第133話 闇の中から顕れる巨躯
――「それ」を目撃するまでの間、
クレアの思考は、なおも止まっていなかった。
いや、正確には――止めてはならない段階にあった。
(……おかしい)
その違和感は、理屈として浮かび上がるよりも先に、身体感覚として彼女を刺していた。
霧の谷という閉鎖環境。
地熱、霧、魔力地磁――三つの要素が複雑に絡み合い、ここでは外来の存在を強烈に選別する。
適応できないものは、侵入した瞬間に弾かれる。
拒絶は音もなく、暴力的でもない。
ただ「存在できない」という事実だけを突きつけられ、均衡の外へと押し流される。
それが、この谷の“呼吸”だ。
にもかかわらず。
目の前の改造個体は、つい先ほどまで拒絶されていなかった。
谷に馴染んでいない。
地熱とも、霧とも、魔力の流れとも噛み合っていない。
それなのに排除も、歪みも起きていない。
まるで――
「拒絶するかどうか」を、谷が迷っているかのようだった。
(人工調整……。契約魔獣。観測用個体……)
頭の中で、知識の断片が弾けるように繋がっていく。
帝都・中央魔導研究所。
魔獣管理・討伐機構――MSM。
契約式、魔導核改変、霊素制御、位相調整。
彼女は知っている。
「改造魔獣」という言葉が、単なる兵器開発を指すものではないことを。
それは、実験だ。
どこまで自然環境に馴染ませられるのか。
どこまで知性を保ったまま制御できるのか。
どこまで“自然の均衡”を欺き、すり抜けられるのか。
魔獣を壊すのではない。
世界のルールの方を試すための存在。
(だが……それでも)
クレアは奥歯を噛み締める。
中央魔導研究所が冷酷であることは疑いようがない。
だが同時に、彼らは無意味な賭けを嫌う。
ここは帝国の中枢から遠い。
霊素地磁は不安定で、観測データも取りづらい。
制御も回収も困難な場所だ。
――それなのに、なぜここへ?
(……違う)
彼女の中で、ひとつの結論が静かに形を成す。
この個体は、放たれたのではない。
偶然でも、実験場の選定ミスでもない。
送り込まれたのだ。
そして、何かを“見に来ている”。
フェルミナ王女。
この谷そのもの。
あるいは――灰庵亭。
背筋を、氷水が流れ落ちるような感覚。
護衛としての本能が、遅れて警鐘を鳴らす。
(……狙いは、戦闘じゃない)
観測。
確認。
存在の測定。
逃走経路の算段が、即座に脳裏に展開される。
思考は既に“生存計算”の領域に入っていた。
影走りを完全展開。
谷の層構造を利用し、斜面を三段下る。
途中、霧濃度が一気に跳ね上がる地点がある。
そこなら視覚型の追跡は一度切れる。
――だが。
(……追跡されない保証がない)
この魔獣は、視覚を基準にしていない。
霧の密度、魔力粒子の揺らぎ、空間歪曲。
それらを“読む”存在だ。
影走りで距離を取れても、居場所そのものを察知される可能性がある。
それでも――
それでも可能性はある。
自分一人なら。
クレアの喉がわずかに鳴る。
背後に感じる、確かな気配。
フェルミナ様。
彼女を連れて、この環境でこの相手を前にしての離脱。
成功率は、冷静に見積もっても低い。
霧の冷気が肺に染み込む。
呼吸を整えようとするが、心拍がわずかに速い。
(……判断を、誤れない)
守るべきものがあるという事実が、
彼女の思考をさらに鋭利にし、同時に重くする。
撤退か。
攪乱か。
それとも――ここで止めるか。
その選択肢が頭の中で交錯していた、そのときだった。
霧が、割れた。
音はなかった。
風も、圧も、予兆もない。
ただ、谷の霧が“避けた”。
避けた、という表現が最も近い。
押し退けられたのではない。
自ら距離を取るように、左右へ静かに引き裂かれた。
そして――
それは、現れた。
クレアの視界が、瞬間的に理解を拒んだ。
(……な……)
大きい。
いや、“大きい”という言葉では足りない。
それは、谷のスケールを狂わせる大きさだった。
肩高だけで、並の家屋を超える。
胴体は岩盤の塊のように分厚く、筋肉の隆起が皮膚越しにはっきりと浮かび上がっている。
