第127話 ……王女、成長しました
ゼン様の食堂に転がり込んでから、だいたい二週間ほどが経った。
……正確に数えたわけじゃない。
けれど、毎日同じようで少しずつ違う仕事をして、毎日同じようで少しずつ違う失敗をして、毎日同じようで少しずつ違う料理の匂いに包まれていれば、体のほうが勝手に「これくらいかな」と覚えてしまうものだ。
少なくとも、最初の頃みたいに――
「お皿がっ! お皿が逃げてぇぇっ!!」
なんて悲鳴を上げることは、もうなくなった。
……なくなっただけで、ゼロではないけれど。
今の私は、わりと“それっぽく”働いていると思う。
皿洗いは手際よくなったし、配膳も「お待たせしました」が、考えなくても自然に口から出るようになった。
毎日いろんなお客さんが来る中で、基本的な接客対応もなんとなく身についてきた。
(全部、見様見真似だけど……)
「今日も混んでるねぇ」
「山を越えてきた甲斐があるよ」
そんな言葉に、少し照れながらも笑顔で返せるくらいには。
(……王女、成長しました)
自分で言うのもどうかと思うけれど、これは間違いなく進歩だ。
ほんの二週間前まで台所で右往左往していた私からすれば、立派すぎるくらい。
ただし。
ひとつだけ、どうしても理解できないことがある。
――なんで、こんな山奥で毎日満席なの?
準備をしながら、思わず口に出してしまった。
「……いや、やっぱりおかしくない?」
「何がだ?」
仕込みをしながら、ゼン様が相変わらず淡々と返してくる。
「だってここ、山ですよ?
地図にもほぼ載ってないし、道は険しいし、下手したら魔獣とこんにちは、ですよ?」
「そうだな」
「それなのに毎日満席ってどういうことですか?
しかも聞きましたよ? 予約、一年待ちだとか……」
「……らしいな」
らしいな、で済ませないでほしい。
一年待ちって何。
王城の晩餐会よりハードル高いじゃない。
吹雪の峠を越えてきたという老人もいれば、靴底が擦り切れるまで歩いてきた商人もいる。
中には「途中で三回遭難しかけました」と、妙に爽やかな顔で報告してくる人までいた。
(それ、笑って話す内容じゃないから!)
しかも全員、口を揃えてこう言うのだ。
「それでも、ここで食べる価値がある」
「この一膳のためなら、また来る」
いや、何がそこまで駆り立てているの。
料理は確かに美味しい。
山の恵みが活きていて、派手さはないけれど体にすっと染みる味。
でもそれ以上に、ここには妙な“引力”がある気がする。
横から、ライルがさりげなく補足する。
「この前なんて、“来年の自分へのご褒美”って言って予約していった人がいましたよ」
「未来の自分を信用しすぎじゃない!?」
「しかもその人……予約帳に名前を書いたあと、妙に晴れやかな顔して帰っていったんですよ」
ライルは苦笑しながら、鍋の蓋を軽く叩いた。
「“ここに来る予定があるだけで、来年まで頑張れる気がする”って」
「……もはや精神安定剤じゃん……」
思わず素で返してしまう。
だっておかしいでしょう。
料理を食べる“予定”があるだけで、一年分の活力が湧くなんて。
王宮の褒賞制度でも、そこまでの効果は聞いたことがない。
「あとですね」
ライルは少し声を潜めて続ける。
「ここで食べたあと、妙に人生の決断をする人が多いんです」
「……決断?」
「はい。商売を畳んだ人とか、長年の確執を清算しに戻った人とか、
逆に“もう一度挑戦してみる”って帝都へ引き返した人もいました」
私は手を止めて、思わずゼン様を見る。
(……え、なにそれ。怖くない?)
ゼン様は包丁を動かしたまま、ちらりともこちらを見ずに言った。
「大げさだ。うまい飯食って、落ち着いただけだろ」
「いやいや、絶対それだけじゃないですって!」
「腹が満ちると、余計な考えが減る。それだけだ」
そう言って、刻んだ野菜を鍋に入れる。
湯気が立ち上り、出汁の匂いが広がる。
……たしかに、この匂いの中にいると、焦りとか怒りとか、どうでもいいことが一瞬遠のく気はする。
「でもですね」
ライルは肩をすくめた。
「帝都じゃ、そういう話が尾ひれ背ひれついて広がってまして。
“ここで食べると人生が整う”とか、
“迷っているときに行くと答えが出る”とか」
「占いか宗教じゃない!」
私が真顔で言うと、ライルが吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
「一応、教祖はいない設定ですけどね」
「いや、いますよ。目の前に無自覚なのが」
「誰が教祖だ」
ゼン様がクレアの指摘に即座に突っ込む。包丁の音が、心なしか強くなった。
「だっておかしくない!?
