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第129話 王女としての責務



(……逃げているだけ、なのかな)


そんな問いが、胸の奥に静かに落ちてきた。


霧の冷たさとは違う。

山の空気が肺に沁みる感覚とも違う。

もっと深いところ――言葉になる前の、曖昧で、でも確かにそこにある違和感。


足は止めていない。

クレアの背中を追って、慎重に影斜面を進んでいる。

それなのに考えることだけは、どうしても止まってくれなかった。


むしろ“この場所”だからこそ。

光が遮られ、誰の視線も届かないこの斜面だからこそ、逃げ場のない「問い」として心の底から浮かび上がってきてしまう。


――ネプトラ大陸との同盟。

――ネプトラ王子リヴァノとの婚姻。


私が生まれたときから、いずれどこかで結ばれる運命だった「結び目」。


それは恋や感情の話ではない。

誰かを好きになるかどうかなんて、最初から議題にすら上がっていなかった。


ただ、必要だった。

私という存在が。


ネプトラ大陸は、七大陸の中でも少し変わっている――

私は小さい頃から、そう教えられてきた。


強い軍隊を持つわけでもない。

光の教義を掲げて世界を導くような国でもない。

魔導技術が飛び抜けているわけでも、英雄を次々に生み出してきた土地でもない。


それなのに、世界はあの大陸を決して軽く扱わない。


理由は、とても単純だった。


海だ。


ネプトラは、海を「支配している」と言われる。

でもそれは、艦隊を並べて睨みをきかせている、という意味じゃない。


彼らは、海を――知り尽くしている。


どの季節に、どの海域が荒れやすいのか。

どの月の、どの時間帯に潮が反転するのか。

風向きが少し変わっただけで、航路がどれほど危険になるのか。


そういうことを、国全体で把握している。


世界の中心を囲むマガローデ洋はとても大きくて、深い。

北と南で潮の流れが逆になり、赤道付近だけが比較的安定している。

だから東と西の行き来はしやすくても、南北を移動するには海と風を読む力が必要になる。


その「読む力」を、体系として持っているのがネプトラだった。


ネプトラの人たちは、海と一緒に生きてきた。

潮人と呼ばれる海民族は水の中に潜り、流れや魔力の偏りを体で感じ取ることができる。

私たちが地図で見る線や数字を、彼らは感覚として理解しているのだと聞いた。


だからネプトラの航路図は、ただの地図じゃない。

潮の癖や、風の気分、魔力の濃淡――

そういう「海の機嫌」が、細かく書き込まれている。


どの港を開けば物資が滞らず、

どの港を閉じれば、交易が一気に詰まるのか。


それを、彼らは知っている。


だから世界を巡る物資の多くは、知らないうちにネプトラを通っている。

食料も、鉱石も、魔導部品も、医療に使われる触媒も。

産地がどこであっても、安全に、安定して運ぶなら、ネプトラの航路を使うのが一番確実なのだ。


戦争になったとしても、ネプトラの軍事力は突出していない。

騎士団の数も、兵器の性能も、もっと強い国はいくらでもある。


……でも。


もしネプトラが港を閉ざしたら。


「航路の安全確認」

「潮位の調整」

そんな理由で船の出入りを止めたら。


世界は、剣を抜く前に困り始める。

軍を動かす前に、物資が足りなくなる。

薬が届かず、街が静かに弱っていく。


だからネプトラは、声を荒げる必要がない。

威嚇もしない。

ただ、静かに港を管理しているだけでいい。


それだけで、世界は彼らの存在を無視できなくなる。


私は王女として、何度もこの話を聞かされてきた。

ネプトラとの同盟が、なぜ「大切」なのか。

それが、世界の均衡を保つための“安全弁”だということを。


七極均衡条約が辛うじて保たれている理由の一つが、

ネプトラの海が安定して機能しているからだと、私ははっきりと教え込まれていた。


もし帝国が再び暴走すれば、ネプトラは物流を止めることでそれを牽制できる。


もし雷大陸が軍拡を加速させれば、補給線を抑えることで戦争の火種を冷やせる。


だから――

ネプトラとの婚姻同盟は、政治的に「最適解」だった。


末姫である私が、ネプトラ王太子に嫁ぐこと。

それは帝国が海を敵に回さないという証明であり、

同時にネプトラにとっても帝国の庇護を得るための保険だった。



――雷大陸エレトゥス。



あの大陸が再び不穏な気配を見せ始めたのは、ここ数年のことだ。

雷導兵器。

霊素を雷属性に変換し、蓄積し、瞬間的に解放する次世代兵装。


七極均衡条約では、高位属性魔導技術の軍事転用は明確に禁じられている。

特に雷属性は戦場での影響範囲が広すぎる。

制御を誤れば、敵味方の区別なく壊滅させかねないからだ。


それでも、研究は止まらなかった。


表向きは「防衛技術の更新」。

国境警備、対魔獣対策、霊素災害への備え――

どれも正当で、もっともらしい理由が用意されている。


けれど裏側では、

“どの条件で、どれほどの威力を発揮するか”

