表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
188/197

第134話 待ったは無しだ



「――貴様たちッ!!

 フェルミナ様に、触るな!!」



クレアの声は、霧の谷に似つかわしくないほど荒々しく響いた。


脚の感覚はほとんど失われている。

膝から下が、自分の身体でありながら他人のもののようだ。

それでも彼女は剣を握る手に力を込め、上体だけででもフェルミナの前に立とうとした。


影兵が一歩、無言で前に出る。

その動きだけで、彼我の距離と力量差がはっきりと示される。


(……わかっていた)


王女が見つかるのは、時間の問題だと。

灰庵亭という場所がいずれ“目を付けられる”ことも。

こうして王宮の影兵が王女のもとに駆けつけてくることも。

それ自体は、想定の範囲内だった。


だが――


(これは……やり過ぎだ)


クレアの思考が、冷静さを取り戻しながらも強い違和感を訴える。


神聖魔導兵団。

しかも、黒影と緑影。

それぞれが独立した行動権限を持ち、通常は連携すら稀な部隊。


それに加えて、上官クラスの人間が直接出張ってきている。


王女の“捜索”としては、あまりにも大掛かりだ。

軍事行動として見ても、過剰ですらある。


何より――

なぜ、攻撃した?


(……おかしい)


フェルミナは逃亡者ではない。

反乱分子でも、敵国の要人でもない。


いずれ王宮に戻る存在であり、

戻さねばならない存在。


多少の軋轢はあれど、彼女が抵抗するはずもないことは誰もが知っている。


「常識」だ。


王女は連れ戻されるもの。

それに逆らえる立場ではない。


にもかかわらず――

不意打ち。

毒矢。

拘束。


まるで排除対象か、危険人物を制圧する作戦のような動き。


理解が追いつかない。


その様子を眺めていたラウルが、くつくつと喉を鳴らして笑った。


「……ああ、そんな顔すると思ったよ」


彼はゆっくりと、クレアの方へ歩み寄ってくる。

足音はわざとらしいほど無防備で、だが距離感は正確だった。


「“なんで俺たちが攻撃してくるのか?”って顔だなあ」


クレアは睨み返す。

だが、反論の言葉が出てこない。


ラウルは肩をすくめる。


「悪いが、詳しい理由までは知らない。

 上からはね――」


彼は軽く指で自分のこめかみを叩いた。


「アンタは危険な存在だって、そう聞かされてる」


その言葉が、クレアの中で鈍く響いた。


「下手に抵抗されても、こっちが困る。

 だから、こうして不意な攻撃を仕掛けた。

 まあ――」


ラウルは、脚に刺さった矢へ一瞬だけ視線を向ける。


「アンタを“評価”してのことだ」


評価。


その単語が、胸の奥に冷たい棘のように刺さる。


(……評価?)


クレアは必死に思考を巡らせる。


それにしては、あまりにも軍事的すぎる。

黒影の影導。

緑影の狙撃手。

幻獣使いによる制圧。

重魔獣の投入。


これは“捜索”ではない。

これは――制圧だ。


(……なぜ、私が?)


彼女はただの従者だ。

王女の影に過ぎない。


確かに戦闘能力はある。

だがそれは帝国にとって未知のものではない。

特別扱いされるほどの存在ではないはずだ。


いずれ王女の居場所が知られることは、最初から織り込み済みだった。

灰庵亭に着いてから数日も経たないうちに、王宮ではきっと、


「いつ、どうやって連れ戻すか」


そんな話が始まっていたに違いない。


抵抗などしない。

できない。

それは誰もが理解している事情であり、“前提”だ。


――それなのに。


この状況。

この包囲。

この露骨な力の行使。


(……何を、恐れている?)


