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第128話 陰が落ちる場所へ


挿絵(By みてみん)




朝の仕込みがひと段落した頃――。


竈の火はすっかり安定し、鍋の中では干し肉と根菜がゆっくりと煮崩れ始めている。白晶岩塩と火香草の香りが湯気に混じって立ち上がり、湯が揺れるたびにほのかに焦げ香が鼻をくすぐった。


私は洗い物の手を動かしながら、その匂いと音に意識を浸していた。無駄のない所作で刻まれる野菜の音、薪のはぜる音、そして鍋の中から聞こえる“ことこと”という優しい呼吸のような響き。それらが混ざり合って、今朝もまたこの食堂にだけ流れる時間が静かに形を作っていた


そのときゼン様が包丁を置き、視線を厨房の奥へ向けた。


「クレア」


「はい」


「少し、時間をもらえるか」


ゼン様の声は低く、いつもよりほんのわずかだけ硬かった。


クレアは包丁を拭く手を止め、静かに一歩下がる。

その仕草だけで、ただの雑談ではないと分かった。


「何でしょうか」


「今朝の霧は重い。谷の気配も変わってる」


そう言いながらゼン様は炉端から身を離れ、棚の奥へ手を伸ばす。

そこから取り出されたのは革袋に丁寧に包まれた一枚の古い地図だった。


広げられた地図には、ガルヴァ山郷の険しい谷筋が細かく描かれていた。何度も折り畳まれたその紙はところどころ指先の油で光り、角は擦り切れて丸くなっていた。


「昨夜の風向きと湿り方……赤枝谷の影側に霧が溜まったままだ」


ゼン様はそう言って、谷の線をなぞる。


「……そこで、頼みがある」


クレアの瞳がかすかに引き締まる。


「赤枝谷の影斜面に行ってほしい。この時期だけ顔を出す“霜根茸”を取りに」


私は息を飲んだ。


霜根茸――。


つい数日前、ライルがそう呼んで教えてくれた名だ。

「この山で一番見つけにくくて、秋で一番美味い茸がある」と。


十一月、初霜が地を叩くように降り始める頃、霜と霧と地熱の“重なり”が偶然生まれた一角にだけそれは静かに現れるのだという。


条件が極端に限られる。日照ではなく“影”が好まれ、地熱は必要だが過剰な蒸れは嫌う。霧の濃度も、土壌の水分量も、その時の風向きまでもがすべて噛み合って初めて姿を見せるという。


