第131話 改造魔獣
霜根茸を手のひらに包み込みながら、私はしばらくその感触を確かめていた。
冷たさは依然として残っているのに、芯には確かな温もりがあり、まるでこの谷の呼吸そのものを小さく凝縮したようだった。
「……他にも、あるはずだよね?」
私がそう言うと、クレアは静かに頷いた。
「はい。この規模の地熱脈なら、点在して生えている可能性が高いです。ただし――」
彼女は周囲を見渡し、霧に沈む谷底の輪郭を慎重に測るように目を細めた。
「群生はしません。一つひとつが、少しずつ離れて生えているはずです」
「……内気な子たち、って感じだね」
思わずそう呟くと、クレアは一瞬だけ口元を緩めた。
「ええ。霜根茸は、競わない生き方を選んだ種だと聞きます」
その言葉が、この場所に不思議なほどよく似合っていた。
霧の底にある谷は、声を持たない代わりに無数の気配を抱えていた。
目を凝らすと、何もないように見える苔の起伏がわずかに呼吸しているように揺れている。霧が動いているのか、それとも地面そのものが息をしているのか、その境界は曖昧だった。谷全体が巨大な生き物の腹腔であり、私たちはその内側をそっと歩かされている――そんな錯覚さえ覚える。
赤枝の根は地表を這い、ところどころで岩を抱き込むように絡みついていた。その根元には長い時間をかけて堆積した腐葉土が黒く湿り、霧水を吸って鈍い光を放っている。そこに触れると指先に伝わるのは冷たさだけではない。柔らかさ、重さ、そして生き物の皮膚を思わせるような、かすかな弾力が脈打っていた。
谷底の空気は静かで、しかし完全に止まっているわけじゃなかった。どこかで地熱がわずかに流れ、霧を押し上げ、また沈ませている。その循環はとても緩やかで、急ぐことを拒むようだった。ここでは、早く進む理由がない。焦る必要も、競う意味も、そもそも存在しない。
足元に広がる苔は、均一な緑ではなかった。深い影色のものもあれば、霜に縁取られて銀を帯びたものもある。踏みしめるとある場所ではしっとりと沈み、別の場所ではわずかに弾力を返す。その違いが、地下を流れる熱の道筋や、水の溜まり方、霧の滞留の仕方を静かに語っていた。
私は一歩進むごとに、この場所が持つ独特の景色や雰囲気を感じていた。
目立たないこと。
広がらないこと。
互いを侵さないこと。
この谷に生きるものたちは、声高に存在を主張しない。条件が整った場所にだけ静かに根を下ろし、必要以上に広がろうとしない。そのあり方は競争や支配とは無縁で、ただ「ここに適しているかどうか」だけが基準になっているように思えた。
霧が一瞬、わずかに薄くなる。
その隙間から見えたのは遠くの岩陰に溜まった淡い蒸気と、そこに寄り添うように生えた小さな苔の群れだった。光は届かない。それでも、そこには確かに秩序があり、静かな均衡が保たれている。
この谷は、何かを選別する場所なのだろう。
力の強さでも、数の多さでもなく。
声の大きさや、目立つことでもなく。
ただ、その条件を受け入れられるかどうかだけで。
私は霜根茸を包んだ手を胸元に引き寄せ、そっと息を吸った。霧の冷気が喉を通り、肺の奥まで満ちていく。その感覚が、不思議と安心をもたらす。
ここでは、急がなくていい。
答えを出さなくてもいい。
ただ、この一歩を踏みしめることだけに集中していればいい。
そう思えた瞬間、谷の静けさが、ほんの少しだけ優しくなった気がした。
私たちは無言で視線を交わし、自然と手分けすることになった。
互いの姿が霧越しに辛うじて見える距離を保ちながら、それぞれ別の岩陰へと歩を進める。
足元の感触が少しずつ変わる。
苔の柔らかさ、霜の硬さ、地熱のぬくもり。
同じ谷の中でも、場所ごとに微妙な表情の違いがあり、その違いを感じ取るたびに私はこの土地が“均一ではない生”を抱えていることを思い知らされた。
霧は相変わらず濃く、視界は狭い。
けれど不思議と怖さはなかった。
ここでは、遠くを見通す必要がない。
足元と手の届く範囲だけを信じていれば、それで十分だった。
私はしゃがみ込み、苔の色や盛り上がりをひとつひとつ確かめていく。
淡い青緑、灰白色、わずかに銀を帯びた斑。
霜根茸が好む兆しは、少しずつ目に馴染んできていた。
――あった。
岩と岩の間、霧が溜まりやすい窪地に、もう一つ。
先ほどのものより小ぶりだが、同じ静かな輝きを宿している。
私は慎重に土をほぐし、柄を傷つけないように持ち上げる。
ふわり、とまたあの香りが立った。
冷たく、甘く、しかし決して強く主張しない匂い。
(……この谷、優しい)
