第130話 指の先に触れるもの
歩き続けて、およそ一時間。
苔むした岩の合間を縫いながら薄暗い谷をそろそろと進んでいくと、ふいに地面から湯気のような白い靄が立ち上っている場所に辿り着いた。
足元の霜が微かにきしみ、次いでじんわりとした湿気が靴底を通して伝わってくる。
目を凝らすと、地表にはわずかに亀裂の走った岩盤が広がり、その裂け目から霧とも湯気ともつかぬぬるい蒸気が立ちのぼっていた。
「……ここから先、探します」
クレアの声はひそやかだった。
それに応じるように、周囲の空気もぴたりと沈黙を深めていく。
一帯は、湿った苔にびっしりと覆われていた。
色は深い緑というよりも限りなく黒に近い褐色で、そこに霜が縁取るように結晶化していた。
地面は柔らかく、足を置くたびに沈み込むような感触がある。
薄く張った氷がぱりりと音を立て、霧がその音をすぐに吸い取ってしまう。
「……この谷は、音がしないんだね」
ぽつりと呟いた私の言葉に、クレアが頷く。
「ここが“霧の底”だからです。風も反響も、すべてこの霧が吸ってしまうんでしょう」
確かに、耳を澄ましても風の音一つしない。
呼吸の音でさえ、どこか遠くから響いてくるような錯覚に囚われる。
空気が重い――のではなく、“深い”のだ。
谷底の、さらにその底。
見えない何かに包まれているような静けさだった。
谷底の地形は、まるで忘れられた神の掌のようだった。
周囲を囲む斜面は急峻というより、苔むした背中のようにうねりながら谷底へと傾斜しており、大小の岩が霧に包まれたまま点在している。岩はすべて深緑の苔に覆われ、その表面には氷の針が繊細に並び、指先で触れれば崩れてしまいそうな儚さを纏っていた。
地面はわずかに起伏しており、踏み込むたびにじゅく、と柔らかな音が靴底を伝う。水気を多く含んだ泥は冷たく、それでいて芯に温もりを孕んでいた。これは地熱のせいだ――斜面の地下を流れる温泉脈が、谷底の地中で呼吸しているのだと、どこかで聞いた記憶がある。
湿度は濃く、空気は飽和していた。見上げれば、赤枝の枝々がしだれたように広がり、その間を白霧が絡みつくように漂っている。日の光は届かず、全てのものが霧の濾過を通して見えるため、世界がどこか半透明なフィルムを被ったように霞んでいた。まるで夢の底を歩いているような錯覚に囚われる。
谷底へ進むにつれて、景色はさらにその密度を深めていった。
周囲を覆う木々は高さを失い、代わりに地を這うような矮性の灌木と苔が視界を支配していた。赤枝の巨木は姿を消し、そこに現れたのは灰樹と呼ばれるくすんだ樹皮を持つ低木群――その枝先には葉の代わりに、無数の霧露を留めた苔状の胞子体がついている。地形はさっきよりもなだらかな凹地となり、大小の岩が点在し、土の層は極端に薄く、踏めばすぐ下に岩盤があるのがわかった。
風はない。しかし空気は動いている。
ときおり、どこからともなく微かな滴りの音がした。霧の水滴が枝先からこぼれ、苔の上に落ちては即座に吸われる。その一音だけが静寂の帳に小さな波紋を生む。それ以外には音がない。自分の吐息さえ、何かに吸われるように遠ざかっていく。
谷の中央付近に差しかかると、地表に亀裂のような筋が幾つも走っていることに気づいた。そこからはさっきよりも深く淡い蒸気がゆらゆらと立ち上っており、まるで地中に溜め込まれていた空気が、行き場を探すようにゆっくり漏れ出しているかのようだった。蒸気の温度は一定ではなく、場所によってはほんのりと温かく、またある場所では刺すような冷たさが混じっている。これは霧と地熱が複雑に交錯する、この谷特有の“気層の乱れ”なのだという。
「……気をつけてください。地熱が強すぎると、足場が崩れる危険があります」
クレアがそっと囁いた。
見ると谷の一角にはわずかに地割れが走り、黒く焦げたような痕跡があった。おそらく地熱が一時的に噴き出して、近くの草や苔を焼いたのだろう。
それでも、この場所は生きている。
苔の間に宿る小さな葉。蒸気の中をふわりと漂う微細な羽虫。濡れた岩肌にしがみつくように育つ、色彩を失った小さな花々。すべてが、ここでしか生きられない命たちだった。
私は思った。
この谷は、山という存在が長い年月をかけて積み重ねた、ひとつの“答え”なのではないかと。
水と熱と冷気と時間が織りなした、たった一つの奇跡の環境。
その中でしか生まれ得ない命が、今、ここで静かに息づいている。
そんな場所に自分が足を踏み入れているという事実に、胸がいっぱいになった。
(……この谷で出会う茸は、きっと、ただの食材じゃない)
そう思えるだけの重みが、この土地には確かにあった。
霧がさらに濃くなり、視界がきつく絞られる。
その中で、ふと地面に違和感を覚えた。
苔の色が――微かに違う。
それまでの褐色に近い苔ではなく、そこだけは淡い青緑を帯びていた。