人生の分岐点に“とりあえず飯食いに行こう”って話ならともかく、わざわざこんな山奥まで…」
「団長は気づいてないんですよ。いつのまにか、このお店がたくさんの人に支持されていることに」
「…ようするに、腹が減ってる状態で決断するなって話だ」
「…いやいや、そんなレベルの話じゃないですから!」
サリーが肩を震わせながら補足する。
「帝都では最近、“重大な決断の前には灰庵亭で一食”って言い回しまで出てます」
「定型句になるな!!」
「結婚前に来る人もいましたね」
「ちょっと待って!? それ聞き捨てならないんですけど!?」
思わず前のめりになると、ゼン様が一瞬だけ手を止めた。
「……帰り際、表情は楽だったぞ」
「重い!! 判断基準が重すぎる!!」
「離婚前にも来た人が」
「やめて! 人生の節目全部ここ経由にしないで!!」
「そのうち、“生まれる前に予約しておけばよかった”とか言い出す人が出るかもしれませんね」
「出産祝い予約!? さすがにそれは狙いすぎじゃない!!?」
ゼン様は深いため息をついて、鍋をかき混ぜながら言った。
「……俺はただ静かに暮らしたいだけなんだがな」
低い声で、ぽつり。
「特別なことをしているつもりはない。そもそもこの場所で“食堂を開こう”なんて、最初は思ってもなかったんだ。麓の連中が時々顔を出しに来るから、挨拶がわりに飯を出してただけで」
その言葉に、少しだけ空気が静まった。
……静まった、はずだったのに。
「でも、団長」
クレアは涼やかに微笑みながら、落ち込んだ表情の彼の横顔目がけて言い放つ。
「それ、一番タチが悪いやつですよ。“何もしてないのに人生変えてくる系”の人です」
「……だから、俺は特別なことは何も…」
「……何もしてないって真顔で言うのが、一番信用ならないんっすよ」
ライルが苦笑混じりに言うと、ゼン様は面倒くさそうに視線を逸らした。
「腹が減ってる人間に、飯を出してるだけだ」
「その“だけ”が、普通はできないんですって」
私は思わず腕を組んだ。
考えてみれば、ここに来る人たちは皆少なからず疲れている。
山を越えてきたという事実だけでも相当な覚悟が必要だ。
仕事に、人生に、あるいは自分自身に行き詰まって、それでも「ここに行こう」と決めた人たち。
そういう人たちがこの霧の谷に辿り着いて。
火の音を聞いて、湯気を浴びて、黙々と料理をする背中を眺めながら温かいものを口に運ぶ。
誰にも急かされず、評価もされず、何かを求められることもない時間。
……それは、確かに“効く”。
王宮では、食事ですら役割があった。
誰の隣に座るか、どの順番で箸をつけるか、どんな表情で感想を述べるか。
全部が意味を持っていて、全部が見られていた。
でも、ここでは違う。
食べる理由は一つしかない。
――腹が減っているから。
それだけの行為が、どれほど人を軽くするか。
私はこの二週間で嫌というほど知ってしまった。
「……たぶんですけど」
気づけば、私はぽつりと口を開いていた。
「ここに来る人たち、答えをもらいに来てるんじゃないんですよ」
「……あ?」
「答えを“考えられる状態”に戻りに来てるんだと思います」
ゼン様は何も言わず、鍋をかき混ぜる。
出汁の香りが、ゆっくりと広がる。
「だから、団長が何も言わないのがいいんです。
説教もしないし、導きもしない。ただ飯を出すだけ。
……それが一番心に残るんじゃないですか?」
しばらく沈黙が落ちた。
ゼン様はほんの一瞬だけ手を止めて、小さく息を吐く。
「……勝手に解釈するな」
「してますよ、みんな。もうとっくに」
私は肩をすくめた。
……でも、ほんとにそういう“さりげない優しさ”が効いている気がする。
下手に物や言葉を押しつけないからこそ、そこに意味を見出してしまう人がいる。
…多分。
(……まぁ、そもそもあの“ゼン様”が開業してる店だしね)
この店では、不思議と“話しながら働く”ということが自然に成立していた。
王宮の給仕だったら、作業中の私語なんて即注意案件なのに、ここでは包丁の音や湯の沸く音に溶け込むみたいに言葉が流れていく。
私は洗い終えた器を伏せ、布で水気を拭き取りながらふと店内を見回した。
梁にかかった干し草、壁に立てかけられた古い狩猟槍、窓の外に揺れる霧。
