第132話 間合いの探り合い
霧が、ゆっくりと息を取り戻す。
裂かれたはずの空気が何事もなかったかのように元の重さへ戻り、谷底は再び“静かな場所”の顔を装い始めていた。だが、その静けさは先ほどまでとは質が違う。水面に落とした小石の波紋が消えたあとに残る、張り詰めた膜のような静寂だった。
クレアが半歩、横へずれる。
動いたようには見えない。ただ彼女の“立っている位置”だけが、わずかに書き換えられた。足裏が苔を踏みしめた感触も、霜が軋む感覚もない。影走りはすでに完全に発動しているわけではない。これは“探るための”動きだ。
魔獣は跳躍の余勢を殺すように着地した。
いや――着地、という言葉は正確ではない。
霧の中でその体躯が“止まった”瞬間、地面が反応していない。苔も、腐葉土も、霜も揺れていない。まるでそこに質量が存在しないかのようだ。視覚だけが、獣の輪郭を追認している。
私は思わず、息を詰めた。
(……触れていない)
それは恐怖というより、理解できないものを前にしたときの静かな眩暈だった。世界に触れずに立つ存在。谷が許していないのに、拒んでもいない存在。
魔獣の赤い単眼が、わずかに動く。
こちらを見ている、というより――角度を変えて“測り直している”ように見えた。距離、位置、反応速度。感情のない視線が、必要な情報だけを拾い上げている。
その瞬間、私はふと奇妙な感覚に襲われた。
(……似ている)
理由はわからない。ただ、胸の奥がひやりと冷える。あの魔獣の在り方が、どこか自分の中の“影”と重なって見えたのだ。
選ばれるために整えられた存在。
条件を満たすためだけに調整された形。
役割のために感情を削ぎ落とした在り方。
――政略の場に立たされていた、かつての私。
光の中に立っていたはずなのに、自分の輪郭がわからなかったあの頃の感覚が、霧の底から立ち上ってくる。
クレアは、剣先をわずかに下げた。
完全な構えではない。攻撃にも防御にも偏らない、中間の位置。剣筋を見せないことで、相手に“答え”を与えない構えだ。
「……」
彼女は何も言わない。
声を出す必要がないからだ。呼吸も意識も、すでに戦場の密度へ落とし込まれている。彼女の視界には魔獣の形ではなく、存在そのものの輪郭や“歪み”が映っているはずだった。
魔獣が、わずかに首を傾げる。
その動きは獣のものではなかった。関節の可動域を確認するような、機械的な挙動。霧の中で影が遅れて追随する。その影のズレが、空間情報の歪みを如実に示していた。
クレアの足裏が、再びごく小さく圧を与える。
今度は、先ほどよりも深い。
それだけで彼女の重心線が地面から“外れる”。浮いたわけではない。重力を無視したのでもない。ただ、地面と身体の関係性が、一瞬だけ切り離された。
影走りの前段階。
位置を捨てるための準備。
魔獣が、それに反応した。
赤い単眼が、かすかに収縮する。次の瞬間、霧が横へ引き裂かれた。跳躍ではない。滑走でもない。空間の一部が魔獣の身体を“先に運んだ”。
速い。
だがそれは「速度」ではなかった。位置情報が書き換えられることによる結果、――それだけが、確かな質量を帯びるかのように立体的に現れる。
クレアは剣を振らない。
彼女は一歩、後ろへ“落ちた”。
地面に下がったのではない。魔獣が想定した“クレアの現在地”から低く逸れるように外れただけだ。魔獣の前肢が空を裂く。爪が霧を掻き、わずかな魔力波が走る。
しかし、その攻撃は空振りだった。
魔獣の爪は、クレアが“いたはずの位置”を正確に捉えている。だが、そこに彼女はいない。彼女はすでに影の走路に半身を預けている。
二者の間に、ほんの一瞬の静止が生まれた。
それは、互いが互いを測り終えた合図だった。
(……探っている)
私の喉が、無意識に鳴る。
クレアは、相手がどこまで空間を歪められるのかを見ている。魔獣は彼女の移動が“反射”なのか、“予測”なのかを見極めようとしている。
そして私はその間に立ち上がる奇妙な感情から、目を逸らせずにいた。
魔獣の動きは効率的で、無駄がない。
恐怖も、躊躇も、怒りもない。
ただ与えられた条件を満たすためだけの動作。
それはかつて私が身につけていた振る舞いと、驚くほど似ていた。
王女としての立ち居振る舞い。
均衡のための選択。
感情を挟まない判断。
光の下で、私はずっと“影”を引きずっていた。
――この魔獣は、その影が形になったものなのではないか。
そんな考えが、胸の奥に沈む。