「……条件は揃ってる。今朝の冷え込みと、昨日の夜霧の残り方。あそこに出るとすれば、今日か明日が限界だ」


ゼン様の口調には確信があった。


クレアは一度だけ小さく息を吸い、それから微かに瞼を伏せて頷いた。


「了解しました。支度して、すぐに出ます」


さすが歴戦の従者。声音ひとつ揺るがせず即座に任務に切り替わる姿は、まさに“ザ・プロフェッショナル”。そのまま裏の倉庫へと向かおうとした、まさにそのときだった。


「あっ、わ、私も行きたいっ!」


……自分でも何を言ってるのか一瞬わからなかった。


だが、声はもう出ていた。

しかも、妙にいい声で。


クレアが足を止めて振り返り、ゼン様が無言で片眉を持ち上げる。

あれはきっと、「今のノリで言ったよな?」という目だ。

完全に問い詰め目線である。


「……お前が?」


「はいっ! 茸って、調理する前に、どうやって採れるかも知っておいたほうが……きっと、ええと……お料理の、理解が、深まるというか……!」


だんだん語尾が怪しくなっていく。

このままだと「深まるというか…気のせいというか…」とか言い出しかねない。


ゼン様は腕を組みながら、しばらく無言でこちらを見ていた。

その無言がまたプレッシャーだ。

なんせ、この人の無言ってどこか――ほら、王宮の重臣会議で、最終的な発言をいつも静かに待ってから鋭く指摘してくる、あのダロス宰相みたいな感じなのだ。


クレアは少しだけ困ったように目を伏せ、それから毅然と首を横に振った。


「……ミナ様、それは危険です。赤枝谷の影斜面は滑りやすく、魔獣が通りかかる可能性もあります。お店で待っていてください」


――うん、そう言われると思った。


正論だ。百点満点の正しい答え。

でも今の私は、それを飲み込めるほどお淑やかな“お姫様”ではいられなかった。


「……守ってもらえるのは嬉しいよ。でも…」


私は少しだけ俯いて、それから目を上げた。


「いつも守られてばかりで何もできないのは……もう嫌なの!」


クレアがはっと目を見開いたのがわかった。


「できることは少ないし、たぶん足も引っ張ると思う。……でも、それでも、一緒に行きたいっ!対等に……とは言わないけれど、せめて、少しでも近づきたいの」


口にしてから、胸の奥がじんわりと震えていた。


「……対等に扱ってほしい」なんて、さすがに言葉にはできなかった。

でもきっと、今の言葉の奥にあったのはそれだ。


王宮では、何もかも“やってもらう”のが当たり前だった。

衣を着せられ、食事を運ばれ、移動すら馬車任せ。

感情すら管理され、笑い方ひとつ教わる日々の中で――

私はずっと、“役割”でしか人と向き合えていなかった。


けれど灰庵亭に来て、初めてだった。


「自分の手で、何かをしている」と実感できたのは。

不器用なりに皿を洗って、野菜を刻んで、湯気を浴びて。

その中でようやく“人としての実感”を得られていたのだ。


だから――


「茸が見たい」と思ったのは、ただの好奇心なんかじゃない。


その土地で育ち、空気と霧を吸って生えた命を、自分の足で確かめて、手で触れて。

それを火で温めて、舌で味わう。

そんな当たり前の流れの“最初の一歩”を、自分の足で踏み出してみたかった。


沈黙の中、ゼン様とクレアの視線が交錯する。


静かな――でも確かに、判断を見極める間。


そしてやがて、クレアの表情がわずかに和らいだ。


「……では、条件があります」


「じょ、条件……?」


「足を滑らせたら、即撤退です。叫び声を上げたら、引き返します。無理そうだと思ったら、即刻判断を仰ぎます」


「わ、わかった!」


思わず敬礼しそうになる勢いで答えた。


ゼン様は、やれやれといった顔で一言。


「……転ぶなよ」


その瞬間、私は晴れて“茸採り遠征隊”の一員となった。

……問題は、雪の残る斜面で転ばずにいられるかどうかである。


クレアの顔はまだ若干曇っていた。

(でも、なんだろう。ちょっとだけ、期待されてる気もする)


その小さな期待に、胸が温かくなるのを感じていた。



* * *



支度を終えた私たちは、朝食の片づけを終えてすぐに山へ入った。

向かう先は、灰庵亭から北東に延びる細い登山路を経て、一度尾根を越えた先にある「赤枝谷」。


その名の通り赤枝という紅葉樹が密集する谷で、初冬には霜に覆われてまるで赤い絨毯のようになることもあるという。


だが、私たちが向かうのはその“影斜面”――ほとんど陽が差さない、湿って冷たい北側の窪地だ。


道中、クレアが手際よく道標を確認し、獣道を読み、足場を選んで進む。

私はと言えば重ね着したマントの裾をしっかり掴んで、滑らぬように一歩一歩ついていくのがやっと。


「……ミナ様、足元」


「ひゃっ、あ、はい!」


足場に積もる霜に、思わずよろける。

クレアがさっと手を差し出し、私はその手にしがみついた。


「……大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫大丈夫! ちょっと心臓が飛び出しそうになったけど!」


クレアがふっと笑って、再び前を向いた。



山道を進むにつれ、風が変わった。


谷の入口から見えていた柔らかな朝陽は、次第に赤枝の樹冠に遮られ、私たちの頭上から姿を消していった。赤枝はこの山域特有の紅葉樹で、細くしなやかな幹から無数の枝を広げ、その先端に深紅から琥珀色まで微妙に異なる葉を抱いている。初霜に濡れた今、その葉はまるで濡れた絹のようにしっとりとした光をたたえていた。風が吹けば葉擦れの音はせず、代わりに木々の隙間からわずかに落ちた霧粒が、冷たい光の粒となって舞い落ちてくる。