豪華さなんて欠片もないのに、なぜか落ち着く空間。
(……そりゃ、来たくもなるか)
一年待ち、という異常な数字の裏にあるのは、きっと“料理”だけじゃない。
この静けさとか火の音とか、ゼン様の無駄のない所作とか、そういう全部をひっくるめて味わいに来ているのだ。
それに――
「……あ」
野菜籠を抱えた瞬間、指先にじんと冷えが刺さった。
霧樹林から運び込まれた朝採れの野菜は、まだ夜の冷気をまとっている。
思わず肩をすくめると、クレアがちらりとこちらを見た。
何も言わないけれど、その視線だけで「寒いですね」と言われた気がして、私は小さく笑って誤魔化す。
そうだ。
今は考えるより、動く時間だ。
米を研ぎ、野菜を刻み、鍋を温める。
ゼン様の食堂の一日は、いつだって静かに、確実に始まる。
そしてその始まりは――
容赦なく、寒い。
朝は、やっぱり寒い。
それもそのはずで、ここは標高千七百メートル超えの山の中。
帝都の「ちょっと肌寒い朝」とは、根本的に次元が違う。
息を吸うたびに肺の奥がひやっとして、吐くと白い息がふわりと浮かぶ。
まだ日が昇りきらない時間帯なんて、霧と冷気が手を組んで容赦なく肌にまとわりついてくるのだ。
最初の数日は、正直、心が折れかけた。
(……これ、拷問じゃない?)
毛布から出るだけで勇気がいるし、土間の床は冷たすぎて素足では一秒も耐えられない。
王宮の朝なんて、暖炉は完璧に整えられていたし、起きたらすぐ温かい飲み物が出てきた。
それが今では、息を白くしながら自分で薪をくべ、火を起こすところから一日が始まる。
でも、不思議なことに。
二週間も続けていると、この寒さすら「朝の合図」みたいに感じるようになってきた。
冷たい空気を吸い込むと、頭がすっと冴えて、
「さあ今日も始まるぞ」と、体が勝手に動き出す。
ゼン様の朝は、とにかく早い。
私がまだ半分寝ぼけ眼で土間に立つ頃には、もう彼は仕込みに入っている。
包丁の音、竈に火を入れる音、湯が沸き始める低い唸り声。
それらが静かに重なって、灰庵亭の朝が形を持ち始める。
私はというと、相変わらず野菜担当だ。
……いや、「担当」と言うと聞こえはいいけれど、実際のところ、最初は本当に悲惨だった。
特に葉物野菜。
帝都では、下処理済みのものしか触ったことがなかったから、土付き、虫付き、露付きの野菜を前にした瞬間、思考が止まった。
「……これ、どこまで剥くんですか?」
「根は残す。葉は洗いすぎるな」
「えっ、虫が……!」
「生きてる証拠だ」
証拠とか言われても!!
初日は、洗いすぎて葉を傷めるわ、
切り方が揃わなくてゼン様に無言で睨まれるわ、
寒さで手がかじかんで包丁を落とすわで、散々だった。
それでも、毎日触っていると、少しずつわかってくる。
この葉は外側が硬いから落とす。
この根菜は皮を薄く残したほうが香りが出る。
霧樹林の近くで採れた野菜は、水を吸いすぎないように注意する。
そういう“理屈じゃない感覚”みたいなものが、手に残っていく。
朝の厨房は、静かだけど忙しい。
竈の火加減を見ながら、
鍋の位置をずらし、
水の音を聞き、
外の風の強さを感じる。
ゼン様はほとんど喋らない。
でも、火を見て、湯を見て、野菜を見ている。
その背中を見ていると、「料理している」というより、
この場所全体と呼吸を合わせているみたいだ。
(……これ、真似できる気がしない)
そう思いながらも、私は私なりに必死だった。
野菜を刻む速度は、最初の倍くらいにはなった。
包丁を握る手も、前より安定している。
寒さで震える指先も、最近は少し我慢できるようになった。
たまに失敗もするけれど。
切りすぎて怒られたり、
焦がしかけて慌てたり、
水をこぼして床を濡らしたり。
それでもゼン様は、
「……次は気をつけろ」
それだけ言って、仕事を続ける。
怒鳴られない。
追い出されない。
「王女様だから」と甘やかされもしない。
その距離感が、今の私にはちょうどよかった。
寒い朝の厨房で、
野菜の青い匂いや薪の煙、あたたかい湯気に包まれながら私は思う。
(……私、ちゃんと“ここで生きてる”)
少なくとも朝が来て、
寒くて、
手を動かして、
失敗して、
それでもまた次の朝が来る。
その繰り返しの中にいる自分が、少しだけ誇らしかった。