霧の底で向き合っているその魔獣がいかなる系譜を持ち、どのような生態を基盤として造り替えられた存在なのかを――フェルミナは、まだ言葉として理解してはいなかった。ただ、理解以前の段階で、胸の奥に沈む違和感だけを確かに掴んでいた。
客観的に見れば、それは明白な兆候だった。
目の前の魔獣は、単なる異物ではない。
この谷にそぐわない“外来の存在”であると同時に、極めて選別された適応の結果でもある。無作為に放たれた兵器でも、偶然生まれた変異体でもない。目的に即して、慎重に調整された「観測用の個体」――そう表現するのが最も近い。
フェルミナが覚えた既視感は、決して偶然ではなかった。
魔獣の動きに宿る徹底した合理性。
感情を挟まない判断。
相手を倒すためではなく、条件を測るためだけに存在する在り方。
それは、かつて彼女自身が身を置いていた世界の論理と酷似している。
王女として、均衡の一部として。
愛憎や恐怖を判断に混ぜることを許されず、ただ“正しい配置”に置かれる存在。
役割に適合しているかどうかだけが価値基準となり、内面は切り捨てられる。
フェルミナが霧の中で見たのは、魔獣そのものではない。
条件を満たすために削ぎ落とされ、整えられ、最適化された存在の輪郭――それが、あまりにも鮮明に自身の過去と重なったのだ。
そして、第三者の知る事実として語るならば。
この魔獣は、無から生み出されたわけではない。
必ず「元となった生態」が存在する。
現在、霧の谷でクレアと対峙している改造個体。その骨格構造、位相歪曲能力、空間に触れずに移動する挙動。それらはすべて、ある一種の魔獣を基盤として再構築された痕跡を示している。
それは、もともと戦闘用に進化した存在ではなかった。
捕食効率でも、破壊力でもなく、環境そのものを“読む”ことに特化した魔獣。
霧を敵とせず、
闇を恐れず、
音も光も信用しない。
ただ空間の歪みと魔力粒子の揺らぎだけを頼りに、生き延びてきた種。
フェルミナが「測られている」と感じたのは正しい。
この魔獣は、彼女を“見る”ことすらしていない。
ただそこに存在する条件を読み取り、必要な情報を抽出しているだけだった。
選別される側と、選別する側。
その境界線は、驚くほど曖昧だ。
彼女が胸の奥で感じた寒気は、恐怖ではない。
自分もまた同じ構造の中に置かれていたという事実を、無意識が掘り起こした結果だった。
この魔獣はフェルミナの影であり、
フェルミナは、この魔獣の人間的な写し身でもある。
そして――
その生態的基盤となった原種の名は、すでに記録として残されている。
霧と魔力が滞留する極限環境に生き、
戦うためではなく、測るために存在する狼型魔獣。
影狼ヴェルディグリス。
その名が示す通り、
彼らは“影”の中で世界を観測する存在だった。
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影狼ヴェルディグリス
Shadow Wolf Verdigrys
【MSM登録:MB-0096-B】
影狼ヴェルディグリスは、霧・蒸気・魔力粒子が高密度に滞留する環境にのみ生息する、極めて特異な狼型魔獣である。
その最大の特徴は、「戦う魔獣」ではなく「測る魔獣」として進化した点にある。
■ 起源と進化背景
ヴェルディグリスの祖系は、古くは山岳地帯に生息していた通常の霧狼とされる。しかし、霧樹林帯や地熱域など、視覚・聴覚が機能不全を起こす環境に長期間閉じ込められた個体群が、数世代を経て著しく形質を変化させた。
彼らの進化は「強さ」を目的としたものではない。
生存に必要だったのは、
・見えないものを把握する能力
・音が届かない空間で相手の位置を知る感覚
・霧や魔力の流れから“違和感”を拾い上げる精度
だった。
結果としてヴェルディグリスは、五感を統合した環境感応型認識能力を獲得し、視覚そのものへの依存度を下げていった。彼らにとって「見る」とは、網膜に像を結ぶことではなく、空間の変化を読む行為なのである。
■ 外見と存在感
ヴェルディグリスの体躯は狼としてはやや大型だが、筋肉量は抑えられており、全体的に細長く、しなやかな印象を与える。
体毛は短く密で、霧に濡れても重くならない構造をしている。色調は灰黒色だが、光をほとんど反射しないため、霧中では輪郭が溶けるように消失する。
眼は暗紅色から紫紅色で、暗所では微弱に発光する。この発光は威嚇や照明のためではなく、魔力粒子の反射を拾うための補助器官と考えられている。