クレアの視線が、フェルミナへ向く。


影兵に拘束されながらも、彼女は必死にこちらを見ていた。

怯えよりも、状況を理解しようとする目。


フェルミナは、今にも泣き出しそうな顔でクレアを見つめていた。


霧に濡れた睫毛が震え、唇がわずかに噛み締められている。声を出せば崩れてしまいそうで、それでも必死に耐えている――そんな表情だった。


「……ク、クレア……」


名を呼ぶ声は掠れていた。


それを聞いた瞬間、クレアの胸の奥で何かが強く締め付けられる。

だが、彼女はあえて表情を変えなかった。声も、感情を削ぎ落としたまま返す。


「大丈夫です、ミナ様」


短く、はっきりと。


「私は、まだ立っています」


それは事実ではなかった。

脚はほとんど動かない。魔力の循環も乱れ、魔導核の感覚は霧の奥に沈んだままだ。

それでもその言葉だけは――フェルミナに向けた“嘘ではない意志”だった。


ラウルが、そのやり取りを眺めながら小さく息を吐く。


「……いやはや」


感心したように、ゆっくりと拍手する。


「よくシリウスの矢を受けて立っていられるな。

あれはヤツが丹念に練り込んだ、神経遮断と魔力循環阻害の効果を持つ魔矢だ。普通なら声を出す前に崩れてる」


視線が、クレアの脚へ落ちる。


「相当鍛えられてるな」


ほくそ笑むような口調だった。

だがそこに侮りはない。目の前の「対象」に対する評価と分析だけが、淡々と含まれている。


クレアは返事をしない。

代わりに、剣を握る手に力を込めた。


魔力が応じない。

通常なら呼吸とともに巡るはずの霊素が、途中で途切れていく感覚。

毒が確実に魔導核の制御領域へ干渉している。


(……制御不能、か)


それでも、何もしないという選択肢はなかった。


上体だけで体勢を整えようとし、わずかに剣先を上げる。

その動きは遅く、重い。

それでも、“意志”だけは剥き出しだった。


だが――


「やめとけ」


ラウルの声が、低く落ちる。


「無駄な抵抗はしないほうがいい」


その一言で、空気が変わった。


命令でも、威圧でもない。

事実を告げるような、冷静すぎる断定。



クレアは、なおも考え続けていた。

いや――考えずにはいられなかった。



(……変だ)


脚の感覚が薄れ、体勢は崩れ、包囲はすでに完成している。

フェルミナ様は拘束され、自分は動けない。


――それなのに。


(……“終わり方”が、違う)


殺すなら、もっと早くできた。

無力化するだけなら、もっと簡単な手段がいくらでもあった。


それでも彼らは、


・毒を使い

・幻獣で空間を塞ぎ

・影兵で退路を潰し

・狙撃で脚だけを奪った


――すべてを重ねてきた。


それは慎重すぎるほどで、

まるで――


(……“逃がさない”ことそのものが目的みたいだ)


クレアほどの熟練者ともなれば、

相手の気配の配置や、動線の取り方から

「次の行動を前提にした布陣」かどうかは、肌でわかる。


拘束の角度。

影兵の間隔。

魔獣の待機位置。


どれもが“これで終わり”ではない。

この後も何かを想定している配置だった。


(……王女を確保するだけなら、行動が過剰すぎる)


その思考が浮かんだ瞬間、

胸の奥に言葉にならない不安が沈んだ。


何かが、ずれている。

だが“何がずれているのか”までは、わからない。


ラウルが、静かに息を吐いた。


「……悪いが、待ったは無しだ」


その声に、命令の色はなかった。

ただ――決定事項を告げる響き。


クレアは咄嗟に剣を構えようとする。

だが、脚が応えない。

毒が神経の奥で絡まり、身体と意志の間に遅延を作る。



ボッ



ラウルの言葉が霧に沈みきるよりも早く――

脚が地面から離れた。


予備動作はなかった。

剣を抜くことも、魔獣に指示を出すこともない。

ただ一歩、踏み込んだ。


否――踏み込んだように“見えただけ”だった。


次の瞬間、距離という概念が消えた。


音とも爆発とも言えない短い圧縮音が、霧の中で潰れる。


脚が地面を離れたように見えたのは錯覚だ。

実際には足裏は苔に触れたまま、地面との反力を一切使っていない。


膝関節がわずかに伸展し、股関節が“押す”のではなく“通す”。


骨盤が前に落ち、体幹がその落下方向へ静かに追随する。


踏み込んだのではない。

重心線を相手の懐へ滑り落としただけ。


その結果――

空間が、潰れた。


霧は裂けない。

風も鳴らない。

音速以下の運動には、空気は抵抗しない。


ただ、存在の配置だけが書き換わる。


ラウルが、そこにいた。


距離三歩分の空間が一拍のないまま折り畳まれ、クレアの眼前に「圧縮された空間の終端」として出現する。


(――……)


