿下」
ゼンは包丁を台に置いたまま、静かに言葉をかける。
「ずいぶん、雰囲気が変わられましたね」
その言葉に、カシアンは僅かに口元を緩めた。だが微笑んではいなかった。
「私が変わったのか、世界が変わったのか。判断は難しいところですね」
そう応じる声音は穏やかで、中庸の範囲に収まる礼節があった。
――目的は、察している。
ゼンはそう思った。
フェルミナ王女のこと。
帝都からの逃走、王宮からの失踪。
そして、彼女がここへ至った経路を知っている人間がいるとすれば、ゼンである。
しかし――それにしては、奇妙だった。
この男が、護衛も連れずに単独でこの山奥へ訪れるはずがない。
カシアンほどの地位にある人間ならば、少なくとも三重の警戒網と従者を備える。
だが、ゼンの五感には「他の気配」が感じ取れなかった。
扉の外にも、谷の風にも、山道にも。
あまりにも静かすぎる。
その“静けさ”が、ゼンの胸に微かな違和感として引っかかる。
だが、カシアンはまるでその違和感すら見透かしたようにふっと軽く首を傾けて言った。
「……妹がお世話になりました。なにぶん、好奇心旺盛な子でして」
肩の力を抜いたような調子。
だが、それは演技ではなかった。
本当に彼は、怒ってもいなければ、焦ってもいない。
その落ち着きの奥にあるのは――“全体を掌握している者”の余裕だった。
「彼女については、すでにこちらで処理を進行しています。どうかご心配なさらず」
「……処理、とは」
ゼンが重く問い返すと、カシアンはわずかに微笑し、視線を宙に滑らせた。
「文字通りです。王宮は――いえ、帝国は既に彼女を“問題”とは捉えていません」
そう言った後、ゆっくりとゼンを見た。
まっすぐ、真下に射抜くような目線。
「私がここへ来たのは、妹に会うためではありません」
「……」
「あなたに会うためです、ゼン・アルヴァリード殿」
その名が口にされたとき、空気が一度凪いだ。
火の粉がわずかに跳ね、銅鍋の蓋がかすかに震えた。
この男が、自分を名指しで訪ねてきた。
王宮の使者としてではない。
兄としてでもない。
“カシアン・ルクレティア”という、個人として。
ゼンは眉をわずかに動かした。
「……どういうことだ」
その問いにカシアンはようやく一歩、客席の方へと進む。
「話す前に、お願いがあります」
「何だ」
「お茶を、一杯いただけますか?」
その依頼が、交渉でも命令でもなく、ただの“客”としての所作であったことにゼンは小さく驚いた。
そして、次の瞬間には無言で囲炉裏の横にあった急須に手を伸ばしていた。