観測者の多くが「数が増えたように見えた」「位置がずれた」と報告するが、これは高速移動による残像ではない。
ヴェルディグリスは移動の際、魔力を脚部筋繊維に集中させ、瞬間的に空間情報の取得タイミングをずらす。結果として、見る側の認識が追いつかず、存在が二重化して知覚される。
■ 行動原理と性格
影狼ヴェルディグリスは、極端に無駄な行動を嫌う。
彼らにとって狩りは目的ではなく、必要条件を満たす手段に過ぎない。
特徴的なのは、攻撃よりも観測を優先する性質である。
対象を発見した場合、即座に襲いかかることはほとんどない。まず以下を測る。
・魔力総量
・呼吸の乱れ
・重心移動の癖
・緊張時の魔力揺らぎ
・意識の集中度
これらを霧・地面・空気の振動から読み取り、「捕食対象として合理的か」を判断する。
その結果、不要と判断した相手には一切干渉せず、静かに姿を消す。
このため、冒険者の間では「倒せなかった魔獣」ではなく、「気づいたらいなかった魔獣」として語られることが多い。
■ 能力の本質
ヴェルディグリスの能力は、魔法や特殊技能というよりも、生理機能の極限進化である。
・霧感応(Mist Sense)
霧や蒸気に含まれる温度差・魔力粒子の濃淡を読み取り、立体的な空間像を構築する。
・位相跳躍(Phase Leap)
瞬間的な筋収縮と魔力集中により、移動の“始点と終点”だけを強調する。途中経過が認識されにくいため、位置が飛んだように見える。
・沈黙行動
足音・呼吸音・体毛の摩擦音を極限まで抑制する体構造を持ち、完全な静寂下でも行動可能。
これらはすべて、「戦闘で勝つ」ためではなく、見極めて生き延びるための能力だ。
■ 繁殖と個体関係
ヴェルディグリスは群れを作らない。
繁殖期のみ一時的に接触するが、育児は基本的に単独で行われる。
子は成長するにつれ、互いの存在を避けるようになる。
これは争いを避けるためではなく、感応能力同士が干渉し合うのを嫌うためだと考えられている。
結果として、同一地域に複数個体が存在することは稀で、生息密度は極端に低い。
■ 人間社会との関係
影狼ヴェルディグリスは、長らく「幻獣」「噂話」として扱われてきた。
被害がほとんど出ず、討伐報告も少ないため、公式記録に残りにくかったからである。
しかし近年、霧地帯での探索失敗例が蓄積されるにつれ、
「見えない脅威の基準点」として注目されるようになった。
熟練者ほどヴェルディグリスの存在を恐れない。
なぜなら、彼らは理解しているからだ。
――影狼が姿を現したということは、
こちらが“測るに値する存在”として認識された証なのだと。
■ 総評
影狼ヴェルディグリスは、暴力によって支配する魔獣ではない。
環境に溶け込み、状況を読み、無用な衝突を避ける知性を持つ。
それゆえに、
この魔獣と遭遇して生き延びた者は、
多くの場合こう語る。
「――あれは、俺たちを殺しに来たんじゃない。
最初から、値踏みしに来ていただけだ」
そして気づいたときには、
霧の向こうに、その姿はもう存在していない。
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影が、折れる。
それは視覚的な比喩ではなかった。
空間の中で一本に連続していたはずの「位置の連なり」が、物理法則を無視する形で屈曲した――その感覚が、皮膚よりも先に骨の内側へ伝わってくる。
視界の端で、クレアの輪郭が揺れる。
二重に、しかし残像のように滲まない。
そこにあったはずの“現在地”が、ほんの僅かにずれただけだ。
彼女は踏み出していない。
足裏は苔に触れたまま、圧も変えていない。
それでも身体の在り処だけが、立体的な層をまたぐように切り替わっている。
魔獣の前肢が振り下ろされる。
筋繊維の収縮は最短。
関節角度は無駄なく固定され、爪の軌道は一点へ収束している。
空気が、低く鳴った。
「ブン」という音ではない。圧縮された空間が歪み、戻ろうとする際に発する、鈍い“反発音”。
だが、その爪は――届かない。
クレアは剣を振るわない。
腰も捻らない。
代わりに、身体を“傾けた”。
倒れる動きではない。
重心線を、人体が本来保持すべき支持範囲から外し、なおかつ転倒しない限界角度まで追い込む。
通常なら、足関節か股関節が悲鳴を上げる姿勢だ。
しかし彼女は落下すべきその質量を、影の走路へ預ける。
足裏の摩擦が消える。