標高はさらに上がり、道は傾斜を増していく。尾根へと続く急登に入ると、地面には陽の光が届かず、霜が凍りついて白く光っていた。複雑に絡み合った根が浮き出た地表には霧が這い、靴の底がふと滑るたび、私は声を殺して息をのんだ。


登山路というにはあまりに細く、人ひとりがようやく通れる幅の獣道を、私たちは並ばず、縦一列になって進む。道の端には小さな標石や木片が埋め込まれているが、半分以上は霧苔に覆われて判別しにくい。クレアはそれでも迷いなく、枝の重なりや草の倒れ方、地表の窪みから現在地を読み取り、次に進むべき方向を即座に判断していた。


やがて尾根を越えると、空気が一変した。


重く、湿った風が斜面を這い上がってくる。南側とは違い、北向きのこの斜面には日の光がほとんど届かない。霧は濃く、わずか十歩先もぼんやりとしか見えず、風に揺れる赤枝の葉音がようやく聞こえたと思えば、それもすぐに霧の膜に吸い込まれて消えていった。


「……ここからが“影斜面”と呼ばれる場所になります」


クレアがそう告げたとき、空間の温度がひときわ下がったように感じた。


霜が降りた地表は白く、しかしどこか青みを帯びている。足を踏み出すたび、霜が細く砕ける音が微かに響き、それがすぐに霧の静寂に飲まれていった。辺りは赤枝の根が多く這い回る湿地帯で、地面の一部には湯気のような霧が立ち昇っている。これは、地下に流れる地熱水脈の影響だと聞いていた。ここはガルヴァ山郷でも特に魔力地磁の影響が強い区域の一つで、霧と霜と温度差が複雑に絡み合い、地形全体が“眠っている呼吸器官”のようにゆっくりと息づいているのだ。


眼を凝らすと、岩の割れ目からごく微細な湯気が出ていた。近づいてみると、湯気の下には苔が広がり、その苔の表面には露とも霜ともつかぬ微細な結晶が煌めいている。空中には魔力の微粒子が漂っているのだろうか。ときおり、白く光る虫がふわりと舞っては霧に消えていく。


風はほとんど吹いていない。谷全体がひとつの大きな器のようになっており、霧と冷気がその内側に溜まったまま滞っている。視界は狭いが、静寂は深い。まるで、世界がここだけ“時を止めている”かのような錯覚――


「……不思議な場所だね」


私は思わず呟いていた。


クレアは一瞥し、短く答える。


「ここは“命を選ぶ土地”と言われています。どんな植物も、どんな生き物も、厳しい条件の中で“ここを選んで”生まれてくるそうです」


その言葉に私は思わず足を止め、地面に膝をついて周囲を見渡した。


ひとつひとつの葉の形。苔の生え方。樹皮のひび割れ。

――それらがすべて、何かの“選択の痕跡”に思えてきた。


“料理の源を知りたい”


そう願ったあの瞬間が、ようやく“意味”に変わりつつある気がした。



自分でも、どうかしていると思う。


こんな山奥まで来て、霧に濡れた斜面を歩きながら頭の片隅でずっと「料理」のことを考えているなんて。


冷静に考えれば考えるほど“バカだな”って思うよ?