体表は深い暗褐色。
獣毛はほとんど存在せず、代わりに硬質な鱗状の皮膚が重なり合い、地熱の反射を鈍く返していた。
そして――牙。
上下の顎から突き出た二対の巨大な牙。
弧を描くように湾曲し、その先端は霧の中で淡く濡れた光を帯びている。
一本一本が、人の背丈ほどもある。
それが、ゆっくりと霧の中から姿を現した。
――ヘルビースト。
MSM登録上、
討伐レベル30超。
帝国特認個体。
通常であれば、
・封鎖区域
・討伐隊複数班
・重魔導兵器投入
それらが前提となる存在。
生息域は、帝国南部の禁断地帯。
記録上、この霧の谷とは地理的にも、魔力的にも、完全に断絶している。
(……あり得ない)
クレアの思考が、初めて詰まった。
知識が拒否する。
経験が否定する。
直感が、理解を放棄する。
ここにいる理由がない。
来られるはずがない。
制御できる存在ではない。
ヘルビーストは観測用でも、調整用でもない。
純粋な破壊存在だ。
知性は低い。
だがその分、魔力と肉体は極端に尖っている。
霊素の流れを読むのではなく、ねじ伏せるタイプ。
それが、なぜ――
クレアの視界が、わずかに揺れた。
揺れたのは景色ではない。
焦点だ。
霧の層、ヘルビーストの輪郭、地面の苔――
それらすべてが同時に“距離感を失った”ように、平面的に歪む。
(……呼吸)
そう意識したときには、もう遅かった。
肺が動いていない。
空気が入っていない。
自分が息をしていないという事実を脳が把握するまでに、数拍の空白が生じた。
横隔膜が硬直し、胸郭が広がる感覚がどこにもない。
(……まずい)
その判断だけは、異様なほど冷静だった。
頭ではわかっている。
これは危険だ。
致命的な状況だ。
今すぐ思考を回し、行動へ移らなければならない。
撤退経路。
フェルミナの位置。
影走りの再起動条件。
谷の層構造。
ヘルビーストの初動速度。
――やるべき計算は、山ほどある。
だが。
身体が、動かない。
脚部の筋肉が、命令を待っている。
腕の筋繊維が、緊張を保持したまま凍りついている。
神経は信号を探しているが、次の指示が降りてこない。
剣を握る感覚が、遠い。
柄の硬さも、重さも、現実感を伴わない。
(……違う)
これは恐怖ではない、と理解できる。
恐怖なら、自然と身体は逃げる。
反射が先に走り、判断は後回しになる。
だが今のこれは――
理解不能による停止だ。
知識が否定している。
経験が拒絶している。
直感が、処理を放棄している。
ここにヘルビーストが存在するという前提そのものが、クレアの世界認識から逸脱していた。
あり得ないものを前にしたとき、人は「判断」を失う。
目の前の巨躯が放つ圧が空間を沈ませる。
霧が低くうねり、地熱の流れが乱れる。
ヘルビーストの巨大な頭部が、ゆっくりと下がる。
魔鋼を埋め込んだような禍々しい赤黒い眼が、こちらを捉えた。
そこにあるのは敵意でも殺意でもない。
ましてや、観測のための知性でもない。
――ただ、破壊のために最適化された認識。
「そこにあるものを壊す」
それだけに特化した視線。
クレアの脳裏で、警鐘が鳴り続ける。
動け。
距離を取れ。
フェルミナ様を守れ。
影走りを展開しろ。
だが、そのすべてが
“言葉”のまま浮かび、行動に変換されずにいた。
ほんの一瞬――
それは、呼吸一つ分にも満たない時間だった。
だが、その“わずかな硬直”が、この場面において致命的な隙となることを、クレア自身は予測できていなかった。
ヘルビーストの圧に世界認識が追いつかず、思考と身体の接続が一拍遅れた。その遅れは刃を振るうには些細すぎるものだったが、“仕掛けられた局面”では致命的だった。
(――構えを)
そう思った瞬間、クレアは反射的に剣を半身に構える。
踏み込めない。影走りも起動できない。
だがせめて、フェルミナとの間に身体を入れる――その意志だけが、ようやく神経を動かした。
そのときだった。
「――クレア!」
背後から、張り詰めた声が飛ぶ。