重力は存在するが、働きかける方向が変わる。
結果として彼女の身体は地面に対して垂直を失い、空間に対して“沿う”形で滑った。
魔獣の爪が通過した場所には、霧だけが裂けている。
湿った空気が引きちぎられ、遅れて戻る。
そこに人の体積はない。
距離が、詰まる。
三歩。
だがその三歩は平面ではなく、立体的な曲面をなぞるような移動だった。地形を利用したのではない。空間の“歪み”を足場にしている。
クレアは、魔獣の側面にいる。
――ズッ
剣が低く走る。
肩甲骨が滑り、肘関節が伸び切る寸前で制動される。
刃筋は、肉を断つための角度ではない。
音はない。
切っ先が触れたのは肉ではなく、魔獣の体表を覆う“位相の膜”だった。
触れた瞬間――
キィン、と。
金属音ではない。
衝突音でもない。
骨の奥で、空間そのものが擦れたような感覚。
斬撃は弾かれていない。
刃は確かに進行した。
だが、その“進行先”が、ほんの数ミリだけ横へずらされた。
魔獣の体表に走る淡い魔導紋様が、一拍遅れて強く明滅する。
空間歪曲を担う構造が、干渉を受けた証だった。
クレアは深追いしない。
筋肉の反動を殺し、すぐに距離を切る。
重心を戻すのではなく、別の位置へ“置き直す”。
――斬れない。
彼女は内心で判断を下す。
この魔獣は、防御力が高いのではない。そもそも“斬撃が成立する位相”に常駐していない。攻撃が当たる前に、位置情報をずらす構造を持っている。
正面からの削り合いは不利だ。
魔獣は振り向かない。
頸椎を回すという動作を省き、体幹だけが滑るように向きを変える。
そのたび影が遅れて追随し、霧が薄く歪む。
空間が、静かに鳴る。
二者は、円を描くように距離を保つ。
一定の距離。
近すぎず、遠すぎず。
クレアは常に“半歩外”にいる。
踏み込めば届くが、踏み込めば読まれる間合い。
彼女は踏み込まない。
代わりに、動きの質を変える。
一度は、膝を深く沈める。
一度は、背筋を伸ばし切る。
一度は、呼吸を切り、
一度は、ほとんど動かない。
そのすべてが、攻撃ではない。
魔獣の反応速度、歪曲の幅、判断の遅延――
それらを引き出すための“問い”だった。
空間が、張り詰める。
静と動が、紙一枚の厚みで重なり合っていた。
魔獣はその問いに、律儀に答える。
位置をずらし、軌道を変え、歪みの強度を微調整する。
――だが。
私はそのやり取りの中に、微かな違和感を覚え始めていた。
魔獣の動きは確かに効率的だ。
だが、どこか“一定”すぎる。
反応速度も歪曲の幅も、常に同じ範囲に収まっている。
まるで、あらかじめ設定された限界値を越えないようにしているかのようだった。
(……観測、か)
クレアも、同じ結論に至ったのだろう。
彼女の動きが、わずかに変わった。
攻めるためではない。
“時間を稼ぐ”ための動き。
魔獣の攻撃を、正確に避ける。
だが、完全には離れない。
常に、一定の距離を保つ。
それは、この場に留まるための動きではなかった。
次の一手へ繋げるための、布石。
しかし――
そのときだった。
霧の奥、さらに谷の深部から。
微かな“揺らぎ”が波のように広がってきた。
最初は錯覚かと思った。
だが、次の瞬間にははっきりとわかる。
気配だ。
しかも、一つではない。
一拍遅れて別の方向からも。
さらに、背後の斜面側から。
谷の静寂が重くなる。
霧の密度が変わり、空気の流れが複雑に絡み合う。
(……複数)
クレアの視線が、一瞬だけ走る。
魔獣から目を離さず、周囲の情報を拾い上げる。
一匹。
二匹。
――いや、もっと。
数を正確に把握するには、時間が足りない。
だが、確実に言えることがあった。
この個体だけではない。
同じ“性質”を持つ存在が、谷へ流れ込んでいる。
クレアの判断は、速かった。
(……この場所に留まるのは、危険)
自分一人なら、まだ選択肢はある。
影走りで攪乱し、谷の複雑な地形を利用して引き離すことも可能だ。
だが――
背後に、私がいる。
フェルミナを守りながら、この数を相手にするのは無謀だ。
まして、この魔獣たちは捕食を目的としていない。
“確認”と“観測”が終われば、次の行動に移る可能性が高い。
ここで消耗する意味はない。
クレアは撤退を視野に入れ始めた。
そのためにはまず距離を切る必要がある。
影走りを完全に展開し、谷の層を使って一気に離脱する。
その算段を組み立てようとした――
まさに、その矢先。
クレアの視界に、“あり得ないもの”が映り込んだ。