そう思った。
厳しい条件を課しながら、同時に、選び抜かれた命には確かな居場所を与えている。
拒絶ではなく、選別。
淘汰ではなく、共存。
霧の向こうで、クレアが見つけたらしい気配が伝わってくる。
言葉は交わさない。
それでも、互いが同じリズムで動いていることがわかった。
時間の感覚が曖昧になっていく。
何分、あるいは何十分が経ったのか。
霧の底では、時計は意味を持たない。
ただ、採取した茸の数が、少しずつ増えていった。
やがて、クレアが私のもとへ戻ってきた。
彼女の手には、布と細い蔓、それから乾いた苔が抱えられている。
「……梱包します」
そう言って、クレアは地面に膝をついた。
まず彼女は、湿りすぎていない乾苔を選び、手のひらで軽くほぐした。
それを茸の傘の下に敷き、柄を支えるように包み込む。
次に柔らかな布で全体を覆い、最後に蔓でゆるく結ぶ。
「きつく縛ると、霜が剥がれます。空気を含ませたまま固定するのが一番です」
私は息を詰めるようにして、その作業を見つめていた。
まるで、眠る生き物を起こさないように布団を掛ける仕草に似ている。
「……運ぶ、というより……送り出す、みたいだね」
「ええ」
クレアは頷き、包みを両手で持ち上げた。
「この状態なら、厨房に戻るまで霜は保たれます。火に入れる直前まで、谷の記憶を残したまま」
その言葉を聞いて、胸の奥が静かに震えた。
料理は、ただ調理台の上で始まるものじゃない。
こうして、霧の底で息づいていた時間ごと運ばれていくのだ。
私も同じように教えられた通りに茸を包む。
最初はぎこちなかった手つきも、何度か繰り返すうちに少しずつ落ち着いてきた。
霧の中で、二つの包みが並ぶ。
小さく、しかし確かな重み。
「……持って帰ろう」
私がそう言うと、クレアは静かに頷いた。
私たちは包みを胸元に抱え、来た道を引き返そうとした――その瞬間だった。
クレアの足が、ぴたりと止まる。
それはあまりにも自然で、静かで、だからこそ異様だった。
霧の底に満ちていた谷の呼吸が、一拍だけ――ずれたように感じられた。
「……ミナ様」
低く、抑えた声。
私を呼ぶその声色が、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「どうしたの?」
問い返しながらも、胸の奥がひやりと冷える。
理由ははっきりしている。
クレアが、何かを“察知した”ときの声だったからだ。
彼女はゆっくりと視線を巡らせ、霧の向こう、谷のさらに奥――赤枝の根と岩陰が折り重なる暗がりへと意識を向けている。
「……気配があります」
「……魔物?」
「はい。ですが……」
クレアは言葉を切り、わずかに眉を寄せた。
「この谷のものではありません」
その一言が、背筋をぞくりと撫でた。
谷は確かに魔力地磁の影響が強く、魔物が全くいない場所ではない。
だが、ここに生息するものは限られている。
霧と地熱に適応した、動きの遅い菌類寄生型。
あるいは、苔や根に擬態する小型の魔獣。
どれもこの環境に溶け込み、谷の均衡を壊さない存在だ。
「……どんな、感じなの?」
声を潜めて尋ねると、クレアは剣の柄にそっと指を掛けた。
抜かない。ただ、いつでも抜ける距離感。
「気配が……浮いています」
「浮いてる?」
「ええ。この谷は、すべてが“地に馴染んでいる”。霧も、苔も、地熱も、魔力の流れも。
ですが――今感じているものは、そうではない」
彼女は一歩だけ、音を立てぬように後退し、私を背に庇う位置に立った。
「地脈に触れていない。
地熱の揺らぎと、呼吸が合っていない。
……まるで、この谷の上に“置かれた”ような気配です」
その言い回しに、私は唇を噛んだ。
――谷に、置かれた。
それは、この場所で生まれたものではない、という意味だ。
ここで育ち、適応し、選ばれた命ではない。
外から、意図的に持ち込まれた存在。
霧が、ゆっくりと動いた。
風はない。
それなのに霧の層が一方向へと、わずかに押し流される。
まるで何か大きなものがそこを通った余波のように。
「……来ます」
クレアの声が、さらに低くなる。
次の瞬間だった。
――ぬ、と。
霧の奥で、空気が歪んだ。
それは音ではなかった。
姿でも、匂いでもない。
“圧”だった。
谷底の静寂が、一斉に身を固くする。
苔が、わずかに伏せる。
霧が、呼吸を止めたかのように動きを失う。
そしてゆっくりと――現れた。
それは、獣の形をしていた。
だが、谷にいるどの魔物とも違う。
体躯は狼に近いが、骨格が異様に細長く、関節の位置が不自然だ。