“どの距離で、どこまで影響が及ぶか”

明らかに「使うこと」を前提とした実験が積み重ねられていた。


エレトゥスがルミナスを警戒し、憎悪しているのは感情論ではない。

それは、積み重ねられた歴史そのものだ。


かつての聖王――セント=ルクレティア六世。

「光の普遍正義」の名のもと、雷大陸は徹底的に干渉された。

軍事、技術、信仰、行政。

あらゆる分野に“正しさ”という形で介入され、管理され、結果として疲弊した。


終焉戦役では、確かに共に戦った。

魔神族という共通の敵の前で、肩を並べた時間もあった。

けれど戦争が終わったあとに再構築された世界秩序は、結局、ルミナスを中心としたものだった。


彼らにとって七極均衡条約は、平和の証ではない。

次の侵攻を防ぐために、世界がルミナスに嵌めた“仮の首輪”。

そして同時に、

「いつか外されることを前提とした拘束具」でもある。


だからエレトゥスは、ずっと測っている。

――いつなら外せるのか。

――どこまで準備すれば、均衡を壊せるのか。


その動きを牽制するために、帝国が必要としたのが水の大陸ネプトラだった。


海路を制する者は、補給を制する。

補給を制する者は、戦争を始めさせない。

剣ではなく、物流と経済で均衡を保つ。

それが表向きに語られる戦略だった。


そしてその関係を世界に示すための、

最も分かりやすく、最も疑いようのない証が――

王族の婚姻。


私は、その“証”として選ばれた。


ネプトラ王太子、リヴァノ・ネプタリウス殿下。

彼が優秀な人物であることに、疑いはなかった。


初めて正式な場で言葉を交わしたときから、

その人となりははっきりと伝わってきた。

声の調子、言葉の選び方、沈黙の使い方。

感情を過剰に見せることはないが、決して冷酷でもない。

相手の立場を理解し、その上で自国にとって最善の位置を探る――

政治の場に立つ者として、極めて誠実な姿勢だった。


彼は、水の大陸の王子として、

そして次代の王となる者として、

自分が背負っているものを正確に理解している人だった。


ネプトラは豊かな海と航路を持つ一方で、内部は決して安定していない。

古くからの港湾貴族。

新興の商会連合。

宗教勢力と実利派の対立。

王家の権威は絶対ではなく、王位継承は常に政治闘争と隣り合わせだ。


リヴァノ殿下が置かれている立場を、私は知っていた。

保守派からは「帝国に近づきすぎる危うい改革者」と見られ、

改革派からは「まだ決断が足りない王族」と評価される。

常に試され続ける立場。


だからこそ彼にとっても――

ルミナスとの婚姻は、選択ではなく必要条件だった。


私たちは、似ていたのかもしれない。

個人の意思とは別の場所で、

国家という巨大な装置に“役割”を与えられた存在として。


光の大陸と結びつくことで、

王位継承の正統性を固め、

国内の反対派を抑え、

外に向けて“揺るがない同盟関係”を示す。


一国の王子として、これ以上に合理的な選択はない。


……そう、合理的だった。


あの婚姻は、政治的にも、外交的にも、軍事的にも、完璧に近い“解”だった。

少なくとも、書類の上では。


誰も悪くない。

誰も間違っていない。


ただ一つだけ、どうしても拭えない違和感があるとすれば――


その合理性の中心に、

“私という個人”が存在していなかったことだけだ。


聖皇院は、そのことをよく理解している。


ルミナス聖皇国は、建国以来ずっと、

「信仰」と「統治」を切り離さずに生きてきた国だ。

聖皇は王であり、同時に宗教的象徴。

国家とは、信仰を制度として固定化した巨大な構造体でもある。


その中で、王族とは何か。


それは「人」である前に、「機能」だった。


政治を担う者。

軍を率いる者。

外交を象徴する者。

信仰の純粋性を体現する者。


血筋とは、役割を正当化するための記号に過ぎない。


末姫である私はどの派閥にも深く属さず、発言権も弱く、内部権力の均衡に直接影響を与えない。


だからこそ、使いやすい。


「七」という聖数。

「末姫」という立場。

国外へ出しても、国内の権力構造を揺らさない存在。


聖皇院の会議で、私の婚姻が“最適解”として選ばれていく過程を、私はよく知っている。


誰も声を荒げなかった。

誰も感情を挟まなかった。

そこにあったのは、冷静な分析と静かな合意だけ。


それが、正しい政治の姿だから。


……だからこそ、分かってしまう。


私が今ここにいることが、

どれほど多くの均衡を危うくしているのか。


ネプトラとの同盟が揺らげば、

必ず動くのは雷の大陸、エレトゥス。


雷導兵器の完成。

限定的な衝突。

条約文言の“解釈”を巡る軍事的示威行動。


彼らはいつだって、「先に動いたほうが正義だ」と信じている。


それに対抗するため、ルミナスは動かざるを得ない。

だが、正規軍を動かせば七極均衡条約に触れる。


だからこそ、影部隊がある。

だからこそ、裏の研究がある。

だからこそ、「観測」という名の支配が存在する。


誰もがそれを理解している。

誰もが目を逸らしている。


そしてその連鎖の、いちばん外側に――


――カシアン。