フェルミナの声。
恐怖を堪え、しかし確かな焦りを帯びた、護衛を呼ぶ声。
その声が聞こえた瞬間、クレアの判断は“戦場”ではなく“護衛”へと引き戻された。
反射的に振り向く。
――それが、決定的だった。
霧の奥、フェルミナのすぐ背後。
そこに、いつの間にか三つの影が立っていた。
気配がない。
足音も、霧を割る揺れもない。
ただ、“そこにいる”という結果だけが提示されている。
黒衣。
顔は覆われ、装束には宗教文様を思わせる刻印。
だが、その佇まいはクレアにとって見覚えがあった。
(……影導)
神聖魔導兵団――白影兵団直属の非公式部隊。
公式記録に存在しない、「消すための兵」。
その影兵の一人が、フェルミナの肩を無言で押さえていた。
力は強くない。だが、動けない角度を正確に知っている拘束。
「……やっぱり、勘がいいな」
霧の向こうから、ひとりの男が歩み出る。
ゆっくりと。
まるで散策でもするかのような足取りで。
背は高く、体格は均整が取れている。
外套の内側に見えるのは、獣革と魔導制御具が複雑に組み合わさった装備。
その男が現れた瞬間、クレアは理解した。
(……全部、繋がっていた)
ヘルビースト。
改造ヴェルディグリス。
この谷を“試す”ための配置。
そして、この男。
「久しぶりだな。……いや、俺が一方的に知ってるだけか」
男は軽く笑った。
その笑みは柔らかい。
だが目だけが、徹底的に冷たい。
帝国軍――神聖魔導兵団・黒影連隊付。
幻獣使い《ビーストマスター》。
ラウル=エルディオス。
その名が脳裏をよぎった瞬間、クレアの背筋を冷たいものが走る。
帝国で知らぬ者はいない異名。
討伐記録に残らない魔獣を“連れている”男。
生態系の外にいる存在を、“ペット”として扱う異常者。
「安心しろ。あの子たちは、今はおとなしい」
ラウルが視線を動かす。
ヘルビーストが、命令もなく動きを止めた。
まるで――
“持ち主の存在を認識した”かのように。
「今日は壊しに来たわけじゃない。
確認と、回収だ」
その言葉に、クレアの思考が一気に繋がる。
(……回収対象は)
フェルミナ。
あるいは――自分。
その刹那。
空気が、細く裂けた。
「――っ!」
クレアが振り向き直るより早く、霧を貫く一条の影が走る。
矢。
音が遅れて追いつくほどの初速。
狙いは明確だった。
クレアは咄嗟に身体を捻る。
致命点は外した。
だが――
ズブリ、と。
鈍い感触が、左脚に走った。
「……くっ」
膝が、落ちる。
矢は脛を貫いていない。
だが、刺さった瞬間に理解できた。
(毒……)
血が出ない。
代わりに、脚の感覚が急速に鈍っていく。
「外しましたか。……まあ、十分ですね」
霧の高所。
赤枝の根に寄りかかるようにして立つ人物がいた。
細身。
風属性の魔導補助具を備えた長弓。
装束は、緑影兵団――その中でも、精鋭中の精鋭。
緑影第三遊撃隊。
狙撃担当、シリウス=ヴァンレイ。
「麻痺毒と神経遮断の複合。
三分は、動けない」
淡々と響く声。
そこに、感情というものは存在しなかった。
クレアは歯を食いしばる。
影走りは封じられた。
脚の感覚が、消えていく。
フェルミナの方へ視線を向ける。
彼女は拘束されているが無傷だ。
だがその表情は蒼白だった。
「……ミナ様」
声を出そうとした瞬間、ラウルが軽く指を鳴らす。
ヘルビーストが、首を下げた。
その巨体がクレアの視界を完全に覆う。
「動くな。
あんたは――いい素材だが、今日は脇役だ」
ラウルの声が、霧の中で静かに響く。
「王女殿下は、丁寧にお迎えする。
それが、白影からの正式なご意向だ」
神聖魔導兵団。
白影。
影導。
緑影の狙撃。
――すべてが、最初から用意されていた。
クレアは、ようやく理解する。
この戦場は彼女がはじめから“対応するための場所”ではなかった。
捕獲するための舞台だったのだ。
(……守れなかった)
その悔恨が胸を締め付けた瞬間、
霧の奥で別の“気配”が――静かに、確かに、立ち上がり始めていた。