脚は四本あるはずなのに、霧の中では時折六本あるかのように見える。
それは動きの速さのせいではない。
“影が遅れてついてきている”ような、奇妙な視覚効果だった。
体表は黒に近い暗灰色。
だが毛並みは存在せず、代わりに、濡れた革のような質感の皮膚が露出している。
ところどころに走る淡い魔導紋様が、呼吸に合わせて微かに明滅していた。
目は――一つ。
額の中央に、縦に裂けたような赤い眼。
瞬きをせず、まっすぐこちらを見ている。
その視線が霧を貫いた瞬間。
私は、息を呑んだ。
見られている、という感覚ではない。
“測られている”。
それは捕食者の視線でも、縄張りを守る獣のそれでもなかった。
感情がない。
あるのは、ただ任務のための認識。
「……改造魔獣」
クレアが、ほとんど口の中で呟いた。
「自然発生型ではありません。魔力構造が……人工的です」
彼女の分析は速い。
そして冷静だ。
「この谷の魔力循環に干渉せず、しかし遮断もされていない。
存在を“馴染ませていない”のに、拒絶されてもいない。
……つまり」
彼女は一歩、前に出た。
「この魔獣は、自然に生まれた個体ではなく、条件を満たすよう調整された個体です」
ぞくり、と寒気が走る。
この谷は、選ぶ場所だ。
条件を受け入れられるものだけが、存在を許される。
その均衡を壊さずに入り込むには、相当高度な魔力制御が必要になる。
「……誰かが、送り込んだ、ってこと?」
「断定はできません。ただ――」
クレアは剣を抜いた。
金属音は、驚くほど小さかった。
「少なくとも、この谷に自然にいる理由はありません」
魔獣が一歩、こちらへ踏み出す。
足音はない。
苔を踏んでいるはずなのに、沈み込みも、霜の砕ける音も聞こえない。
まるで、地面に“触れていない”かのようだ。
霧の中で、その赤い単眼がわずかに細まる。
私の胸元で、包んだ霜根茸が微かに震えた。
錯覚ではない。
冷たさの奥にあったあの芯の温もりが、警戒するようにきゅっと縮こまった気がした。
(……谷が、拒んでる)
そう直感した。
この魔獣は均衡の「外」にいる。
だから谷はそれを“生き物として認めていない”。
クレアが私に背を向けたまま、低く告げる。
「ミナ様。合図があったら、すぐに後退してください。
この魔獣……戦うこと自体が目的ではない可能性があります」
「……どういう意味?」
「探査、あるいは――確認」
その言葉が終わるより早く。
魔獣が、跳んだ。
霧を裂くように音もなく。
直線ではない。
地形を無視するような歪んだ軌道で。
クレアは一歩も動かない。
しかし、魔獣の跳躍に反応して――世界の方が、彼女の周囲で“止まった”。
それは錯覚ではない。
彼女が無意識のうちに、呼吸を一段下げたのだ。
肺の圧を下げ、横隔膜をわずかに沈める。
筋膜の張力が変わり、重心線が0.3秒早く前傾する。
ほんの数ミリ単位の内部調整。
それだけで、外界からの情報流入量が変わる。
魔導核の背後――心臓の右後方で、微細な霊素の流動が生じる。
闇霊素ではない。
それは“空気の情報を抜く”ための前準備、いわばゼロ地点への滑走。
(……速い)
霧を切り裂く黒影が、まっすぐクレアを目指して突進してくる。
だがその“速さ”は、単なる速度ではなかった。
影の軌跡が、視覚よりも早く動いている。
すなわち、空間そのものの情報伝達速度が、わずかに歪められている。
クレアはその異常を即座に見抜く。
(空間情報の乱調……。局地的な魔導波による位相歪曲。……ならば――)
彼女の脳裏に、一瞬で戦術図が描かれた。
彼女の戦いは「反射」ではない。
反射は遅い。
反応を超えるためには、身体と思考を切り離し、予測を先行させる必要がある。
そのために、彼女はこの七年間、
筋肉と魔脈の“意識統合”を徹底的に訓練してきた。
脳が判断するより先に、筋繊維が自己判断する。
それが彼女の戦闘理論――“身体思考”。
魔獣が視界の中央に差し掛かったその瞬間、
クレアの踵が0.1秒だけ地面を押した。
蹴ったのではない。
圧を与えただけ。
それで充分だった。
その極小の動作によって、彼女の足裏から流れる魔脈のラインが“折れる”。
筋膜に走るテンションが変化し、全身が一瞬で“影の走路”に同期する。
影走り――
その本質にあるものは、動くことを意識しない“運動の消失”。
まるで、肉体が先に未来へ滑っていくような感覚。
魔獣の爪が霧を裂いた瞬間、クレアの姿はそこにいなかった。
目視上の移動は、わずか半歩。
しかしその半歩は、空間情報の書き換えによる“位置の再定義”だった。