あの兄が何を見て、何を測り、何を“必要”と判断するのか。

私は完全には知らない。

だけど彼が「個人の幸福」より「構造の安定」を優先する人間であることは、痛いほど分かっていた。


その構造の中で、私は確かに“駒”だった。


理解している。

納得も、しているつもりだった。


それでも。


霧に包まれた影斜面に立ち、冷たい空気を肺に満たし、足元の不安定な地面を一歩ずつ確かめながら歩いている今。


私は、思ってしまう。


――それでも、生きてみたかった、と。


役割としてではなく。

象徴としてでもなく。

均衡のための接着剤でもなく。


ただ一人の人間として、

選び、迷い、失敗し、学ぶ時間を。


それは、世界を壊すほどの欲望だろうか。


霧の中で、赤枝の根が静かに地を掴んでいる。

光の届かぬ場所で、選び、適応し、そこに在り続ける存在。


(……私は)


逃げているのかもしれない。

でも同時に、初めて“向き合って”いるのかもしれない。


自分が、何を差し出し、

何を失い、それでも何を選びたいのか。


影斜面の冷気が、頬を撫でる。

それは責めるようでも慰めるようでもなく、ただそこにある現実の温度だった。


政略婚姻の話が出たとき、私は理解していた。

相手が誰であれ、それが国家と国家の均衡のために必要な“結び目”である以上、私の感情は考慮されない。

それは残酷ではあるけれど、理不尽ではない。

むしろ、王族としては極めて“正しい”扱いだったと。



霧の向こうで、赤枝の幹が静かに立っている。

細くしなやかで、それでいて深く根を張り、影の中で生き続けてきた樹。

誰に称えられることもなく、ただ条件を選び、そこに適応し、芽吹いた存在。


(……あれは、選んでここにいる)


クレアの言葉が脳裏に蘇る。


“命を選ぶ土地”。


ここに生まれるものは、自らこの厳しさを選び取っている。

では私はどうだろう。


私は、この場所を選んだのか。

それとも、光から逃げてきただけなのか。


斜面の奥へ進むにつれ、霧はさらに濃くなる。

視界は狭まり、足元だけが世界のすべてになる。

一歩先が見えない不安と同時に、不思議な安堵があった。


(……戻る場所は、ある)


帝都。

白と金に輝く宮殿。

定められた席順、定められた笑顔、定められた未来。


戻ろうと思えば、いつでも戻れる。

呼ばれれば、私は“第七王女フェルミナ”として、何事もなかったかのようにそこに立つだろう。

そうすることが、世界にとって一番摩擦の少ない選択であることも、私は理解している。


理解しているからこそ――

胸の奥が、痛む。


私は、影の斜面に生える苔に指先で触れた。

ひんやりとして柔らかく、それでいて確かな弾力がある。

霧と霜と地熱の狭間で生き延びてきた、小さな命。


(……ここにいる間だけは)


ここにいる間だけは、私は「王女」ではなかった。

皿を洗い、野菜を刻み、寒さに震え、失敗して、怒られて、それでもまた朝を迎える。

役割ではなく、結果でもなく、“行為そのもの”が自分を形作る日々。


その時間が、あまりにも心地よかった。


だから分かってしまう。

このままではいられない、と。


日の当たらない場所に芽吹いたものは、やがて光を必要とする。

あるいは、光の側から見つかってしまう。


どちらにせよ、いつかは“選択”の時が来る。


――王女として生きるのか。

――それとも、人として生きるのか。


そんな単純な二択ではないことも、分かっている。

どちらかを選べば、もう一方が完全に消えるわけではない。

責任は追いかけてくるし、過去は消えない。


それでも。


「……ミナ様」


前を行くクレアが、立ち止まって振り返った。

霧越しのその横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。


「足元、大丈夫ですか」


「うん。……ありがとう」


短い会話。

それだけなのに、不思議と胸が温かくなる。


守られている。

でも、それだけではない。


こうして並んで歩き、同じ冷気を吸い、同じ霧に包まれている。

それだけで、私は“ここにいる”と実感できた。


影斜面の奥で、どこか微かに、甘く冷たい香りが漂い始める。

霜根茸の気配だと、直感的に分かった。


厳しい条件の中で選ばれ、生まれ、そして今日ここにある命。


(……私も)


私もまた、生まれながらに選ばれてしまった存在だ。

王女として。

国家の均衡を支える部品として。


けれど、その中でどう生きるかを選ぶ余地は、きっとまだ残されている。


霧の中で、私は小さく息を吸い込んだ。

冷たく、澄んだ空気が肺の奥まで満ちていく。


逃げているだけでは、ここまで来れなかった。

それは確かだ。


だったら――

この時間も、この場所も、私にとっては“選び取ったもの”だと、胸を張って言いたい。


赤枝の影の下で、私は静かに歩を進める。

いつか来る光の中へ戻るその日まで。

今はただこの影の温度と、足元の確かさを、心に刻みながら。



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