野菜の切り方だってまだまだ未熟だし、切れば切るほどライルにダメ出し食らっちゃうようなレベル。

包丁を握る角度ひとつで断面の表情が変わることすら、最近になってようやく実感し始めた程度だ。

米の研ぎ方や炊き方だって、全然わからない。

水の量、火加減、蒸らしの時間――

どれも「こうすればいい」という正解を、私は自分のものにできていない。


そんな人間が、

“料理の源を知りたい”なんて。


……笑っちゃうよね。


王宮の食卓には、いつも完成されたものだけが並んでいた。

白磁の皿に盛られ、香りも温度も計算された料理。

それを口に運び、感想を述べる。

そこに必要だったのは、舌と礼儀と“適切な言葉”だけ。


土に触れる必要はなかった。

霜に濡れた葉の冷たさを知る必要も、

刃を入れる前の重さを量る必要もなかった。


だから今こうして影斜面に立ち、冷たい霧を吸い込みながら「源」を探そうとしている自分が、

あまりにも場違いで、

あまりにも不相応で――

それでも、足を止められなかった。


霧の向こうで、赤枝の根が地表を這っている。

無数の根が絡み合い、時には露出し、時には苔に覆われながら、それでも確かに大地を掴んでいる。


(……ゼン様は)


ふと、あの背中を思い浮かべる。


黙々と包丁を振るい、

火を見て湯を聞き、匂いを確かめる。

余計な言葉はなく、誰かに教えようとも導こうともしていない。

ただそこにあるものを、そのまま扱っている。


ああいうふうには、なれない。


それは分かっている。

生まれも歩んできた道も、決定的に違う。

彼が背負ってきたものと、私が背負わされてきたものは、形も重さもまるで別物だ。


でも――。


それでも、思ってしまった。


「近づいてみたい」と。


なれなくてもいい。

追いつけなくてもいい。

ただ自分の足で、自分の手で、

ほんの一歩でもその“場所”に近づいてみたい。


それはきっと、許されるはずだ。

少なくとも今、この霧の中にいる間は。


影斜面は、光を拒む。

正確には、選ぶ。

この場所に届く光は常に弱く、斜めで、断片的だ。

だからこそここに生きるものは、光に頼らない。

代わりに霧を受け入れ、冷えを抱え、地熱を読む。


光に照らされることを前提とした生き方じゃない。


私はこの「影」が好きだと思った。

王女として生きてきた私は、いつも光の中に置かれていた。

称賛、期待、注目。

それらは確かに温かかったけれど、同時に逃げ場のない眩しさでもあった。


影の中では、誰も私を見ていない。

評価も役割も、肩書きもない。

ただ、歩いている私がいるだけ。


(……自由って、こういうことなのかもしれない)


胸の奥が、少しだけ軽くなる。



わかってるよ?



ゼン様の食堂に転がり込んでから、少し時間が経った今だからこそ。


…いや、分かってしまっていた、のほうが正しいのかも。


一国の王女ともあろう人間が、いつまでもこの“影斜面”のような場所に留まり続けるわけにはいかないということを。


霧に包まれ、光の届かない谷。

静かで、穏やかで、誰にも急かされない場所。

ここは確かに、私が初めて「呼吸できる」と感じた場所。


けれど同時に――

ここは世界の表舞台から見れば、意図的に視線を逸らされた“陰”でもある。


私は足元の霜を踏みしめながら、ゆっくりと歩を進めていった。

砕けた霜の音は小さく、すぐに霧に溶けて消えていく。

まるで、ここで起きたことはすべて、世界に記録されることなく失われていくかのように。



私はいつか戻らなければならない。

光の中へ。

王女としての場所へ。



婚姻の話も、責任も、国家の均衡も、

すべてが「待っている」のではなく、最初から私の背後に張り付いている。


この影斜面は、永遠の居場所ではない。

ここに留まり続けることは、許されない。



でも――


今はまだ


…この境界線の上に…。



光と影の、ちょうど間。

踏み出せば、どちらにも転ぶ場所。


今しかできないことが、確かにある。

今の私だからこそ、触れられるものがある。


たとえ笑われてもいい。

「王女の気まぐれ」だと言われてもいい。

未熟だと、身の程知らずだと、嘲られてもいい。


それでも“学んでみたいと思う”ことまで、誰にも奪わせたくなかった。


自分の力で精一杯生きてみたい。

ほんの一瞬でもいいから、

役割ではなく、自分の意思で立ってみたい。


影斜面の冷気が、頬を撫でる。

霧が肌に触れ、白い呼吸と混ざる。


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