そして表面がわずかに盛り上がり、霧の粒が静かに染み込んでいく様子が見て取れた。
まるでその地面だけが別の呼吸をしているかのように、確かに“生きていた”。
私は無意識に歩みを緩め、その場所に近づいた。
蒸気の温度が微かに変わる。
ぬるく湿った空気に、地熱の香りと、かすかな――土と茸の混じった匂い。
そのとき風のように静かにクレアが立ち止まり、岩陰に目を留めた。
彼女は視線だけで何かを見定めた後、ゆっくりと膝をついた。
まるで、大切なものを起こさぬように扱う祈り手のような動作だった。
「……あった」
クレアの声は低く、けれど確かな重みがあった。霧の谷に沈む空気を震わせるには小さすぎる音だったのに、私の耳には驚くほどはっきり届いた。
私は足元の凍りかけた岩と、苔に覆われた斜面に細心の注意を払いながら、彼女のもとへ歩み寄った。湿った地面に靴が沈み、枯葉がぬかるみに小さく音を立てる。鼻の奥には、ひんやりとした霧と土の匂いが微かに残っている。
最初はただ、濃密な苔の陰に紛れた地面の歪みに過ぎないと思った。
でもよく目を凝らすと、それは明らかに“そこに在る”としか言いようのない存在感を放っていた。
直径にして掌ほど。傘は丸みを帯びた半開きの姿で、まるで眠るように身をすぼめている。
柄は細くしなやかで、霧の水分を吸ってなお崩れない芯を持っていた。
そして何よりも目を引いたのは、その色――
淡く微かに光を宿す乳白色の柄に続く傘の表面には、青銀とも灰青ともつかぬ霜が、薄い皮膜のようにうっすらと覆っていた。陽が差さぬこの谷では、光源は霧の反射か地熱に含まれる魔力の微細な揺らめきだ。だけどそのわずかな光を拾って、茸はまるで自ら発光しているかのように存在を主張していた。
息を呑むほどの静謐さ。
霧の粒が傘に降り積もり、融けずにとどまっている。
それがさらに茸の表面に薄氷のような透明感を加えていた。
私は思わず手袋を外し、素の指でその傘に触れてみた。
……ひんやり、と。
ただの冷たさではない。
冷気の奥に、明らかに“熱を秘めた静けさ”がある。
まるで寒さの中で目を閉じて眠っている小動物に触れたときのような、かすかな生命の律動が指先に伝わってきた。
「……これが、霜根茸……」
小さく呟くと、隣でクレアが静かに頷く。
「触ると感じませんか?外側は冷たいですが、芯に熱がある。これが地熱で育った茸の特徴です。――煮るとその熱が香りを押し上げてくると言われています」
私はその言葉を噛み締めながら、柄の根元に指を移した。
土は想像以上に柔らかかった。
腐葉土と霧水が交じり合い、まるで濡れた絨毯のようにしっとりとしている。
その中に浅く張られた茸の根――細く、けれど確かに大地を掴んでいた。
霧と冷気、そしてこの谷の重さそのものを少しずつ吸い込んで育ったように思えた。
ゆっくりと指を動かし、極力傷をつけないように土をほぐしていく。
すると、ふいに――ふわり、と。
どこからともなく、冷たく甘い香りが立ち上った。
鼻をかすめたのは、湿った森の奥に沈んだ土の香りと、氷に包まれた花びらのような淡い甘さ。思わず深く吸い込みたくなるような、でもすぐに消えてしまいそうな、壊れやすい香りだった。
「……採れた」
私は手のひらに乗せた茸を見つめながら、思わずそう呟いた。
ただ“見つけた”だけじゃない。
これは、“出会った”のだ――そんな実感があった。
人の手が届かない場所で、静かに育った命。
光も届かず、風すら通わぬ霧の底で、条件が揃ったわずかな時だけ姿を見せる特別な存在。
そして私は今、その存在に触れている。
自分の手で、それを受け取ったのだ。
この茸はやがて、灰庵亭の厨房に運ばれ、火にかけられる。
地熱で生まれた命が今度は人の手で熱を加えられ、また別の香りを放つだろう。
器に盛られたその一皿は湯気とともに人の前に置かれ、言葉では届かない温かさを伝える。
そしてその始まりが、今この手の中にある。
私はそっと茸の傘に手を添えながら、深く息をついた。
霧の中の冷たさが、指先から心に染み込む。
けれど、それが不思議と心地よかった。
「……これが、ゼン様の作る料理の味になるんだね」
「ですね。貴重な食材ですから、適当には扱えません。ただゼン様にとっては、希少な食材もそうでない食材も、等しく同じ価値があるそうですが」
クレアの声には、何かを守る者の覚悟が宿っていた。
私は頷き、もう一度、霜根茸を見つめる。
地面から切り離されたそれは、まだその冷たさを保っている。
ただほんの少しだけ手のひらの温度に応じて、傘の霜が緩んでいるようにも感じた。
小さな命が、次の役割へと向かっていく。
火にかけられ、香りを解き放ち、誰かの記憶となる。
私たちが厨房で見ていた“素材”の裏側に、こんな物語があったのだ。