思考が形になる前に、胸郭の内側が内圧で叩き潰された。


拳。


肩関節の回旋角度は最小。

肘はほとんど伸びていない。

手首の返しも存在しない。


それでも衝撃が成立するのは、拳が“振られていない”からだ。


落下してきた体幹質量を、肋骨下部――横隔膜の直下へ通している。


急所は外している。

だが、内臓が逃げられない角度。


衝撃は一点ではなく、内側へ広がる。


「――っ……」


声にならない空気が、喉から零れ落ちる。


肺が潰れるのではない。

肺を支えていた圧が、一瞬で失われる。


横隔膜が反射的に痙攣し、吸う動作が“空振り”する。


剣を握っていた指が神経遮断ではなく力学的に解放された。


金属音。


刃が苔を打ち、湿った地面に浅く弾かれる。


ラウルは止まらない。


一歩ではない。

半歩にも満たない、重心の再配置。


肩が当たる。

否――当たったのは、肩ではなく体幹の質量。


クレアの視界が斜めに傾く。

平衡感覚が、遅れて追いかけてくる。


二撃目。


腹部。


今度は内臓ではない。

腹圧を支える“中心点”。


丹田――

意識と身体を繋ぐ支点。


衝撃音は、ない。


代わりに、

空間が「ズン」と沈む感触だけが残った。


筋肉が折れたのではない。

骨が砕けたのでもない。


支える理由が、消えた。


クレアの身体が力学的に成立しなくなった。


上体が前へ折れ、背骨のS字が一瞬で崩壊する。


霧の匂いが、急激に近づく。


湿った冷気が頬を撫で、苔と土の粒子が皮膚に触れる。


倒れた、と理解したときには、

すでに身体は地面を受け入れていた。



「クレア――!!」



フェルミナの叫び声が、霧の奥で弾けた。


それは距離の問題ではなかった。

耳に届いているはずなのに、現実の音として脳が受け取るまでに奇妙な隔たりがある。まるで霧の外、あるいは水の底から必死に叩かれている音を聞いているようだった。


(……ああ)


思考が、ほどける。


視界が、ゆっくりと反転していく。


谷の天と地が、静かに入れ替わる。

上だと思っていた霧が広がる白の底へと沈み込み、地面に這っていた赤枝の根が逆さに伸びる波のように揺らぐ。苔の斑点が星座のように散り、岩肌の裂け目が空を裂く雲の筋のように見えた。


世界が、横倒しになる。


音は遠のき、重さだけが残る。

身体が地面に近づいているはずなのに、落下の感覚はない。ただ位置という概念だけが、ゆっくりと剥がされていくかのような。


(……フェルミナ様――)


名前を呼ぼうとした意識は、途中でほどけて消えた。


悔しさは不思議と湧かなかった。

恐怖も、怒りも、もうそこにはなかった。


ただ一つ。

自分が守るべき存在の前で最後まで立っていられなかったという事実だけが、冷たい重みとなって沈んでいく。


影の気配が近づく。

霧を踏みしめる乾いた足音。


ラウルが、すぐ傍で立ち止まった。


「……見事だよ」


その声は驚くほど静かだった。

勝者の高揚も、敵を嘲る色もない。ただ事実を評価するだけの冷えた温度が、水の流れのように静かに落ちた。


「毒を受けて、脚を潰されて、それでも構えようとした。正直、想定よりずっと粘った」


霧の向こうで、影兵がフェルミナを押さえつけるのが見えた。

細い腕が拘束され、彼女の身体が震えている。


フェルミナは必死に身をよじっていた。

小さな身体が拘束の中で精一杯動こうとする。そのたびに霧が揺れ、彼女の髪が乱れる。


「クレア! クレア……!」


名前を呼ぶ声が、何度も重なる。


「お願い、目を開けて……!」


その声を聞いた瞬間、クレアの胸の奥で何かが静かに軋んだ。


痛みではない。

恐怖でもない。


ただ、確かに「人を泣かせてしまった」という感覚。


(……泣かせてしまったな)


それは後悔に似ていて、けれど後悔よりも静かな感情だった。


謝りたかった。

大丈夫だと、伝えたかった。

あなたは守られていると、最後まで言い切りたかった。


けれど、口は動かない。


舌が鉛のように重く、喉の奥が閉ざされている。

身体はまだここにあるのに、言葉だけがもう手の届かない場所へ遠ざかっていく。


霧が、いよいよ白くなる。


白というより、色そのものが剥がれていく感覚。輪郭が失われ、遠近が消え、世界が一枚の薄布のように平らになっていく印象。


音が、遠ざかる。


フェルミナの声も、ラウルの気配も、谷の呼吸も、すべてが同じ距離に引き延ばされ、やがて判別できなくなる。


赤枝の葉擦れも湿った地面の感触も、すべてが遠ざかり――


意識が、ゆっくりと沈んでいった。


その暗さの底で最後に残ったのは――

感情でも、光景でもなかった。



――団長。



その二文字が、言葉ではなく「重さ」として浮かぶ。


背中。

何も語らず、ただ立っていた背中。

守るという行為を、声や誓いではなく、ただ存在で示していた人。


(……ごめんなさい)


そう思ったのか、それとも思おうとしただけなのかは、もうわからない。


視界が完全に暗転する直前。

霧の向こうでラウルが誰かに向けて、小さく頷くのが見えた。


合図。

次の工程へ進むための、簡潔な確認。


そして、世界は――


音もなく、抵抗もなく、

静かに、落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